エピローグ1
だいぶ遠くまで来てしまったので、家に帰るまでに一日以上かかった。反省点は、あまりにも持ち金がなさすぎて、途中から歌島の軍資金にすべて頼りきりだったことである。着替えもろくないし、泊まるところもラブホだったし、今考えると本当に無茶なことをしたと思う。
ちなみに、一月一日の夜の宿も、ラブホだったが、そういうことはしていない。
家に着いてすぐ、両親に謝罪をして、泣くるいをなだめなければならなかった。
「いろいろ混乱していたんだ。もう大丈夫だから、今までのことは忘れてくれ」
俺が病院で目を覚ましてから、今に至るまでのこともすべて覚えている。どうして、あんなふうになってしまったかという点については一つ仮説があった。
死んで十歳に戻ったとき、遡行した人格だけでなくもともとあった人格も残っていた。十歳の俺は決して消えることなく、俺のなかに存在していた。遡行した俺が好き勝手に行動するなかで、その人格の無意識の拒絶が限界に達して、いったんその関係が入れ替わったのだろう。
実際、今の俺のなかにもその人格がある。そもそも、自分も同じことを経験していたわけだから、他人ではなく、同じ過去に立脚した存在だ。自分のなかにあった苦しみごと取り払われた今、うまい具合に意思が共有され、混ざりあっているという感覚だった。
幸いにして、冬休みだったおかげで、学校に戻るまで準備期間がある。とにかく元の生活に戻るための地盤を固めることに腐心しなければならなかった。しかし、無理のしすぎが倒れた要因とも考えられるため、適度に力を抜く必要もあった。
あの日から、俺はたくさんの未来を変えてきた。そしてそれは、かつて存在していた自分さえも変えることになったということなのだろう。六年の間に細かに積み上げてきたもののおかげで、もともと存在していた未来に向かおうとしていた自分さえ、あるべき道に軌道修正させたと考えれば、上出来なんじゃないかと思う。少しは休んでいいのかもしれない。
* * *
新潟への旅を終えてから、一か月ほどが経った。
俺は、学校に復帰して、以前と同様に穏やかな生活を過ごしている。ところで、そのなかで一つ大きな変化があったことについても触れなければならない。
「おはよう」
駅で携帯電話をいじっていると、そんな声が聞こえた。俺はプラットフォームのベンチに腰かけながら、ゆっくり歩み寄ってくる人の姿を見た。
「おはよう、歌島」
俺はそう言って、立ち上がった。歌島は相変わらず朝に弱く、今日もギリギリの時間に駅に来た。すぐにアナウンスが響いて、電車が視線の奥にちらつく。歌島は、俺の横に立つと自分の腕を俺の右腕に巻きつけてきた。
「はぁ、あったかい」
反応をうかがうように俺の顔を見た。当然、通勤・通学の時間帯であるために周囲には多くの人がいる。俺はため息をついた。
「歌島」
「なに?」
「俺は、今メールを打っているんだ。これだと打てないだろ」
右手には携帯電話が握られていて、画面上にテニス部の矢部からのメールが映されていた。どうも、今日は顧問が来られなくなったので、自主練に予定が変わったようだ。返事を打とうとしても、腕がロックされているせいで動かない。
「……つい数か月前は、携帯さえ持ってなかったのに。そばにいるわたしより、携帯のほうが大事なの?」
「携帯買うのをすすめたのはおまえだけどな」
「もう。そうだけど~」
不満そうに声を漏らしてから、腕を離してくれた。ぱぱっとメールを打ち終えると、今度はすぐに電車が到着してドアが開いた。さすがに電車のなかで腕を組むことはせずに、いつもと同じドアのそばで立ち、二人で窓の外を眺めた。
「ねえ、明人」
歌島が、小さな声で言った。
「一緒に、二年生に進級できそう?」
ああ、そのことか。俺は、うなずいた。
二学期を丸々病院で過ごす羽目になったので、当然出席できていない。そのため、出席日数が足りなくなるところだったが、もともとの成績がよかったこと、学習態度が真面目だったことから、特別に措置してもらえることになった。三学期中に二学期の範囲のテストを受けて、合格すれば進級できる。
そのことを伝えると、歌島はほっとしたような顔になった。
「よかった……一緒に上がれそうだね」
「歌島のおかげだな、これは」
実際そうだ。歌島が俺をここに引き戻してくれた。巡り巡った因果が結実して、現在の俺があるのだ。
「歌島がいなければ、どうなっていたかわからない。過去から抜け出せないまま、いつまでもあそこにいたかもしれない」
「うん……」
歌島は恥ずかしそうにうつむいた。電車は、高速で走り抜けながらときに揺れて、ガタゴトと音を立てている。俺を追いかけて、説得をして、あの海に連れてきてくれて、ようやく俺のなかにあったものが軽くなった。俺が人生を二周してもなお、自分で解決できなかったものを解決に導いてくれた。それはとてつもなく大きなことだと思う。
リハビリはまだつづいているし、部活だってまだ万全に体を動かせる状態じゃない。俺の恥ずかしい姿を歌島にも森口にも見られてしまったし、学年一位だった学力もこれから補填していかなければならない。やるべきことは多いけれど、俺は不思議と倒れるまえよりもすがすがしい気持ちで生きることができている。
やがて、車窓にいつものように海が広がる。冬の海も、日差しの中で輝いている。
高校の最寄り駅に着いて、かすかに漂う潮の香りを感じながらプラットフォームに降りた。
「ねえ、明人」
呼びかけられて立ち止まる。俺は、「どうしたの?」と返した。
「生美」
一瞬、どういう意味か分からなかったが、すぐにその意味を理解した。俺は気まずそうに頭をかいた。歌島が、制服の裾をつかんだ。
「生美って呼ぶって約束した」
どうやら、周囲の人が少なくなるタイミングを見計らっていたらしい。やたらと甘えたような声で、頬をほんのりと赤くしながら言った。
確かに、三週間ほど前にそんな話をして、それきりちゃんと使えていなかった。たまにその呼び方をすることはあっても、慣れ親しんだ呼び方から変えるのはそう簡単じゃない。無意識に出てくるのはやはり「歌島」のほうで「生美」という言葉はなかなか出てこない。
俺は、ラケットケースを背負いなおした。
「結構ギリギリだから、早くしないと部活に遅れる」
裾をつかんでいた手が離れる。それから付け加えた。
「行くぞ、生美」
その表情が、ぱぁっと明るくなり、それから大きくうなずいた。
「うん!」
こういうとき、前の人生で恋愛経験が少なったことを嘆かざるをえない。俺自身、どういう表情を作ればいいのかわからなくなってしまう。
初めて、歌島……生美を助けたときからこんな関係になることなんて、まったく想像できなかった。だが、俺も自分自身の気持ちにはウソをつけなかったし、自分の選びたい道を、選んでいくのだという決意の表れでもあった。
次が最終話です、5/2の19時ごろに投稿予定です。




