第四十八話 電話
開くと、時計と思っていたそれに十一桁の番号と名前のようなものが表示されていた。
《歌島生美》
なぜかわからないけれど、あのお姉さんの名前だ。
なにかしないと震えが止まらないのか、ずっと振動をつづけている。画面の下にあるボタンの数々を見ているうちに、これはもしかして電話なのではないかという事実に気づいた。
電話のようなマークが、右と左に一つずつある。
俺はそのうちの左のほうを押した。振動が止まり、安心した矢先にそれが起きた。
「……明人?」
声だ。間違いなく、歌島さんの声だった。
俺の知らない六年で、電話というのは驚くほど進歩したらしい。切らないと、と焦っている間に、また声が聞こえた。
「どこにいるの? 明人。みんな心配してるよ」
もう一つの電話のマークが、切るために使うボタンだろうか。そっちに指を置いたが、その声は俺の行動を読んだかのようにつづいた。
「切らないで。ね、わたしと話そう。そうしないと、大変なことになっちゃうよ」
そこでようやく、俺は声を出した。
「……大変なこと?」
「声が小さくて……あ、声が聞こえるところに耳をあてて、口の近くに端のほうを」
仕方なく俺はそうした。と、俺のよく知る電話と同じようにうまく顔にフィットする。
「なんだ、大変なことって……?」
もう一度俺が尋ねると、歌島さんが言った。
「警察を呼んで、たくさんの人に明人を探してもらう。そしたら、すごく大変」
「……余計なことを」
「当たり前でしょ。明人のことを、簡単に一人にしない」
呪いのような言葉だった。俺は一人になりたいのに、なんでこうもうまくいかない。
あれだけひどい対応をとったのだ。俺のことをみんな嫌いになって、俺がどうなろうと気にしなくなればよかった。
とめどなく雪が降っているのを眺めて唇をかむ。それならせめて、誰にも見つかるより前にさらに遠くに行けばいいのだろうか……。
電話の声は、かすれながら俺の耳に届く。
「でもね、まだ、そうしてはいないの」
優しい声音で、一つ一つの言葉をゆっくりと紡いでいる。
「明人が、家から出るところをわたしは見たの。なにかするんじゃないかって思ってたから。明人が外に出たあと、すぐに明人の家に行って、服とか、いろんなものがなくなっているのに気づいた。そして、あとを追いかけたんだ」
本当に理解できない、と俺は思った。
ずっと無視した。病室に毎日来る歌島さんの言葉を聞き流して、二度と俺に関わらないようにしてほしいと願っていたにもかかわらず、あろうことか追いかけてくるなんて。
すぐにでも電話を切って、その場から逃げ出したかった。でもその選択をしてしまったら、警察を呼ばれてしまうのだろう。
「当ててあげる。明人は、新潟にいる。違う?」
息をのんだ。どうして、と意図せず漏らしてしまう。
「駅員さんに訊いたよね。『新潟に行くならどれに乗ったほうがいいですか』って」
俺の写真を手に見かけた人がいないか探し回ったという。それで、新潟に向かおうとしているという情報を入手したのだ。
その執念に、俺は口を閉ざすしかなかった。
「新潟の話、前に聞いたことがあるの。海が好きだって、消えてなくなりたいって思いながら海を見ていたって。だから、わたしも今新潟まで来ているの」
「……なんで」
「え?」
「……その話、なんで……」
頭が混乱してついていけなかった。海の話を誰かにしたことは一度たりともなかった。
自分のなかにずっとしまいこんで、誰にも打ち明けたことはなかったのだ。
海のそばに腰かけて、いつもそのさざめきに慰められた。俺にとっての大事な時間のこと、そのときに考えていたことまで、知っている人なんて俺以外にいないはずなのに。
ふと、なぜか赤く照らされた海の光景が頭に現れる。これはなんの記憶だ。俺の知っている海とも違う風景だった。
俺は、髪をかき乱しながら、荒れた呼吸を整える。
「……明人が教えてくれたんだよ。たぶん、その海を見に、新潟に来たんだよね」
教えていない。でも、もしありうるとしたら、可能性なんて一つしかない。
俺のいない空白の六年を過ごした、山村明人。
謎に包まれた彼が、俺のことを教えたのだ。
電話から、どこかの駅のアナウンスのような音声が聞こえていた。
「わたしが見つける。わたしが、明人のことを今日までに捕まえる。だから、わたしに任せてほしいって、おじさんとおばさんにお願いしたの。もし、明人が今の居場所を教えてくれたら警察にも話さない。もちろん、すぐに連れ戻すこともしない。明人が行きたがっている海に、一緒に行こう」
俺は、いくつもの靴跡がつけられた足元の雪を見つめた。
ここで話さなければ、まだ一人でいられる代わりに警察を呼ばれてしまい、俺が行くだろう海のあたりを待ち伏せされるかもしれない。でも、歌島さんが嘘をついていたら、警察まで連れていかれてしまうだけかもしれない。
「……今いるのは――」
迷った挙句、後ろを振り返り、駅名を確認しながら歌島さんに今の居場所を伝えた。




