第五十九話 温度
時間が止まったような感覚があった。
すぐ目の前に歌島さんの顔があって、お互いの息がかかるほどに距離が近い。さっきまで冷たい空気に触れていたその唇には、やわらかくて、温かいものが押しつけられている。
おかしいな。顔にさわられるのは嫌で仕方ないはずなのに、今はどこか心地いい。
物みたいに顔を触れた手の感触が、ウソみたいに消えている。
歌島さんの唇は少し涙に濡れていて、塩っぽい味がした。ただその唇を重ね合わせているだけなのに、歌島さんの体温も、込められた想いも、まとめて伝わってくるような気がした。
どれだけの時間をそうしていただろう。
やがて、その唇が離れた。さっきまで俺の口に当たっていた唇が、妙に赤く見えていた。
「もう一度、言うよ」
歌島さんは、頬に涙を伝わせ、目を細めながら言った。
「わたしは、明人のそばを離れない、絶対に」
そしてまた、その顔が近づけられた。今度は身構えていたのに、それでもやめてくれと拒むことはできなかった。
唇が触れて、また、甘い刺激が走る。不安も、怒りも、恐怖も、悲しみも消えて、唇から伝わる温度にだけ、俺の意識が傾いている。それと同時に、胸を締めつけていた痛みさえ、なにか温かくて、なめらかなものに変わっていく。
唇を離した歌島さんがほほえむ。
「わたしは、明人が好き」
ゆっくりと、一つ一つの音を丁寧に紡いでいた。
「だから、わたしは明人を裏切らない。一緒にいる」
どくどくと、脈打つ自分の鼓動が聞こえる。その表情から、そのまなざしから、目を離すことができなかった。
「一人にならなくていい。他の誰が明人を否定しても、わたしはそんなことしないから」
ずっとおびえつづけていた俺に、光を灯すような、手を差し伸べるような、どこまでも優しい言葉が俺の耳に響いていた。
まさか、こんなことを言われるなんて思ってもいなかった。
俺が、かつて歌島さんを助けたということで、恩義を感じているのだと考えていた。そうではなく、そこには全く異なる別の想いもあったということに、俺は気づいていなかった。
呆気に取られていると、歌島さんがつづける。
「もちろん、小さなころに助けてくれて、それがきっかけだった。明人は、いつも優しかったけど、どこかに暗いものを抱えていて、それと戦いながら懸命に生きていた。自分のことよりいつも他人のことを気にしていて、ときにぶっきらぼうだったり、冷たかったりしても、一つ一つのことを頑張っている姿を見て、好きになったの」
どうして、俺のことをここまで心配して、懸命に追いかけてくるのか。
どうして、こんな俺に対して、ここまで言葉を尽くして語りかけてくれるのか。
ようやくわかったような気がする。
「明人が、どんな過去を抱えていても、どんなに苦しんでいても、わたしはなにもできなかった。いつも、そばにいてそれを見ていることしか、できなかったの。だから、明人が困っているなら、わたしはなんでもする。身を粉にしても、明人を助けたいって思う。だから、わたしは今ここにいるんだよ」
人は裏切るという冷静な見方さえ打ち消すほどに、その想いが熱く、俺の元まで届く。
まるで体がそれを覚えているかのように、歌島さんの言葉をよどみなく受け止めようと、耳が抵抗を解いて、拒絶する意思を保つことができない。
「今の明人も、明人を形作る大事な存在なんだっていう確信してる。怖がる必要なんてなにもないの。わたしも、メールをくれたたくさんの人も、明人自身が築きあげてきたもので、簡単に崩れるものじゃない」
携帯電話のランプが、ちかちかと点滅している。俺は、それをぼんやりと眺めていた。
「……わからないよ、俺には」
髪をかきむしり、震える声を喉から押し出した。
「自分の心が、わからない。めちゃくちゃだ……」
今の俺に灯る、この不可思議な感情はなんなのだろう。
ほしいものなんてない。それで、失わないようにして生きていきさえすれば、もう苦しまなくていいはずなんだ。でも、この渇きは、胸に立ち込める熱は、どうして存在するのだろう。
俺のなかに、なにかがあって、そこから呼びかけられているかのような。
メールや歌島さんからの明人という呼びかけだけではなく、もっと自分の奥から芽生えるものがある。俺は、それを感じながら、呼吸を繰り返すしかなかった。
やがて、歌島さんが言う。
「海に行こう」
「え?」
もちろん、もともと自分が行きたがっていたわけだし、断る理由もない。だけど、その場所にたどり着くには、あまりにも遠すぎる。これ以上、あの過去の記憶を鮮明に蘇らせてしまったら、今自分のなかにある感情さえも崩れて行ってしまうだろう。
「無理だよ、もう」
俺は、自嘲する。拠り所としていた場所にさえ、自分一人ではたどりつくことができない。
しかし、歌島さんはかぶりを振った。
「大丈夫、わたしが連れて行くから。もう、明人は頑張らなくていいの」
顔を上げた。意味がわからない。歌島さんが、ようやく涙を拭いた。
「明人が引き取られる前に、おじさんとおばさんが、何度も施設に訪れていたんでしょ。だから、二人とも、それがどこなのかちゃんと覚えていたの」
「そう、か……」
ただ、それだけのことだったのか。確かに二人は何度も何度も、しつこいくらいに施設に来て、俺に話しかけてきた。そして一緒に暮らそうと、手を差し伸べた。
ああ、そういえば、俺はどうして結局その手を握ったのだろう。
ずっとうっとうしく思っていた。俺のなかに入り込もうとする二人を見ていて、心の底からその存在が邪魔だと感じていた。俺は一人でいるから、もう誰にも寄りかからないと決めて、心を強固に保っていたはずなのに、どうして二人の提案を受け入れたのだろう。
初めて、あの家に来て、光の差し込む部屋で目を覚ましたときのことを覚えている。
そこには俺の知っている海がなく、いつも空から降り注いでいた雪もない。
ただ、やわらかいベッドがあって、俺に優しく声をかける義両親がいて、食卓には彩り豊かな料理が並べられている。
おはよう、と声をかけられる。
俺は答えずに仏頂面を返すけれど、気にすることなく、二人がほおを緩ませている。
白い光が眩しい。こんなに明るい光を浴びていたら、目がつぶれてしまうと思った。
――俺は……。
毎日を、なんの痛みも苦しみもない、ただ暖かい家のなかを暮らす日々を、幾度となく繰り返した。この明るさに、この暖かさに慣れてはいけないと思いつつも、そこから出ることも、隠れることもなく、ただ黙ってそこにいることを選びつづけていた。
――本当は、もう、すでに救われていたのだろうか。
俺が少し笑顔を向けるだけで、その景色を自分のなかに受け入れるだけで、本当は、なにも恐れる必要のない日々を過ごすことができたのだろうか。
あの家で、いろんな景色を見た。
春に桜が舞い、夏に向日葵が咲き、秋に紅葉が落ちて、冬に枝が揺れた。小学校では、不自由なく走り回る同級生たちを、椅子に腰かけながら、窓越しに眺めていた。楽しそうな声が満ちていて、空には澄んだ青が広がっていた。
自分ではとうていつかめなかったもの。つかもうとすると、あの感触に否定されて、恐怖を抱かざるを得なかった。それをつかんでしまったが最後、俺は、今度こそ自分の弱い心を無防備にさらしてしまうことになる。そして、また同じことを繰り返し、自分という存在ごと焼き尽くされてしまう。
でも、それなら、初めからずっとあの施設にいればよかった。
それを選ばなかったのは、あの二人に無意識のうちに救われていたからなのかもしれない。
歌島さんが言った。
「一緒に行こう、明人……」
優しい声が、俺の耳に響いている。俺を初めに助けてくれたあの海のそばに行けば、また、自分の心の声を聞いてもらえるだろうか。たとえ、自力で行けなかったとしても、そのことに意味があるのだと俺は思った。
歌島さんが繰り返す。
「行こう……」
夜の遅い時間だが、元日だから交通機関は動いているだろう。俺はその言葉にうなずいた。




