第五十六話 歩道橋
※非常に重い話になります。ご注意ください。
「おとうさん」
俺は、走っていた。
雪を踏みつけて、ときおり転びそうになりつつも、懸命に走っていた。
その手にはなにも持っていない。ただ、意味もなく、父親のことを追いかけていた。
「まって、まって、おとうさん……」
歩道橋のそばでその姿を見つけて、声を上げた。しかし、雪にさえぎられてしまっているのか、それとも単に声が小さいのか、なんの反応もなく歩きつづけている。速く走っているつもりでも、雪に足をとられてなかなか前に進めない。その背中がちっとも近づかないので、俺は焦りを覚えていた。
「まって、すぐいくから、まって……」
こわかった。
一人でいるのがこわかった。
狭い部屋のなかに取り残されていると、そのままもう誰も帰ってこないんじゃないかという気がして、いてもいられなくなってしまう。
幼稚園に通っていたころに母親がいなくなり、それきり帰ってくることはなかった。
初めてできたトモダチは離れ離れになり、もう会うこともなくなった。
小学校に入ってから作った友達と別れて、また一人になった。
それから、新しい学校に行っても、引っ越すことを考えると距離ができた。
気づけば、俺のそばには父親しかいなかった。
仕事が休みの日に父親が外出すると、そのあとを追いかける。父親がそれを嫌がっているとわかっていても、そうせざるをえなかった。
引っ越すたびに、父親の表情は暗くなっている。家はどんどんと貧乏になっていて、部屋に立ち込めるタバコの臭いが濃くなった。家で会話することも減り、そのうちに自分ごと見捨てられてしまうように思えた。
朝の時間で、空からは粉雪が舞っている。起きたら父親がいなくて、俺は父親を捜すために外に出た。歩道橋の周囲には誰もいなかった。自動車すらほとんど通っておらず、そこには俺と父親しかいないように感じられた。
「おとうさん」
何度か叫んでいるうちに、父親に反応があった。しかし、振り向くことはなく、ほんの少しだけ肩を揺らして、横顔をさらしただけだった。微笑みかけることも、俺を待つこともないけれど、それで十分だと思った。
階段での父親の足取りは遅く、途中でだいぶ近づくことができた。階段の真ん中付近にて、俺の手が父親の背中に届くくらいの距離になる。
「おとうさ――」
そのときだった。
あと少しで触れるというところで、足がつるんと滑った。
歩道橋の階段が雪や露で濡れているということに気づいていなかった。速く父親に追いつくために手すりすら持たずに走っていて、自分の体を支えるものはなにもなかった。
体が後ろに倒れるときに、視界が上がっていく。
驚いたような父親の顔。そのあとに白い雲に覆われた空が見えて、最後に顔のまえに出した自分の小さな手が映った。
一瞬の浮遊。まもなく、強い力で下に引き寄せられた。
頭に強い衝撃があり、背中も打ちつけられた。目のまえが黒く染まって、跳ねるように体がまた浮かんだ。ごん、ごん、と鈍い音が自分の体から発せられるのを聞きながら、脇腹の痛みや膝への打撃を感じた。体の勢いを止めることができず、ただ打ちつけられるがまま転がっていくしかなかった。
自分が歩道橋の階段を転げ落ちて、その下の雪のなかに埋もれたのだと気づいたのは、落ちてからどれくらい経ったときだろう。体がまったく動かなかった。強く打った頭にじんわりと熱が広がっていて、痛みだけがぼんやりと内側に残っていた。
――あれ?
目の前が見えない。
暗闇に包まれていて、どこにいるのかわからない。ただ、体全体にまとわりつく雪の感触としめつけるような冷たさが肌を刺している。意識と手足を動かす感覚がバラバラになって、宙をさまよっているように思えた。
(たすけて……)
大好きな父親の姿を探す。黒い視界のどこかにいるはずなのに。
(おとうさん……)
だが、どこにも見つからなかった。この冷たいものに体を押しつけられて、雪に埋められる気がして、おそろしくなった。風が吹くと音がして、耳だけはちゃんと働いているということを理解した。
やがて、階段を下りる音がした。
こつ、こつ、こつ、こつ、というのんびりした響き。足音が父親のものであるということはなんとなく察しがついていた。もう一度助けを呼びかけようとするも、口も手もまったく言うことを聞かない。
「……明人?」
夢うつつのような、間の抜けた声だった。足音が近づいて、段差を踏みしめる硬い音から雪をつぶす鈍い音に変わった。雪のなかに横たわる自分のそばに父親が立っているということがわかった。
(いたい……いたい……おとうさん)
頭のなかではずっと悲鳴を上げている。体が動かないことに対する混乱と、頭を中心としてじわじわと押し寄せる痛みに苦しめられていた。
(たす……けて……)
そのとき、俺の顔になにかが当たった。温かくて広い手の感触。その手は、俺の額や頬を軽くなでた。風邪を引いたときに、その熱を見るときのような優しい触り方だった。
俺は安心する。きっと助けてくれると思った。
また、声が聞こえる。
「明人……。大丈夫か、明人……?」
強い風が吹いて、服の隙間を縫っていき、急激に寒気が俺を襲った。それでも黒く視界は塗りつぶされたままで、体は動かないままだった。
額に当てられていた手が離れる。まもなく、その手がまた顔に当たった。
今度は、頬を叩くようにぺちぺちと。
「おーい、どうした。明人……?」
頬が揺れる感覚も、叩かれるたびに音が鳴るのも認識できた。それでも、意識と感覚が分離したままで、痛みに支配された頭だけで助けを呼びかけていた。
何度か頬を叩いて、それでも俺の反応がないと見るや、またその手が止まった。雪のなかに口が沈んでいるためか、口のなかに少しずつ雪の粒が入り込んできた。冷たさがじわじわと体に侵食してきて、手足がしびれる。早く、この雪のなかから拾い上げてほしかった。
「……あれ……?」
父親は、困ったように言った。そして、聞こえてきた。
「――生きているのか?」
もう一回、さっきよりも強く頬を叩いた。だが、頬が冷たさでマヒしているのか、ほとんど痛みはなく、さっきよりも大きく頭を揺らされただけだった。
次に、俺の鼻のうえを叩き、腕をさすった。手がさらに下り、足をつかんで横に引っ張る。
また顔のほうに手が戻って、前髪をどけた。
前が見えなくても、俺の顔に父親の視線が向けられているのが伝わってきた。
父親が、さらに声を出した。
「―――死んでいるのか?」
さっきよりも低くなった声が、ハエの羽音のように耳のなかを反響した。
その手が再度俺の体に接した。肌に貼りつけるように軽く押して、頬やその周辺をぺたぺたと触れる。執拗に、何度も。俺が死んでいるのかを確かめるように、ぺたぺたぺたぺたとその手の感触が顔全体をまさぐっていた。
まるで、未知の物体に対して触れているみたいだった。
「――ああ、なんだ。そうか……」
驚くほど淡白に、父親が言った。
俺は、状況を理解できずに、戸惑っていた。父親の体が離れる気配がした。
黒くつぶされていた視界の中心辺りが、少しだけ見えるようになる。薄く開いたまぶた越しに父親の姿があった。しゃがみこんでいたらしかったが、腰を持ちあげて、俺をまっすぐ見下ろしている。
その表情には、悲しみも怒りもない。
ただ、道端の石ころを見るかのように、冷徹なまなざしを送っていた。
「それなら、もういいか」
父親が、封筒を腕にはさんだまま歩道橋ではなく、家の方向に歩きはじめた。雪に足跡を刻む、ざ、ざ、という足音が間断的に聞こえてきた。
遠ざかる背中に追いすがることもできず、俺はその場で横たわっている。
(お、とうさん……)
そんな心の声もむなしく、視界から消えていく父親を見送ることしかできなかった。
* * *
はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ。
はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ。
息をどれだけ吸っても、いっこうに胸の苦しみが晴れることはない。
「明人! ねぇ、明人」
うずくまる俺のそばで、俺を支えようと手を伸ばす人がいる。 その手がこわくて、ガタガタと震えながら言った。
「……やめろ、やめてくれ。俺にさわるな……」
口から唾液だけでなく、昼に食べたうどんの一部がぼたぼたと吐きだされている。
頭痛が一層激しくなり、気が遠くなっていくのを感じる。
「明人!」
体から力が抜ける。ぐらりと視界が傾き、そのまま雪のうえに放られた。
* * *
(おとうさん……)
雪のうえで、少しずつ体の力を取り戻した幼き俺は、歩道橋に打ちつけた頭の痛みに耐えながら、ふらふらと立ち上がるところだった。
(おとうさん、俺、死んでないよ……)
はたして、父親が去ってからどれだけ時間がたっただろう。誰にも倒れているところを見つからなかったから、長いように思えて実際には数分程度のことだったのかもしれない。頭も服も真っ白で、立つと左足がまっすぐにならず、強い痛みが走った。骨が折れているということに、そのときは気づかなかった。
俺は、何度も転び、壁に手をつきながら家に帰った。家には、コートを着たままの父親が、呆然とした様子で座っていた。俺に気づくと、その表情が凍りつく。
「ただ、いま……」
そこで俺は力尽きて、床のうえに倒れこんだ。
そのあとに意識を取り戻したとき、俺は革張りのシートの匂いをかいでいた。
ごとごと、と音を立てて揺れながら、エンジン音が聞こえてくる。それで、おぼろげながらも車のなかにいるのだと気づいた。うちに車はないはずだけど、と考えたが、それよりも体の節々から発せられる痛みや寒気に耐えなければならなかった。
後ろの席に横たえられていて、運転席には黙りこくった父親がいた。
やがて、車が止まった。
まったくどこかわからないが、周囲の暗さから夜だということはわかった。
後ろの席の扉が開いたあと、父親が俺の体を引っ張る。抵抗する力もなく、座席から落ちて雪のうえに転がされた。
(寒い……)
父親が運転席に戻り、キーを回すとエンジン音が再び響いた。大きな音を立てて、運転席のドアが閉じられる。
(苦しいよ……)
タイヤがアスファルトと接触しながら、ゆっくりと回りだす。排気ガスがもうもうと立ち込めて、夜闇のなかに揺らめいていた。
(おとうさん)
無情にも俺を置いて、車が加速する。俺の横を通りすぎて、テールライトを灯しながら、夜の闇のなかへと消えていく。そのうちに、父親も車も見えなくなって、俺一人だけがそこに取り残されていた。
ざぶん、ざぶん、と波の音がする。
頭上から降り注ぐ白い光があることに気づいた。街灯が二本、俺の前にそびえている。
薄汚れた建物が、光に照らされていた。
(どこ?)
体が痛くて、頭が熱にのぼせていて、世界が薄く見えた。
白い光のなかを、細かい雪の粒が無数に過ぎ去っていく。まるで針のように細長く、地面や俺の顔に突き刺さっている。
息を吸うと、ひゅう、ひゅう、と喉が鳴った。
(どうして……?)
こんなにもつらいのに、苦しいのに、どうしてこんなところに置かれているのだろう。
力を振りしぼって上半身を起こすが、足にはすさまじい熱がたまっていて、一ミリたりとも動かすことができなかった。
肩で息をしながら、その建物を見た。建物の前の塀には「かもめ園」というプレートが掲げられている。建物の背後には、黒くて大きなものがあり、そこから波音のようなものがずっと聞こえていた。
「――――」
突然、胸の奥から突き上げるものがあり、口から熱い息がこぼれ出た。
息をするたびに胸や頭が痛くなるのに、呼吸が浅くなって、肩が上下に揺れる。
俺は、建物のまえでうなだれて、こみあげる感情をこらえることしかできなかった。
◆ ◆ ◆
――――いいだろ、もう。
もう、俺を苦しめなくてもいいだろ。
いつだって俺は、あの暗闇のなかに囚われて、どうすることもできない。
人は裏切るんだから、どうせ背中を向けるんだから、もうなにも、俺のなかに入ってこなくていい。
思えば、あの歩道橋の前で物のように触る手を受けたときから、雪のなかに埋もれつづけていたような気がする。
俺にさわるなよ。
二度とあんな気味の悪い感触を、俺に味わわせるな。
いつもこわいんだ。恐ろしくてたまらなくなるんだ。
小さな子供の俺は、冷たい雪の底で膝を抱えて、なにも見ず、なにも聞かず、一人きりの世界のなかでずっとおびえて暮らしている。
もう、ほしいものなんて、なにもない。
一人で、静かに呼吸して、穏やかに時を過ごせればなんでもいい。
だから、もう俺を苦しめないでくれ。俺をこれ以上、壊さないでくれ。
あのとき、かもめ園のまえで寒さに凍えながら、降り注ぐ雪を眺めていたとき、自分の心がずたずたに切り裂かれて、壊れていくのを感じた。すべてを失って、自分と紐づいていたものまで砕かれて、もう二度と立ち直ることなんてできないと思った。
いいんだ。
あんな目に遭うくらいなら、心なんて死んだままでいい。
……もう、いいんだ。
俺は、そう思った。




