第1話 その王子、恋に落ちる
闇夜は俺たちを隠し、逃亡の手助けをする。もっと遠くへ行けば、誰も追ってはこない。早く、国外へ、逃げるんだ――。
彼女の手を握り締め、森を進む。国直属の衛兵に待ち伏せされていない事を祈るばかりだ。
フクロウの鳴き声にも、風が木々の葉を撫でる音にもびくついてしまう。
とうとう体力の限界を迎えたのか、彼女の足がもつれた。俺の足も止まり、肩で息をする。
「ごめんなさい、セレート様。先に行って」
「駄目だ、二人一緒じゃなくちゃ」
「でも、私では足手まといになっちゃうもの」
「一人では置いていけない! ローラの身の安全が……国を裏切った意味も無くなってしまう」
ここに来て、初めて彼女――ローラが涙を流した。まるで月明かりを映したかのように煌めいて見えた。
「セレート様、ありがとう。ここで挫けちゃ駄目だよね」
僅かに点った微笑みに、大きく頷いてみせる。
「行こう。夜が明ける前に国を出よう」
これは婚約者を破滅させた代償だ。改めて手を取り合い、国境を目ざした。
ローラと出会ったのは約一年前、俺の婚約発表の時だった。
国王である父は、高らかに宣言をする。
「セレートとイリアの婚約を正式に認める」
隣では豪華な青色のドレスに身を包んだ公爵令嬢――イリアが俺に微笑んでいた。金のその瞳はまるで俺の心を見透かすようでもある。
第二王子である以上、俺は国王にはなれないのだろう。これは王家と公爵家の政略結婚だ。分かっているのに、心に決めた人も居ない為、反発する事すら許されない。周りに高圧的な視線を向けるイリアに、俺は笑う事が出来なかった。
そんな時、俺を見詰める視線に気付いたのだ。
不意にそちらを見てみると、深い海色の瞳に心を射抜かれた。目が合ったと気付くや否や、その女性は視線を横に流す。
これが一目惚れというものなのだろうか。心臓はやけに高鳴り、頬が熱くなる。俺はイリアよりも、その女性を目で追うようになっていた。
婚約発表という場なのに。何故、以前に彼女と出逢わなかったのか。自分を恨めしく思うしかなかった。
その晩の事だ。国王に呼び出され、イリアに対する態度は何だ、と問い質された。
「俺はイリアをぞんざいに扱うつもりはありません。ただ……」
「何だ」
「兄上が、羨ましいと思ったのです」
第一王子である兄は、隣国であるライカ国の王女と恋に落ちた。政略結婚ではない。純粋な恋愛結婚だ。
立場も対等である為、文句を言う者は誰一人として現れなかった。
「兄の事は考えるな。お前はお前の人生を生きろ」
「情も無いイリアと結婚する事が、俺の人生だと?」
「そうだ」
否定する事もなく、悪びれる振りすらなく、淡々と国王は自分の考えだけを述べる。
「父上とは言え、俺の人生を勝手に決めないで頂きたい」
「今更なんだ? 婚約発表は済んだのだぞ?」
初めての僅かばかりの抵抗にも、国王は眉すら動かさない。これ以上話しても埒が明かないだろう。そう悟った。
「もう良いです。おやすみなさい」
肩を落とし、玉座の間を後にする。俺を引き止める者は誰も居なかった。
後に知った。あの深い海色の瞳を持つ女性は男爵令嬢だと。王族と男爵令嬢では、身分がつり合わない。婚約者が居なくても反対される事は目に見えていた。しかも、あの冷淡な性格の父だ。俺と彼女を引き離す為には、手段を選ばないだろう。
俺はシンプルな貴族の服装に身を変え、城を抜け出した。金髪は目立ってしまうが、人目に紛れれば王族のそれとは見分けはつかない。瞳の色だって、ありふれた緑色だ。誰も俺が王子だとは気付くまい。
高を括り、王都の貴族街を歩く。
侍女を通じて仕入れた情報では、男爵令嬢の住まいは此方で合っている筈――。
閉じられた門の前で佇んでいると、一人の淑女に話し掛けられた。
「貴方、男爵のお知り合い?」
「い、いえ。そういう関係ではありません」
慌ててその場を取り繕うと、淑女はほっとしたように吐息を吐いた。
「此処の男爵、爵位を取り上げられるらしいの。近付かない方が身の為ですよ」
「爵位の……剥奪……?」
まさか、俺が令嬢に目を付けたから――そんな思考に囚われたが、彼女と会ってから、まだ日は浅い。父にも気付かれていない筈だ。
では、何故なのだろう。
俺が焦りと不安に苛まれる中、淑女はすれ違い、離れていってしまった。近くには他に人影は無い。
俺はどうすべきなのだろう。
呆然と立ち尽くす中、ただただ時間だけが過ぎていった。
太陽は角度を増し、燦々と辺りを照らし出す。此処に居ても仕方が無い。そろそろ城に帰ろう。
溜め息を吐き、帰路へ足を向けた。
そちらから、腰まで揺蕩う茶髪の女性が走ってくる。深い海色の瞳――間違いない、彼女だ。
会う為に此処までやってきたのに、声を掛けるのを躊躇ってしまった。
彼女は泣いていたのだ。
「……君!」
何とか声を振り絞る。
俯いていた女性ははっと此方を向くと、頬を薔薇色に染めた。
「お、王子様?」
まさか、一瞬で気付かれてしまうなんて。『運命』という言葉が頭をチラついた。
「そんな筈は無いでしょう?」
慌てて場を収めようとしたが、声は震えていただろう。
「そ、そうですよね。婚約発表の時に見た王子様に、あまりにもそっくりだったので……」
「そんなに似ていますか?」
「はい、お声はお聞きした事がないので分かりませんが」
彼女も確信を得て言ったものでは無かったらしい。安心しつつも、偶然かと悔しい感情も持つ自分が居る。
「俺はまだ、王子様にはお会いした事がなくて」
「ですが、そのお姿は貴族ですよね?」
「実は、辺境伯の息子で」
「そうなのですか……」
呟きながら、彼女は鼻をすする。
「それより、貴女はどうして泣いているのです?」
「私の家が……取り潰しに……。幼馴染に助けを求めに行ったんですが、取り合ってくれなくて」
「何故、取り潰しに?」
「父が無実の罪を。王命に背いたとかで。でも、詳しくは分からないのです。父があまりにも塞ぎ込んでしまっているので……」
確実に裏で父が動いている。そう予感させた。
「貴女のお名前は?」
「私は……ローラです。貴方は?」
聞かれ、戸惑った。偽名なんて考えてもいなかったのだ。
「セレストです」
飛び出した名は、ほぼ本名と言って良い程似通っていた。あまりにも雑だ。
それなのに、ローラは初めて笑顔を向けてくれた。
「お名前もそっくりなんですね」
「名前の事は……良く言われます」
良かった。バレてはいないらしい。苦笑いを返し、頭を掻いてみる。
「俺の父も丁度王都に来ていて。何か力になれるなら、手助けしてみせます」
「本当ですか……? 殆ど見ず知らずの私たちの為に。ありがとうございます。なんて言ったら良いのか……」
涙が止まっていた筈の瞳は、再び潤んでいく。その様があまりにも美しかったので、思わず見惚れてしまった。