第四十二話 拒絶
この世界はなんなのだろう。
目を覚ましてから、おかしいことばかりが起きる。俺の記憶より皺の多い、俺を引き取った二人の大人の姿。二か月ではなく、もっと長い年月が経ったあとのようではないか。
「明人。よかった」
「目を覚まさなかったらどうしようかと思っていたの」
俺の顔に触れようと手が伸びてきたのでぎょっとする。そんな表情が出たのか、すぐに二人はその手を引っ込めた。
まともにしゃべれないのがこんなにきついとは思わなかった。誰も俺の違和感に気づいていない。
俺は十六歳の高校生だったということになっている。そして、二か月前に倒れるまで普通に生活をしていたから、俺ではない誰かが俺を動かしていたということになってしまう。
おそろしい。この世界が俺にウソをついていて、本当はもっと長く眠っていたんじゃないかと思ってしまう。もしウソじゃなかったとしたら、いったい誰が俺のなかにいたのか。俺は俺であるはずなのに、周囲の見る目は俺じゃないそいつを見ているような感じだった。
俺の病室に来るのは、俺を引き取った二人だけではない。よくわからないお姉さんと、俺と同じ四年生の女の子もいた。また、やたらと顔のかっこいいお兄さんも来たし、それ以外にもなれなれしく「明人」と呼びかける人たちがたくさん訪れた。
徐々に口が動くようになったのは、目を覚ましてから数週間後のことだった。一人でいる間に誰にも聞かれないようにしゃべる練習をつづけたおかげで、たどたどしいながらもまともな言葉を発せるようになったのだ。
そんなある日、ベッドのそばに腰かけた医者が俺に言う。
「そろそろリハビリを開始しよう。そうすれば、また前みたいに歩けるようになる。特に所見は見つからなかったから、頑張れば元の生活に戻る」
俺の我慢も限界だった。こいつらがなにを企んでいるのか知らないが、さっさと俺をこんなウソまみれの世界から解放してほしい。
俺は言った。
「元の生活? ってなに?」
ほとんど口を閉ざしていた俺が、急にそんなことを言ったことに面食らった様子だった。医者は、俺の目をまっすぐ見ながら答える。
「もちろん。学校に通ったり、退院して自分の家に帰ったりすることだよ。高校の友達が、君の病室に来ていただろう?」
「……ちがう」
「え?」
「全然ちがう……」
俺は話した。今まで蓋をしてきたことを正直に話した。小学四年生の十歳であること、にもかかわらず急に十六歳として扱われて困っていること。この病室に来たほとんどの人間を知らないこと……。
医者は、信じられないというように目を見開いた。
「それはずっとそうなのかい? ここで目を覚ましてから、ずっとそう思っていたのかい?」
「当たり前だ……。俺は俺だ」
今は、一九九六年の夏で、あの他人の家で寝起きしていただけのはずだった。そこから先のことはまったく身に覚えがなく、いつのまにか病院なんかに閉じ込められている。家のなかで倒れた記憶なんてないし、るいという女の子のこともわからない。
そんなことを、医者に苦々しく語った。
「……君は山村明人くん。それは間違いないのだろう?」
「それは、そう」
「なるほど。わかった。教えてくれてありがとう」
そのあとすぐに、俺の話したことがいろんな人に伝わったらしい。俺の着替えを持ってくる義両親には、戸惑いの感情がはっきりと表れていた。
「本当に、今までのこと、なにもわからないのか?」
義父が問いかけるが、当然首を振る。どうやらなにかあったみたいだが、俺とは関係のない話だ。わかる、わからないではなく、そんなこと俺にとってはなかったのである。
なぜか一緒に住んでいるらしい、るいという女の子にも同じことを言った。
「俺は、おまえのことなんか知らない」
そう告げると、なぜかそいつは泣きそうな顔になる。そんな表情を見ても、俺の心は全く痛まない。むしろ、今までなれなれしかったし、清々したというのが本音である。
今が二○○二年だという話を聞き、身近なものが進化しているのを見て、俺が知っている時から六年が経過しているということは、間違いようのない事実だと理解した。そうなってくるとやはりおそろしいのが六年間の空白である。
六年の間、俺は普通の人間として生きて、バカみたいに前向きに暮らしていたらしい。実際に、前と比べて頭のなかの細かい知識が増えているという感覚がある。なぜか、知らなかったはずの漢字が読めたり、解けなかった難しい問題が分かったりする。誰かと話す言葉でさえも今までとは違う言葉が浮かんでくることもある。
訊いてもいないのに聞こえてくる噂の俺は、非常に優等生だったという。
勉強を熱心にしていたとか、運動部に入って頑張っていたとか。絶対に俺では考えられないような行動をしていた。そんな存在が、なんで急に俺のなかに入ってきたのか。
うっとうしかった。俺は、もう誰のことも信用しないと決めた。だから、そいつがどんな人と関わっていようが、俺の魂が戻ってきた以上もう好きにはさせない。俺は一人きりで、自分だけの世界のなかで暮らしていく。どんなものでも、もう俺のなかには立ち入らせない。
二度と、あんな目には遭いたくない。
二度と、吐き気を催すようなあの手の感触を味わいたくないんだ。
目を閉じるとすぐにでも嫌な光景がよみがえる。そんな光景を振り払うように頭をがしがしと掻き、あの海を思い出す。そうすればきっと、寝られるようになるのだから。




