第五話 過去の悲劇
結局、それからしばらくしても、小学生としての俺の生活はつづいていた。最初は信じられなかったけれど、過去に戻ったという蓋然性が高くなってきた。なにせ、世界は現実世界と同様に緻密に彩られていて、そこに住まう人々も自分の意思を持って動いていたからだ。
もちろん、急に過去に行くなんて超常現象が起こった以上、そこから先になにがあるかもわからない。だから、突然この世界が失われてしまうということもありうるのだけど、もはや今の状況を精一杯生き抜くしかないのだと結論づけた。
ただ、一つ困ったことがある。
「……ええと、どうだったっけ……」
俺は、学習机のまえで新品のノートを広げていた。時刻は午後九時で、すでに眠気が体を襲いはじめていた。いかんせん、子供の体は夜更かしに慣れていない。
それでも、今は目の前のことに集中しようと思った。
過去に戻ったのであれば、クソみたいな人生をやり直すことができる。そのためには過去に起こった出来事を整理して、自分にとってよりよい未来を目指して行動していく必要がある。
だが、頼りになるのは自分の記憶だけだ。
インターネットはまだ一般家庭に普及していない。そもそもコンピュータすら家にないのが普通である。一九九五年の「Windows95」の発売により、少しずつコンピュータが売れはじめたが、俺が死んだ時期よりはるかに縁遠い存在である。少なくとも、この家には一つたりともコンピュータがなく、また、あったとしても、インターネットに接続する方法は電話回線を使用するダイヤルアップだ。
さらに言えば、現在――一九九六年以降に発売される書籍等もないので、未来の情報として残っているのは自分の脳内だけである。
「だといっても、もう数十年前だぞ。そんなに覚えてない……」
印象に残っていることだけは、それなりに記憶しているのだけど。
未来の情報をノートの一ページ目に書き連ねるも、上から半分ほどしか埋まっていない。死んだころの情報ならもっと書けるのだけど、今必要なのは直近の情報である。
今、ノートに書いていることのほとんどが歌島に関することだった。
歌島生美は、一九九六年の夏に突如として死んでしまった。それは夏休み期間中だったと記憶している。具体的な日時までは思い出せないが、夏休みが始まってすぐくらいのタイミングだったと思う。
死因は、他殺だった。当時の俺はひどくショックを受けた。身近にいる人間が死んでしまうなんてこと、俺にとっては初めての経験だった。
一人で外出していたところをさらわれた。かなり突発的な動機だったみたいで、たまたま犯人の男が苛立っていたところに通りがかったというだけで殺された。
「……犯人の名前は……」
しかし、それ以上の情報はなかなか思い出せない。事件が起こったあとならば、その事件の詳細がのっているメディアがあるかもしれない。しかし、起こる前の世界において、そんなものはない。
「でも、この悲劇を避けることができるなら、未来を変えられるという証拠になるのか?」
歴史の収束という話を聞く。過去に戻った人間がなにをしたところで、世界に影響を及ぼすような主だった出来事を改変することはできず、歴史に基づいて発生してしまうという。
もっとも、現段階で細かな過去は改変されているのだし、収束するような話とも思えない。
そもそも過去に戻るということ自体が改変行為であり、あくまで虚構のなかの理屈のような気がする。
ただ、過去を変えるといううえで、これ以上ないほど決定的な出来事なのは間違いない。
なにせ、死んでしまうはずの人間を生かすということになるのだから。
「そもそも、死なせたくはないよなぁ……」
あれからも歌島と接してきたが、簡単に未来を失っていい子じゃない。少なくとも、俺なんかよりはるかに世のため、人のために行動できるだろう。
俺があの子を救えれば、俺の存在も無意味ではなかったと言えるだろうか。
世界の片隅で打ち捨てられるだけだった俺の人生に、意味を与えられるだろうか……。
他殺される子を救おうというのだから、危険性はある。だが、正直そんなことはどうでもよかった。せっかくこのような機会を与えられた以上、自分のやるべきことを最大限尽くすべきだ。それをしてこなかった人生が、あんな結末だったのだ。少し態度を改めたところで俺は俺だ。同じような人生を歩まされてしまうかもしれない。
一つでも多く大きなことを成し遂げて、自分の生きてきた意味をこの世界に刻み込む。そうすることでしか、今のこの状況を活用することはできない気がした。
俺は、またペンをとった。
少しでも多くのことを思い出そう。そして、まずはあの子を助けてみよう。
そうすることで、新たに見えてくるものもあるのかもしれない。
眠気が限界を迎えるまで、俺は自分の記憶と向き合い、ペンを走らせつづけた。
「おはよう」
俺は、少し早めに家を出て、隣の歌島家のまえに立っている。朝の陽光を頬に浴びながら、歌島生美に挨拶をする。この数日のうちに、俺たちはずいぶんと仲良くなった。歌島は、俺が門の前に立っていたことを少し不審そうにしていたが、すぐに「おはよう」と返してくれた。
「待ってたの?」
「なんとなく、すぐに出てくると思ったんだ。話しながら学校に行ったほうが楽しいだろ」
「うん」
歌島がにっこりと笑う。俺と話すことに慣れたためか、最近そういう表情も見せてくれる。
「もうすぐ夏休みだね。楽しみ」
「夏休み、か。どこか出かける予定とかあるのか?」
「うん。八月に、北海道に行くんだ」
もっとも、俺が経験した世界においてその未来は達成されない。曖昧な記憶ではあるが、八月を迎えられないということは確かだ。
「北海道のどこに行くんだ?」
「ええとね、いろいろ。湖とか、海のほうとか、きれいなところいっぱい行くの」
「それは楽しそうだ」
「うん! 美味しものもいっぱい食べようって話してるの。お父さんも長く休めそうだって、すごくはりきってた」
「今の時期だと気温もちょうどよさそうだ」
その旅行をキャンセルしなければならなかった両親の心中たるや、察せられるものがある。そういえば、すぐに彼女の両親は引っ越していった。自分の娘との思い出が染みついた場所で生活していくのが難しかったのかもしれない。
「旅行から帰ってきたら、思い出話を聞かせてくれ」
「山村くんも行きたいの? 北海道」
「俺は、一度だけ行ったことがある。広すぎて、全部を知っているわけじゃないけどな」
「ふぅん。そうなんだ」
「夏休みは、ほかに予定がある?」
すると、歌島は首を横に振った。NOの仕草が大きいのは、この子の特徴らしい。
「でも、宿題はやらないと」
「宿題をさっさと終わらせる派? それともぎりぎりにやるタイプか?」
「うーん、そのとき次第だけど。山村くんは?」
ノートに書いているうちに、俺のなかで決めたこと。歌島を付け回してでも、彼女を一人にしないこと。そして、俺は常に武器を常備して、なにかあったときに対抗できるようにする。警察や大人に告げたところで、誰一人信じることはない。頼れるのは自分だけだ。
だから、なんでもいい。理由をつけて、夏休みの間に一緒にいるようにしなければ。そのうえで、なるべく家の外に出さないようにしなければいけない。
「俺は、さっさと終わらせる。あとで宿題のことを考えるのは嫌じゃないか」
「へー、意外。男の子はみんな後回しにすると思ってた」
「歌島もさっさと終わらせればいい。北海道にいる間、宿題のことが頭をよぎったら大変だ。せっかくおいしいものを食べているときに、『ああ、あと何日であれとあれとあれを終わらせなくちゃいけない』とか考えてしまったら、もう美味しく感じないだろ」
「そんなに宿題のことで頭いっぱいにならない気がするけど」
「すっきりした状態で、旅行に行ったほうが楽しめるのは確かじゃないか?」
「それはそうかも」
強引すぎたかもしれない。とはいえ、口がうまくない俺にはこれが限界だ。
「俺がごちゃごちゃ言う話じゃないかもしれないけど、北海道に行く前に宿題は全部終わらせてしまったほうが楽だと思う。宿題のことなんか何も考えずに楽しめたほうがいいのは間違いない」
子供の俺が、こんなに上から説教するかのごとく話すことじゃない。しかし、宿題を早めにするとなればあまり家から出なくなるだろう。
「でも、そんなにすぐ終わるかなぁ」
「なんなら、俺も一緒に手伝うよ。一人でやるよりは早く終わりそうだし」
これも理由の一つ。宿題を口実に、歌島とともに行動することも可能だ。夏休みという時期において、よほど仲のいい友達以外、ほとんど会う機会がない。その一方で、俺には隣に住んでいるという強みがある。
「どうだ? 二人でさっさと終わらせてみないか?」
「わたしはいいけど。山村くんって、結構真面目なんだね」
「普通のことだ」
ひとまず、約束をとりつけられたのは大きな収穫だ。だが、安全が確保されたわけじゃない。俺がいない間に外出してしまうこともあるだろう。その点については、別に対策を練る必要がある。