第四十四話 謎の装置
だからこそ、怖い。俺の義両親と同じで、俺のなかに入ってくる可能性がある。
俺が黙ったままでいるのに、歌島さんはなおも話しつづける。
「記憶がないって聞いたの。今までのことがわからないのに、こんなことを急に言われても困っちゃうよね。今の明人からしたら、ろくに話したことのない相手だもんね。でも、わたしにとってはそうじゃない。明人は幼馴染で、いつもわたしを助けてくれる男の子だから」
日差しが窓から直接差し込んでいる。俺は、光に目をつぶされながら、勝手に耳に飛び込んでくるその声を聞いていた。
「明人の体には、わたしを助けてくれたときの証もある。左肩に大きな傷があって、今も違和感があるんだって教えてくれた。その傷がなければ、わたしは生きることができなかったんだと思う」
聞き流しているつもりだったが、その事実に俺の心臓が跳ねた。
実際に、その傷は俺の左肩にある。どうしてその傷があるのか知らなかったけれど、なにかから歌島さんを守るためについた傷だったらしい。そのことを初めて理解した。
自分にはまったく身に覚えのない出来事の証が、自分の体に刻まれている。不思議だった。俺とは関係のない歴史のうえに、今の俺が存在している。
「他にも、たくさん、わたしは明人に救われた。明人と一緒にいて、毎日が楽しかったから。明人が困っているなら、わたしは明人を助けたい。今の明人にとっては迷惑かもしれないけど、きっとわたしにできることはあるはずだから」
瞼をとじて、日の光をさえぎる。
――そんなものはない。
なぜなら、俺にはもうほしいものなんてないからだ。求めるものがあると、痛みを負うことになる。一人きりの空間のなかで、無感情のまま過ごしていれば、失うものなんてない。自分が死を迎えるまで、壊れかけた心を守ることができる。
俺の顔にべたべたと触れる、あの手の感触。
なにも言わずに去っていく父親の背中。
雪が舞い散るなかで、かすんで消えていくいろんな思い出。
体の熱を根こそぎ奪われるような感覚が、今もどこかに残りつづけている。テレビのノイズのように頭のなかをかき乱すものが、いつまでたっても消えてくれない。
「明人? どこか痛むの?」
俺は目を開いた。
太陽が雲の裏に隠れたようで、もう目に突き刺す光はなかった。左腕で右腕の裏をつかみ、だらりと垂れさがる前髪を見た。
「……わたしは、明人の味方。だから、困ったことがあるなら全部話してほしい」
それからも、無視をつづける俺に対して歌島さんはとめどなく言葉をかける。話題は転々としていて、俺を気遣う言葉だけではなく、どうでもいいようなことまでしゃべる。歌島さんが通う高校やテレビ番組、友達と話した内容などいろいろなことを。耳をふさぐこともできず、俺はそれを聞いていることしかできなかった。
やがて、日が沈み終わったころに歌島さんが立ち上がった。いつもまともに返答をしない俺に延々と話していて疲れないのだろうかと思った。
歌島さんが、持っていた鞄を肩にかけながら言う。
「ごめんね。もう帰らないといけないの」
さっさと帰れ、と心のなかで毒づいていると、歌島さんの手によくわからない不思議なものが握られていることに気づいた。それは、やたらと薄くて細長いもので、まるで手鏡のように折りたたみ式となっていた。
「……あ、気になる?」
つい、目を向けてしまったのは失敗だった。俺はすぐに視線をそらす。
「時間を見ていたの。でも、ここで使っちゃダメなんだった」
ちらっと小さな画面のようなものが見えたが、そこに時間が表示されているということなのだろうか。少なくとも、入院する前においてこのようなものを持っている人はいなかった。
その装置を閉じて、歌島さんがポケットにしまう。病院のなかで使ってはいけないということらしいけど、理由がよくわからない。確かに、病院内で同じようなものを使っている人を見たことはなかった。
歌島さんは、鞄を肩にかけて病室から出た。
夜、美味しくない病院食を口に運んでから、ベッドから抜け出す。一緒の病室に寝ている爺さんは、早く寝つくので俺の行動に気づくことはない。そして、いつも廊下のはしっこで壁に手をつきながら歩く練習を繰り返す。
足が限界に達したころにベッドに戻って、枕に頭を押しつける。
施設と違って、この病室は広い。窓の外からは犬の遠吠えが聞こえて、風が吹くたびに枝の揺れる音が響く。
懸命のリハビリの甲斐あって、だいぶまともに歩けるようになってきた。倒れる前まで熱心にテニスをしていたのも功を奏しているらしい。近いうちに退院できるだろう。
退院したあと、俺はようやくこの面倒な世界とおさらばできる。
風が止んだ病室のなかで、俺は大きく息を吐いた。
――あの海は、ひどく変わってしまったこの世界に、変わらず存在しているだろうか。
そんなことを考えて、眠りについた。




