第五十四話 一人
一時間ほどバスに揺られ、そのあと別のバスに乗り換えた。どんどん北に行っているのか、寒さも雪も、どんどん強くなっているように感じられる。次にたどりついたのは、先ほどの場所より少し田舎だった。
遠くのほうに、雪をかぶった山が見える。さっきの反省を活かして、今度は住んでいた場所には向かわず、バス停の近くで周囲の光景を目に収めるだけにした。
移動の間も、記憶が俺を苛んでいた。体力が少しずつ削られていうのを感じながらも、俺はバスの座席で窓際によりかかりながらふんばっていた。着いてからも、体が思うように動かない状態がつづいている。
どうしても思い浮かんでしまうのが、「お父さん」の顔。
少し横に大きい体格も、穏やかな雰囲気も、一切薄れることなく俺のなかにある。
――邪魔だ。
出てくるな、と強く願う。俺が知りたいのはその先の動きだけであり、おまえのことなんかを思い出したいわけではない。だが、そんな願いとは裏腹に、足どりを追うたびに忘れかけていたその人の顔や、言葉や、目つきが蘇ってきてしまう。
(明日から、明人はあそこの学校に通うんだ)
タバコをくわえながら、俺の肩に手を置く。新しい家となった、以前よりも小さなアパートの一室で、窓から見える校舎を指さしている。背後に立つ父親から、タバコの臭いがするのを俺は安心感とともに受け止めていた。
母親がいなくなったことをあまり深く考えないようにしていた。そのうち帰ってくる、まだ時間がかかるだけだと言い聞かせた。
俺は、その新しい場所でなんとかやっていこうと思った……。
でも。
「ここでの生活も長くはなかった。秋になる前には、また引っ越すことになった」
「また?」
「父親がそう言った」
ある日を境に、父親は仕事に行かなくなった。一日中家にいて、新聞や雑誌のようなものを手にして、ときに電話をかけたり、はがきを送ったりした。そんな時期を一か月ほど過ごしたころに、父親が機嫌よさそうに笑いかけてきた。
「……そう。つらいね……」
歌島さんが言った。
そのとおりだった。まったく異なる小学校で、俺はトモダチを作った。しかし、そんな矢先にまた別れなくてはならない。俺は、半分あきらめていたけれど、そのまま学校にいたいと泣いたのだった。笑顔を引っ込めた父親は、困ったように俺を慰めて、「ごめん、ごめん」と何度も謝った。
狭いアパートの部屋で、俺と父親は横に並んで寝ていた。顔つきや髪を見ていて、父さんがどんどんとやつれていることには気づいていた。タバコの臭いも、時とともに強くなった。
「……こっち」
俺は、なるべく立ち止まらないように、その行き先をすぐに思い出して、足を動かした。
いろんなところに行った。父親と俺の二人で暮らしていたのは、たったの二年ほどだ。しかし、二人で見てきた光景は数えきれないくらいにある。いくつもの景色や、父親の表情を思い返すたびに、俺の頭の痛みが増していく。
移動の途中でうどんを食べて、また新しい街に移る。
どこもかしこも、足を踏み入れるたびに体がマヒしたような感覚になる。あの父親との記憶が染みついた場所だからだ。父親の顔が脳裏に現れるたびに、俺の気力はどんどん奪われる。
果たして、何回引っ越しをしたのだろう。
その引っ越しの回数はすなわち、父親が仕事を変えた数でもあった。
秋が過ぎて、また冬になる。
雪を体中に浴びながら、俺と父親が手をつないで歩いている。
引っ越しの回数だけ場所を転々としながら、そんなイメージだけを脳裏に残していた。
今日は大雪の日なのか、傘を持っていても無意味なくらい、風によって雪が舞いあげられ、体や頬に当たる。自分の歩んできた道をたどりながら、俺は目を細めた。
もう、歌島さんと話す気力も、後ろを振り返る余力もない。ここはいったいどこなんだろうと思った。周囲がずっと白く覆われていて、そこにあるはずの道すらわからなくなる。ときおり見えるものと記憶を照らし合わせて、ひたすらに歩くことしかできなかった。
――リハビリのときでさえ、こんなに歩くのがつらかったことはないのに。
息を吐くたびに広がっていた白い靄さえも、その景色のなかに埋もれている。
「はぁ、は、はぁ……はぁ……」
音や自分の声さえも、俺から遠ざかっていくのを感じる。
ひとりぼっちだ。
この冷たくて、息苦しい場所は、いったいなんなのだろう。俺は本当にこの世界にいて、体を持って、意識をそこにとどめているのだろうか。世界のありとあらゆるものから切り離されて、自分一人だけがこの白い世界に閉じ込められてしまったかのようだ。寒さでかじかんだせいなのか、手や足でさえもろくに感覚がない。




