第七話 夏休み
終業式が終わり、夏休みに突入してから俺は歌島と一緒に宿題をしていた。
「う~ん、ここわかんない」
漢字ドリルを見せてきた。俺はすぐに正しい字を書いた自分のドリルを見せる。
「むずかしい……」
「ま、慣れだろ。書いていればそのうち覚えるさ」
テーブルのうえには、つまめるようなお菓子がたくさん置かれていて、冷たい麦茶の入ったコップが二つ並んでいる。
ここは、歌島家のなかだった。どうやら一緒に宿題をするという話をしたところ、歌島の両親が快く家を使ってくれと言ってくれたらしい。おまけに、お菓子や飲み物まで出してくれたのだから感謝しかない。
歌島家の両親は非常に優しい人物だった。もともと交流がなかったから、どんな人たちなのか知らなかったが、こんな俺に対しても丁寧に接してくれた。
(あの子と仲良くしてくれてたなんて知らなかったわ。あの子、そういうこと話してくれないんだもの)
初めて家に上がったとき、挨拶をした俺に歌島母がそんなことを言った。もっとも、仲良くなったのはつい最近のことだから、知らないのは当たり前のことである。
「山村くんは、どうしてなんでもできるようになったの?」
急に、歌島が訊いてきた。
「ん?」
「お母さんがほめてた。すごくしっかりした子だねって」
ろくでもない人間ではあったが、小学生よりはマシな対応ができる。こんなことで誇らしくもなんともないが。
「別に俺はなにもできない。誰でもできることが、たまたまこの段階でできるというだけだ」
神童もた二十でただの人になるというような言葉があるけれど、そもそも子供には「あれはできない」「これもできない」と決めつけて低く見すぎているだけで、大人になればできることを子供もできるということなんだろうと思う。今になってみるとそういうことがわかる。
「漢字も計算も、なんでもわかるんだもん」
「言っただろ、慣れだって」
「そんなに勉強しているの?」
今さら小学校の勉強なんてやるわけがない。かといって、俺がおろそかにしてきたこれから先の勉強だってやるわけがない。この世界がこれから先もつづくと確定しているわけでもないのに、そういったことをやろうなんて気にはならなかった。
あくまで大人が小学生の知識で優位に立っているだけである。
「歌島よりはしているってことなのかもな」
「ドッジボールも強かった」
「あれは、偶然うまくいっただけだよ。そんなにいつもいつも勝てるわけじゃないさ」
「ふぅん」
運動神経については、もともとよかったということかもしれない。ちゃんと真面目に運動したことはなかったので、当時はわかっていなかったけれど。
「少し休もうか。ぶっつづけだったし」
「うん」
テーブルのお菓子をつかんだ。包装された一口サイズのチョコレートを口に放り込む。
なにもしなければ数週間以内に死んでしまうとは思えないほど平和な空間だ。いったいどうすれば俺は彼女を守り切ることができるだろうか。なるべく一緒にいるようにはしているが、確実に守れるという状況には至っていない。
「歌島」
「どうしたの?」
俺が真剣な表情に変わったということに気づいたのか、歌島がまっすぐこちらを見てきた。
「俺はさ、未来がわかるんだよ」
「未来?」
うなずいた。窓の外に視線を移して、隙間から風が吹きつけるのを肌で感じた。
「明日のこととか、さらにその明日のこととか。なにが起こるかわからないだろ。でも、俺には少しだけわかるんだ。いいことも悪いことも知っている」
あんまり興味がわかないのか、歌島はぽりぽりとせんべいをかじっていた。零れ落ちたカスが服のうえについてしまっている。
俺は、手で払うようにジェスチャーで示しながらつづけた。
「本当だ。全部わかるわけじゃないけど、ちょっとだけならわかるんだ。そうだな、よくわからないなら、占いみたいなものだと思ってくれればいい」
「ラッキーアイテムとか星座とか……」
「そんなもんだ。だから、俺には歌島の未来も少し見える。その結果、歌島は宿題を早く終わらせたほうがいいとわかったわけだ」
「宿題を早く終わらせないとどうなっちゃうの?」
「ずっと終わらなくて、二学期に先生にイジメられる」
「え~!」
信じたのか信じてないのかわからないが、マヌケな顔で叫んでいる。
「それはさすがにかわいそうだ。だから、宿題をやろうって言ったわけさ」
「わたし、宿題を忘れたことないのに……」
「体調を崩すからできなくなる。北海道に行ったときに、遊び疲れてしまったんだろう。だから、旅行に行く前には終わらせないとな」
「そうなの……? つらいのは嫌だな」
「それと、もう一つわかっていることがあるんだ」
「え? なになに!?」
どうやら多少は信じてくれているようだ。こんな嘘が役に立つなら、非常に助かる。
「北海道に行く前に、むやみやたらと外を出歩いてはいけないよ。なぜなら、さっきも言ったように体調を崩す可能性がある。今、歌島はそういうことになりやすい状態なんだ」
「カゼひいちゃったら、旅行に行けない?」
「そう。だから、旅行に行きたいなら今は大人しくしていたほうがいい」
「う~ん」
困っている。夏休みという楽しい時間に、家で大人しくしていろというのは酷なのかもしれない。まして、本当にそうなると確定しているわけじゃないのだから、なおさら守る気にならないだろう。
「嫌か?」
そう尋ねると、歌島は指を口元に当てて首を傾げた。
「お父さんとお母さんと、一緒に出かけたいな。外で食べに行くこともあると思うし」
両親同伴なら危険性は薄いか。一人にならないのであれば、さらう隙もない。
「それくらいなら別にいいんじゃないか。ただ、歌島一人でどこかに行くことはよくない」
「わたし一人で? ラジオ体操くらいじゃないとそんなことしないよ」
「ラジオ体操……」
そうだ。俺が死ぬときには廃れているが、この時代は公園でラジオ体操が行われている。持っているカードに、一定以上のスタンプを押してもらわないといけないのだ。
「明後日からだっけ、始まるの」
「……そうだな。俺も参加しないといけない」
公園は、この近辺から歩いて五分ほどの位置にある。そのときに歌島をさらうことも不可能じゃない。
「一緒に行こう、ラジオ体操は」
「でも、起きられなかったときに待たせちゃうし……」
「そのときはそのときだ。俺は気にしない。そして、俺が寝坊することはない」
「うん。わたしはいいよ」
かなり強引に押し切ってしまった。とはいえ、この選択の一つ一つに命がかかっている可能性があるのだから、悠長にはしていられなかった。
「それも、占い?」
「そうだな。一人でいるより、二人でいたほうがいいみたいだ」
「なんだか、ボディーガードってやつみたい」
実際その通りだ。子供の体だから不安はあるものの、俺以外に歌島を守れない。自分の人生においてなに一つ成し遂げられなかった俺だから、念には念を入れて徹底的に可能性をつぶしていかなければならない。
この静かな街のなかに、歌島を殺すことになる人物がいる。突発的な犯行だから、もともとは殺人なんてしないような人だったのかもしれない。風が吹けば桶屋が儲かるというように、いろんなめぐりあわせが彼らを最悪の形で遭遇させてしまったということなのだろうか。
でも、今は、すべてが元の状態に戻ってしまった。
たくさんの因果がからみついているなかで、俺というちっぽけな異分子が紛れ込んだ。それだけのことで、多くの人の人生を変えたような出来事を覆すことができるのか。
「山村くん、怖い顔してる」
歌島に指摘されて、俺はハッとした。まだ表情のコントロールがうまくできない。
「悪い。そろそろ再開しようか」
「えー」
「どのみち今日やらなくちゃいけない量は変わんないからな」
渋々といった感じで、歌島がドリルに向き直る。明確な日程が分からない以上、いつなにが起こってもおかしくない。そのときに対処できるように、できることをすべて準備しておかなければ。