第五十二話 一つ目の街
三時間以上かけて、その駅に俺は降り立つ。駅とは言うけれど、小さなプラットフォームに屋根がつけられ、自動改札機が二つ設置されているだけの場所だ。ほとんど雪に埋もれているから、遠目で見たら駅があることにさえ気づかないのではないかと思った。
駅から出て、雪の降り積もる街に立つ。
白く覆われた空、張りつめた空気のなかで息も白く濁る。周囲にはほとんど住宅しかなく、路上に停められた車は、側面以外が雪に包まれていた。奥には雪かきをしている人もいるが、ほとんど人の気配がなく、非情に静かだった。
「……ここだ」
はぁ、はぁと乱れた自分の呼吸音が聞こえる。いくら息を吸っても胸のあたりが苦しい。
地面から俺の気力を吸い取っているのではないかと思えるほど、全身の力が薄まっている。あちこちに見慣れた景色があり、踏切も、空を渡る電線も、持っている記憶と重なりながら俺の視界に収まっていた。幼稚園児だったころに、この周辺を走り回っていたことさえも、足の感触とともに蘇ってきてしまう。
歌島さんは手出しせず、心配そうに俺を見ているだけだった。それでいい、と俺は歌島さんにうなずいてみせた。
「ここから、どう行くの?」
しばらく立ち尽くしていたからかそう尋ねられる。俺は言った。
「待ってくれ。すぐ思い出すから」
「……もともと、ここに住んでいたんだよね?」
「あくまで、小学校に上がる前だけど」
とにかく、立ち止まっていても仕方ない。俺は、足の赴くままに進みはじめた。
頭や服についていた雪を落として、傘を広げる。雪で滑らないよう慎重に足を運びながら、昔のことを思い出す。歩くごとに、その当時の感覚が戻ってくるように感じた。
「三人家族だった」
黙っていると飲み込まれそうだったので、俺は独り言のようにぽつりとつぶやく。
「……このときは、普通だった。父親がいて、母親がいて、俺がいた。自分の家族というのを疑ったことなんてなかったんだ」
「……」
しばらく離れていたはずなのに、俺の足は自然と動く。どこに行けばいいのか、頭に縫いつけられてしまっているのだろうか。交差点を渡り、ちっぽけなスーパーの横を通り抜ける。店頭に並べられた野菜から、かすかに匂いが漂ってきた。さらにまっすぐ道の奥に入っていくと道幅が狭くなり、左右に住宅が敷き詰められるようになった。
肩に背負うリュックがいつもよりも重い。雪の粒が前から迫ってくるなか、俺は導かれるがままその先を目指す。細い道を右に曲がり、そのあと少し進んだところで左に曲がる。と、道が開けて、一つの建物が姿を現した。
壁が水色に塗られた二階建てのアパート。白い柵がアパートを囲っていて、敷地には小さな駐輪場が備えつけられている。傘を後ろに下げて、体をそらし、その外観を視界に収めた。
歌島さんの足音が、俺のすぐそばで止まった。
「ここに住んでいたの?」
そのとき、ずきん、と頭に痛みが走った。左手で額のあたりをつかむ。
俺は、当時の記憶が戻ってくるのを制御しながらうなずいた。
そう、ここに住んでいた。
俺が十歳なら四年前、空白期間も入れるなら十年前までのことだ。アパートに住む他の子供や幼稚園の子供と一緒に遊んでいた。家に帰ると母親がいつも楽しそうにテレビを見ていて、夜に父親が帰ると三人で食卓を囲っていた。
三人分の笑い声が聞こえ、蛍光灯の白い光が輝いている。失われてしまった生活が染みついていたこの場所で、俺は確かに生きていた。
両足を広げて、柵に手を当てる。視界がぐらつくので、しばらくそれで動揺が静まるのを待つしかなかった。素手であるため、冷え切った金属製の柵に体温を奪われる。片手で掲げた傘のうえを転がる雪が、ぱらぱらと地面に落ちていく。
俺の住んでいたのは、二階の真ん中の部屋。ベランダに別の誰かの洗濯物がなびいていて、既に他の人がそこで生活していることがわかる。当時はあのベランダから外の光景を見下ろしていたけれど、今は逆の位置からそれを見ている。
柵にもたれながら言った。
「それで、そのあとに俺は……」
さらにその先の記憶に踏み入れようとすると、頭の痛みが強くなる。
もちろん、そんな生活など、長くはつづかなかった。変化に前触れなどなく、ある日突然に起こったことだった。
アパートの部屋は、暗がりのなかに沈んでいた。テレビも蛍光灯もつけられておらず、なんの書き置きもなく、ほとんどそのままの状態で人だけが欠けている状態だった。
そして、その部屋の隅に黒い大きなものが置かれている……。
――そうだ。
急に、そのことを思い出した俺は、顔をあげ、周囲を見渡した。どの方向か考えなくても、また勝手に足が動く。ふらつく足取りのまま、俺はその方向に歩きはじめた。
「無理しないで、明人。ゆっくりでいいから」
電車のなかのやりとりを気にして、歌島さんは少し離れて位置からそう声をかけた。
そうだ。急ぐ必要はない。ゆっくり思い出して、最終的にあの海へとたどりつきさえすればいいのだ。




