エピローグ2
時は過ぎていく。初めて過去に戻ってから危惧していたこともまったく起こることはなく、実際の自分だけが分離されて、幼少期の出来事に囚われることもなかった。俺は、着実に自分で選び取った道を進んでいった。
俺は、優秀な成績で大学を卒業し、内定をもらった某企業に就職することになった。もっと頑張れば、国家公務員や士業という選択肢もあったのかもしれないが、そうするよりも無理のない範囲でお金を稼ぎ、多くの人と一緒にいることのほうが大事だと思った。
両親の交通事故が起きた地域からはすぐに引っ越しをさせて、今は互いに近い距離に暮らしている。るいも、大学進学を機に両親についてくる形で近くまでやってきた。
生美とは卒業してから一年後に結婚した。
それから特に、身内に不幸はなく、穏やかな日々を過ごした。おそろしいことに、前の人生を含めると爺さんとなる年齢だ。時が経つのは、歳をとればとるほど速く感じる。今の状態に至るまで、振り返るとあっという間だったと思う。
ふっと、我に返るように自分の足元を確認したくなるときがある。
それは、うららかな春の日に、ソファに座りながら窓から差し込む日差しを浴びているときだった。休みの日。実家のリビングのなかで俺は一人だった。
定期的に、両親に孫の姿を見せるために実家を訪れている。生美の両親は遠方にいるので、うちの両親ほど会いに行けないが、そちらにも大型連休のたびに顔を見せている。
たまにこうやって、なにもせずにいると、いろんなことを思い出す。これまでにあった出来事のすべてが、今の幸福な日常につながっていて、どんな苦しいことであったとしても、必要なことであったと肯定できるのだから不思議なものだ。
自分以外のすべて、時が止まってしまったのかと思うほどに音がなく、空気がゆったりと動いている。忙しない毎日のなかで、こういう時間があることがとてもありがたい。
俺は、立ち上がった。
そして、前の家と同様に、丁寧に置かれた写真立ての前に向かった。
高校生のときに並べられたものよりも、その数は倍になっている。今は、写真を現物として残すのではなくデータ化できるけど、俺も両親もそういう形で残すことを好んでいた。そして一番左端には、例のごとく、初めて両親と会った日の光景が映されている。
「……」
長いときが経ち、またその写真を見ると違った感慨になる。四畳半の部屋で、孤独に死を迎えたときと同じ年齢になり、そして、ほんの数か月ほどそれよりも長く生きている。あまりにも異なった軌跡を描き、この地点に俺はいる。
あのときの死因がなんだったか今でもわからないけれど、健康的な生活を送っているためか異変は起きていない。俺自身、あの死を避けるために健康には気を使っていたから、それが功を奏しているのかもしれない。
四畳半の部屋には一枚しかなかった写真が、今はたくさん残されている。
高校生以降になってからも、俺たちは大事な時間を、少しずつ写真として残した。るいが中学や高校に入学したときの写真、俺と生美が結婚したときの写真、子供が生まれて家族みんなで祝っているときの写真。
あれだけ空虚だった人生が、これだけの彩りを得た。いつも真っ暗で、絶望のなかにあったのに、輝き、笑顔に満ち溢れた人生へと変わった。これは、俺だけの力ではない。たくさんの人との絆を大切に守り、みんなで作りあげた光景の数々だった。
どうして失われてしまったはずのものを取り戻すチャンスを与えられたのか、今でもわからない。考えたところで答えは出ないのだと思う。
ただ、ここに映る人たちはみな、本来、不幸とともに人生を歩んでいたのだと思う。
生美やその家族は、小学校のときの悲劇により、どん底に突き落とされた。
るいは、誰にも助けられることはなく、ろくでもない両親に苦しめられる日々に戻された。
両親は、俺に対する愛情への報いを得ることなく、悲劇の死を迎えた。
そして、俺もまた、すべてを失った悲しみに暮れ、寒さに凍えながら意識を閉ざした。
ちょっとした掛け違いで幸福な人生を狂わされたのだ。すべてがかみ合った今、これだけの幸福に満ちあふれている。それは、こうなる前には決して想像できなかったものだった。少なくとも、これらの光景を見るために俺は過去を飛び越えてきたのだと思う。
やがて、出かけていた両親と子供たちが帰ってきた。五歳の長男と四歳の長女が、リビングに入った瞬間に「ただいま!」と声を上げた。おもちゃを買ってもらったらしく、上機嫌だ。
「あら? るいと生美ちゃんは?」
俺は時計を見た。生美は、るいを車で迎えに行っている。
「そろそろ来ると思うんだけど」
それから五分くらいして、生美とるいが家に入ってきた。早速買ってもらったおもちゃで遊んでいる子供たちを見て、その表情が自然と緩んでいた。
「兄さん。途中でケーキ買ってきた」
るいの手には、大きな紙箱がぶらさがっている。どうやらそれで遅くなったらしい。
俺は、それを受け取りながら言った。
「おお、ありがとう。うちの子たちが喜ぶ。ええと、いくらだった?」
「これはあたしのおごり」
ちょっと驚いたので、間を置いてから「そうか」と返した。るいも、三十代に突入したのだし、もう子供扱いをすべきではないのかもしれない。
るいもまた大学卒業してから就職し、実家を出た。今は一企業の広報の部門で働いている。この家に来たばかりのころと比べて少し背が伸びて、だいぶ大人っぽくなったと改めて思う。
「……なに?」
じろじろ見てしまったからか、るいが困ったようにそう尋ねてきた。俺はなにも言わず、頭をポンポンと叩いた。
夜になり、食卓に料理が並ぶ、計七人分の食事となるため、テーブルが皿で埋め尽くされてしまっている。行儀の悪い子供たちに注意しながら、全員が椅子に腰かけて箸を持った。
こんな時間が、いつまでもつづけばいい。当然、老化には勝てないからいつか終わる時間ではある。けれど、まだこの幸福はつづいていくだろう。
「どうしたの? 明人?」
ぼうっとしている俺に、生美が話しかけてきた。
俺は、隣に座る生美のほうを見た。
結婚して、一緒にいながら、お互いに年老いていく。緩やかに、終わりに向かってこの輝かしい幸福がつづいていく。それはなんて甘美な時間なんだろうと思う。生美は、俺を見つめ返しながら、ふふっと小さく笑った。
「どうせ、昔のことでも思い出していたんでしょ」
そのとおりだ。俺はごまかすように、唐揚げに箸を伸ばした。それから言う。
「どちらかというと、これからのことを考えていたんだよ」
別にウソではない。過去のことと、未来のことを同時に考えていた。
働きながら子供を育てることも、自分や両親の老化に備えて生きることも簡単ではない。きっと、これから先も大変なことはいくらでもある。いいことばかりが起こるわけでもないだろうし、つらい思いを抱えることもあるかもしれない。
それでもなんとかなると思えるのは、幸福な光景が俺の胸に根差しているからだ。
輝かしい日々が積みあがって、希望となって、この現実を生き抜くことができる。そのために、今のできる限りを尽くして、よりよい未来を勝ち取っていこうと思える。すべての過去を糧として、新しい青写真を描いていくことができる。
俺が、そんなことを考えていると、生美がまた俺のほうを向いた。
そして、「明人の思う未来はきっと当たるもんね」とほほ笑むのだった。
最後までお読みいただいた皆様、ありがとうございました。




