第四十五話 写真立て
それからまもなく、俺の退院が決まった。もともと俺は、長く眠りについていただけで異常もなかったからもっと早く退院できるはずだった。しかし、自分が十歳であると告げたことで入院が長引いてしまった形である。
頭のなかを見ても特にまずいところはないらしい。入院をつづけさせる意味もないとして、定期的に通院することを前提にあの家に戻ることになった。
道中、義両親は俺に積極的に声をかけるが、俺はすべてを無視した。自由を手にした今が、逃げ出す絶好の機会だ。準備を整えたらすぐにでもあの家を出て、また一人きりになる。どこに行くか具体的に決めたわけではないけれど、ここにいつづけるよりはマシだろう。
車が家の前に着いた。俺にとっても見慣れた家。少なくとも外観は、俺が知っているのと同じものだ。
しかし、すぐにその家のなかを見て驚く羽目になった。
――これはなんだ。
リビングに足を踏み入れた俺は、その異様な光景に体を硬直させた。
義両親の家に、俺も二年ほど暮らしていた。だから、家の内装やその雰囲気をきちんと記憶しているし、大きな違和感を抱くことはないと思っていた。
まず目を引いたのは、複数の写真立てだ。
俺がいなかった六年を証明するかのように、堂々とそこに飾られている。一番左の写真は、この家に来たばかりのころに撮った写真だと覚えているけれど、そこから右に置かれたものには一切の覚えがない。
成長していく俺の姿を順に追っていくかのように写真立てが並んでいる。
どこかの旅行先で義両親と一緒に笑いあっている写真。
鏡で見た今の自分より幼い顔立ちで、「入学式」という立て看板の前に立っている写真。
歌島さんたちと一緒にソフトクリームを食べている写真。
いくつもいくつも、俺の知らない楽しげな光景がそこに存在していた。
呆然と立ち尽くす俺に気づいたのか、義父が後ろから声をかけてきた。
「明人が言ったんだ。思い出を、写真として残しておきたいって」
俺は、写真立ての並ぶキャビネットの周囲にも視線を移した。
山村明人、という名前の刻まれた賞状。出来損ないみたいな歪な彫像。他にもたくさん、俺の知らないものが置かれている。なにも知らない俺に対しても、その一つ一つに刻まれた記憶の重さが伝わってくる代物ばかりだった。
――やめてくれよ。
リビングから出た俺は、自室として用意されていた部屋に移動する。
しかし、そこにも俺の知らないものがたくさん並んでいる。殺風景だったはずの部屋には、小説やテニスラケット、勉強道具などがあった。
俺はベッドに腰かけて、頭を抱えた。胸の奥を突き上げるような得体のしれない感情が、俺のなかに広がっている。
ここから出て行かなければ、という思いがますます強くなる。どう考えても、自分の居場所ではない。たくさんの人との関係で絡み合った、がんじがらめのようなところで生きていくことはできない。
じゃあ、いったいどこへ行けばいいのだろう。
そのとき、すっと頭のなかに浮かんだ場所があった。
――新潟。
雪に覆われた白い街並みが脳裏に蘇る。当然、ここからだいぶ距離があるわけだから準備を万全にしなければたどりつくことさえできない。もっと近くて、誰も予想できない場所に逃げたほうがいいのかもしれないが、新潟に戻るという魅力には逆らえなかった。
義両親が二階に上がってきていないことを確認してから、部屋のドアを閉めた。部屋のなかをまさぐり、お金がないかを探る。どれくらいお金がかかるかわからないけれど、できる限り集めておかないと足りなくなる可能性があった。
知らない俺が使っていたと思われる財布。勉強机の引き出しのなか。全部合わせて一万円程の金額になった。電車を使えば、これくらいでどうにかなるだろうか。
他に必要なものはなんだろう。服とか、靴下とか持っていったほうがいいかもしれない。
周囲を見渡していると、俺の視界に入ってきたものがあった。
いつぞやに、歌島さんが使っていた謎の装置。色が異なっているものの、同じようなものだということが一目見ただけでわかった。
(時間を見ていたの)
歌島さんは、以前にそう言った。これは、新しいタイプの時計なのだろうか。
折りたたまれたそれを開くと、上部の画面に光が灯る。俺の予想通り、日付と時刻が大きく表示されていた。他にも表示されている文字や記号があるけれど、あまり意味がわからない。さらに下にはいくつものボタンがある。その装置に充電器らしきものがささっているのを見つけた俺は、それごと抜いてリュックのなかに放り込んだ。
新潟に行くのであれば、時間もかかる。今日はすでに昼過ぎだから、今から出かけて間に合うかどうかがわからない。万全を期すならば、明日の午前中にこっそり抜け出すべきだ。
「……」
あの写真立てを見ていると気が狂いそうだったので、リビングには戻らず部屋にこもる。
出かける準備をしたリュックだけは見られないよう部屋のなかに隠し、飯の時間になるまでベッドのうえで大人しくしていた。




