第八話 思い
今になってみれば過去を遠く感じる。積み上げられた自分という歴史のなかで、自分の人生を大きく決めることとなった出来事さえも、はるかに小さなことであるように思えてしまう。
いろいろなことがあった。たくさんのつらいことがあった。そのうえで、苦しみ、寒さに打ちひしがれて、誰もいない空間のなかで意識を失った。
もうこれ以上、俺に失うものなんてないはずだった。
実の両親に、片方ずつ手を離されたことを強く憎んでいた。
三人で暮らしていたはずの家族から、まず一人が自分勝手な理由で抜けていった。それから一年ほどで、もう一人が俺を全く見知らぬところに置いていった。気づけば、俺は一人きりで取り残されてしまっていた。
児童養護施設の部屋に備え付けられた二段ベッドが、俺の唯一の居場所だった。手を伸ばせば届く距離にある天井には、以前の住人がつけたと思しき落書きがあった。もともと意味のあることが書かれていたのを、上から塗りつぶしたような感じだった。その下に書かれていたものがなんだったか、今でさえもよくわからない。
とにかく、そこにいる子供たちには、それぞれの事情を抱えながら生きていた。
俺は、そのなかでも特に扱いづらい子供だっただろう。なにせ、誰ともまともに交流せず、職員に対しても冷たい態度をとっていたからだ。
よくわからなかった。気持ちの整理ができないままそこにいた。三人でいたときより、世界はずっと暗かった。晴れの日だろうと常に暗雲が立ち込めているような気分で、変わらず時間が過ぎていくのに心が追いついていかなかった。
おぼろげに、幼き俺でも理解していた。自分は捨てられたのだということ。もうあのような時間には戻れないのだということ。生まれたときから存在する親子という関係が、生きながらにして失われるなんて信じられなかった。そんなにもろい関係だったなんて、普通の毎日が消失してしまうなんて、考えたこともなかった。
そのショックとあえて正面から向き合わないようにしているうちに、いつしか人と触れ合うことができなくなった。殻のなかにこもって、なんとなくやりすごすことだけが自分を守る術だったのだと思う。
(初めまして。明人くん)
だから、義両親と初めて会ったときも、どこか遠くから見ているような感覚だった。
(君を迎えに来たんだ。一緒に暮らそう)
(……)
誰だ、こいつらと思った。親戚だのなんだの言われても、心に響くものはなかった。
俺一人の空間に足を踏み入れようとしているような気がして、邪魔だと率直に感じた。
どうでもよかった。無視しつづけたが、何度も何度も会いに来る。突っぱねつづけることにも疲れてしまったので、最終的には彼らの提案を受け入れることにした。
もっとも、本当は自分のなかに期待している気持ちがあったのかもしれない。素直になりきれていなかったが、自分を思ってくれる存在がいることは間違いなくうれしいことだった。少なくとも、俺は「面倒だから」という理由をつけて義両親とともに暮らすことを選んだのだ。
だが、一緒に暮らすようになってもなお、俺は心を開くことができなかった。
また捨てられてしまったらどうする?
そのときに、俺は耐えることができる?
無理だ。絶対に無理だ。
自分のなかで明確な問答をしたわけではないが、おぼろげにそんな結論だけが心を支配していた。誰に対しても閉ざしたまま、日々をやり過ごしつづけた。
そうしていつのまにか時は過ぎ、高校を卒業した俺は、進学せずに働くこととなった。早く家を出て一人で暮らし、また自分の殻のなかに閉じこもりたかった。幸い、働き口もすぐに見つかったので、迷う必要はなかった。
連絡をほとんど断ち、数年間はそれでもうまくやっていた。だが、ある日その一報が俺の元に届いた。
(交通事故です)
電話をかけてきたのは警察だった。身元を確定するために、警察署に来て確認してほしいということだった。
即死だったという義両親の遺体を見たときのことは、今でも忘れていない。
なによりも重く冷たい現実が、そこに広がっていた。
自分から距離を置いたはずなのに、なんで気が狂うほど心が痛くなるのだろう。実の両親に捨てられたときよりもはるかに痛い。呼吸ができない。立っていられないほど足がぐらつく。
心を閉ざしていたつもりだったのに、いつのまにか俺は二人のことを大切に思っていた。
そんな事実を、もうどうしようもないときに至ってようやく理解した。
もっと早く気付いていれば。もっとちゃんと二人と向き合っていれば。
でも、すでに手から零れ落ちてしまった。遺品のなかで、唯一三人で撮った写真をこっそり家に持ち帰り、一人きりの部屋に戻ると、ああ、自分は一人ではなかったのだと理解した。相続の手続きを終えたころには、俺は抜け殻のようになってしまった。
あの日々に帰りたい。四畳半の今際のときに、手を伸ばして、義両親に語り掛けながら、俺は性懲りもなくそう思った。