第五十三話 通えなかった小学校
塀や柵に手をかけながら歩き、十分ほどが経過したとき、今度は別の場所に到着した。
クリーム色の建物で、真ん中の出っ張ったところに大きな針時計が設置されている。ぽっかりと開いたグラウンドのまえに黒い門があり、今は完全に閉ざされていた。
――小学校。
結局、一度も通うことのなかった場所だった。幼稚園にいたころからこの学校に通うことを楽しみにしていた。ここに住んでいたころ、この学校の前に何度も訪れては、やたらとそこにいる生徒たちをうらやましく思っていた。
幼稚園児だった俺は、黄色の帽子をかぶってそれを見ている。
小学校のそばにいる子たちは、みんな四角いものを背負っていた。色は、男の子が黒、女の子が赤。友達同士で横に並んで、わいわいと騒ぎながら俺の前を通り過ぎた……。
(どうして、ダメなの?)
アパートの部屋のなかで、黒いランドセルを抱えながら、父親に尋ねた。
(あそこに行きたいよ。トモダチもみんな行くって)
無精ひげを生やした父親は、しかし首を横に振った。それから、俺の頭に手を置く。
優しげな笑みを浮かべて言った。
(ごめんな……)
その声が頭のなかに再生された瞬間、首を絞められたかのような息苦しさが襲った。片膝をついて、襟を引っ張りながら息をする。傘が俺の手からこぼれて、雪のうえに投げ出された。
「明人!」
かけよってくる歌島さんを見て、指を広げた状態で片腕を伸ばす。
「……くんな」
俺のそばでしゃがみこんだ歌島さんは、傘の柄を両手でぎゅっと握りしめた。
間近に迫った地面に視線を落とし、俺は胸の底からこみあげてくるものを懸命に抑えた。
はぁ、はぁ、はぁ、と吐息が煙のように漏れている。
痛い。こんなに時が経った今でさえ、自分ごと壊れてしまうほどの痛みがある。雪のなかを歩いてきただけなのに、心臓が恐ろしいほど速く脈打っていた。
――余計なことを思い出した。
俺は、あんな過去のことを考えたいわけじゃない。そのあとの俺がそこに行ったのかを知りたいだけだ。
焦点が合っていないせいで、胸をつかむ自分の手が二重に見える。目から力を抜いて、視界をぼんやりとさせたまま、俺はその先のことを思い出すことに意識を傾けた。
そうだ。父親が別の会社で働くことになり、引っ越しをすることになったのだ。
どうして、職が変わったのか明確なことは覚えていない。ただ、母親がいなくなってからの父親はだいぶ落ち込んだ様子で、なにも知らない俺が「お母さんは?」と質問すると、困ったように笑いながら俺の頭を撫でるだけだった。
もしかしたら、それから仕事がうまく行かなくなってしまったのかもしれない。
ぼんやりと視界のなかで、幻覚のようなものがそこに現れた。
夜、ランドセルを抱いたまま、小学校のそばに腰かける少年。雪が降っているのもかまわずそこにいて、寒さにじっと耐えている。彼は、どうしてもそこに通いたいと言い張って、父親の静止を振り切ってそこで駄々をこねていた。トモダチと離れ離れになることが、どうしても嫌だったのだ。
もちろん、そんなワガママが通じるはずもなく、彼は家に戻されることになる……。
「……」
瞬きをすると、その幻覚は消える。二重になっていた視界も徐々に元の姿を取り戻す。
雪にめりこんだ膝からズボンが湿っていくのを感じた。
はるか後ろのほうで、自動車が雪道を走る音が聞こえてくる。痛みに耐えて、顔を上げた。
長期休みの最中だからか、小学校には誰もいない。空っぽの校庭に雪が積もっていて、その周囲に緑の葉をつけた木々が立っている。風が吹くたびに、葉と葉がこすれあう。
歌島さんは、心配そうに俺の顔をのぞきこんでいた。俺は、両腕で自分の体を抱える。
それからどうなったんだっけ。俺は、呼吸を整えながら記憶をたどった。
アパートの荷物を段ボールのなかに詰めてから数日後、父親の友達と思しき人が軽トラックに乗ってやってきた。その軽トラックの荷台に最低限の荷物だけ積んで、青いビニールシートをロープでくくりつけたあと、トラックがゆっくりと動き出す。俺は、父親と並んでそれを見送り、手袋をはめた手をつないで、バス停に向かって歩きはじめる……。
「バスだ……」
「え?」
俺がふらふらと立ち上がると、歌島さんも同じように腰を上げた。
「引っ越したんだ、そのときに俺と父親はバスに乗った」
その時点で母親がいなくなっているということについて、歌島さんはなにも言わない。ただ黙って俺の後ろをついてきた。
別に俺の体など、どうなってもいい。体には震えが残っているが、それでも十分に動く。
こんな過去に今さら苦しんでいる場合じゃないのだ。誰の手も借りずに、俺は一人で生きていくと決めている。この場所でうずくまっていたところで、俺の気が晴れることもない。
「たぶんこっちだ」
俺は、傘を持ち直して、また雪のなかを突き進んでいく。
お願いですから最後まで読んでください。




