第六話 友達
学校のなかにも、数人ではあるが友達ができつつあった。
「消しピンやろうぜ」
すっかり忘れていたが、小学生のときに消しゴムをはじいて相手の消しゴムを机から落とすゲーム――いわゆる消しピンが流行っていた。この数日は、俺もそのゲームに参加していた。
特に俺が仲良くなったのは、森口というサッカー少年である。正直なところ、過去に戻る前の時間軸ではその存在をあまり認知していなかった。森口は、いつも仲のいいやつを誘って、休み時間のたびに消しピンばかりしていた。
「おら! スーパースピンアタック!」
森口が消しゴムの端のほうを指ではじいて、くるくる回転させながら俺の消しゴムにぶつける。俺の消しゴムは、机の際にまで移動させられたものの、まだ落ちずにすんでいる。
「ったく」
今度は俺の番だ。死んだときにアラフォーだった俺が、今さらこんなゲームに熱中することはない。ないが、負けるのも癪なので、角度や距離を見極めて思い切り指ではじいた。
「おぉおお」
「ふん、こんなもんだ」
机の中央あたりまで戻った俺の消しゴムが、森口の消しゴムを勢いよく弾いた。そして、そのまま机の端から落っこちてしまう。
次は、隣の西岡の番だ。西岡の弾いた消しゴムは俺のものに当たるも、そこまで飛ばすことができなかった。その次の広野が俺と西岡の消しゴムに同時に当てて、場外へと押し出した。
「ちっ、くそ。まぐれ当たりがよ」
「まぐれじゃないよ。狙ったから」
「調子に乗りやがって……」
あくまで消しピンごとき子供のゲームに熱中することはないのだけど、この小学校の教室に埋没するには、こういうことが必要だ。とはいえ、案外面白いゲームではあるから、子供がはまるのも無理はないと思った。俺は言った。
「もっかいだ」
「いいぜ」
ただ、このゲームに関して言えるのは、持っている消しゴムの性能が大事である。今の俺の消しゴムは通常サイズで、形は普通の直方体だ。特別、有利となる要素がない。
結局、やたらとでかい消しゴムを使っている広野にあっさり負けてしまった。
「この借りはドッジボールで返してやる」
「ムキになりすぎだろ、おまえ……」
ムキになっているのではない。これは、子供としての演技である。
しかし、自分でも思ったよりも小学生の男の子たちと親密になっていて驚く。自分の精神年齢は決して高くないと自覚しているが、もともと人と仲良くしてこなかったから、新鮮に感じて楽しめるという側面もあるのかもしれない。
「おまえがこんなやつだとは思わなかったぜ。もっと嫌な奴かと思ってた」
と、森口が率直な意見をぶつけてきた。森口はかなり気安いやつで、急にドッジボールに参加したり消しピンに加わった俺を、違和感なく受け入れてくれた。
「俺にもいろいろあるんだよ」
「なんか、でもお前は変わってるよなぁ……」
「そう?」
「学年の違うやつと話してるみたいになるからな。うまく言えねえけど」
そう言って、自分の席に戻っていった。すぐに先生が入ってきて朝の会が始まる。
小学校の生活で難しいのは、退屈を我慢することだった。
学校の授業は、あまりにもつまらない。別に過去の人生でまじめに勉強してきたわけではないが、さすがに小学校のカリキュラムくらいは網羅している。そのうえで、子供の価値観とは当然合わないところも多く、皆が笑っている場所で仏頂面してしまうことがある。
――こればっかりはどうしようもないな。
当然、逆のことも言える。向こうからしてみれば、三十代後半で底辺生活を送りながら野垂れ死んだ人間の気持ちなどわからないだろう。まして、キラキラとした人生を夢見がちな小学生にとっては異世界レベルの存在のはずだ。
なんとなく、子供が路傍で寝ている人を笑ってしまうように、四畳半という人が住むには狭すぎる部屋で、エアコンすらつけられずに凍えるようにうずくまるなんてこと、冷笑されてしまうかもしれない。
人生になにもいいことなんてなくて、苦しみの果てに死を迎えるなんてこと。
誰にも心を預けられないまま、すでに失ったものばかりを考えていたなんてこと。
――どうせ、誰にもわかってもらえない。
その瞬間、自分の思考が、自分を絶望に陥れたものになっていることに気づいた。こうやって他人に壁を作った結果、あのような人生を辿ったわけなのに、人は簡単に変わらない。
――大丈夫。今度こそうまくやるんだ。
授業が終わったあと、俺は立ち上がった。
「歌島」
黒板がすでに消されはじめているのに、まだノートをとっている。俺は、自分のノートを歌島の机に置いた。ペンの動きを止めて、歌島が顔を上げる。
「使えよ」
退屈しのぎで、ノートはちゃんと作っておいた。歌島は、俺のノートを手に取り、ぱらぱらとめくる。
「あ、ありがと……」
「いいんだよ、別に減るもんじゃないし」
「うん」
心と体が分離する。まだ心の整理はできていないのに、義務感で動いている。
だが、心に片が付くのを待っていたら、時機を逃してしまう。とにかく今は、歌島の信頼を勝ち得て、なるべく夏休み中にそばにいて、歌島を守ることが必要だ。
「書き終わった。でも、山村くん。字下手だね」
「……あんまり文字を書くのは得意じゃないんだ」
「あ。でも、全然読めたから大丈夫!」
小さいころからまともに授業を受けてこなかった。勉強もしてこなかった。となれば、文字がうまくなるわけがない。これでも子供よりはましだと思っていたが……。
「もうちょっと丁寧に書くようにするか……」
確かにクセが強いことは自覚している。よく考えれば、ノートを人に見せるなんて人生初の経験だ。
猶予はあまりない。歌島を救うことは、俺がこの世界で新たな人生を勝ち得るための試金石であるような気がしていた。
* * *
歌島生美という少女は、俺が小学四年生のときに殺された。
あまりにも突然なことに、一匹狼だった当時の俺にも大きなインパクトを与えた。直接死体を見たわけでも、殺害現場に居合わせたわけではなく、そうなったのだという事実だけ俺は聞かされることになった。
蒸し暑い日がつづくなかで、太陽も煌々と照る夏休みのなかで、急に人の命が奪われたなんてこと、すぐには信じられなかった。だが、実際に歌島生美の姿はそのときから見ることはなくなり、学校の席においてもずっと空席のままだった。
しばらく集団登校・下校が義務づけられ、通学路の至るところにPTAの人たちが立っているという状況だった。楽しくはしゃいだり、笑ったりしてはいけないかのような空気が流れていて、息苦しい雰囲気だったことを覚えている。
――ま、こんな世界だよな。
自分が心をより閉ざすようになったのは、この出来事も関係している。
――そうだ、いつかはこうなるかもしれない。
人は死ぬんだ。どうせ死ぬんだ。裏切る人もいれば、無残に死んでしまう人もいる。
そこは神様とやらの匙加減であって、どうしようもないことだ。たとえば、俺を拾った両親だってどうなるかわからない。そのとき、彼らの愛情に包まれてしまっていたら、俺はもう耐えることなんてできないだろう。
だが、俺はあとで思い知ることになる。
心を閉ざしていたつもりでも、義両親の存在はすでに俺のなかで大きいものになっていた。死んでしまってから、自分の抵抗にはなんの意味もなく、ただただ得られるはずだったものを手に入れられなかっただけのことだと理解した。
――もう二度と、あんな目に逢うものか。
これが過去に戻ったということならば、俺はここからまたやり直すことができる。