第四十一話 十歳
――ここはどこだろう?
白い部屋。クリーム色のカーテン。つん、と鼻をさすのは、湿布の匂いなのだろうか。
――どうしてこんなところにいるのだろう?
ぽつっ、ぽつっと水滴の垂れる音を聞いて、俺は横にある長い棒にくくりつけられた透明なパックを目にした。そのパックにはアルファベットで文字が書かれていて、何と書いてあるのかよくわからない。
そのあとすぐに、俺は寒気を感じた。
窓の外に、紅葉した葉に覆われた枝がいくつも伸びている。俺が寝ているベッドのすぐ近くにその窓があるのだけど、どうやら冷気がそこから漏れだしているようだった。
腕を動かさないように慎重に体を起こすと、だいぶここから低い位置にある地面が俺の視界に入った。二階か三階なんじゃないかという気がした。
地面が土の色やアスファルトの色をむき出しにしているから、特に雪は積もってないみたいだ。ちょうど車いすを押す看護婦の姿が見えたので、ここは病院ということになる。でも、俺が病院にいるのはなんでなんだろう。
着ているのは、見慣れない水色の服。テレビかなにかで見覚えがある。入院している人がよく着させられているやつだろう。こんな服装だったら、逃げようにも逃げられない。どこかにTシャツとか、普通のズボンとかあればいいのに。
腕に刺さっている針のようなものに気づいて、それを抜こうと右手を持ちあげた。しかし、すぐに力が抜けてしまって、ぼとんとベッドのシーツのうえに落ちた。
――あれ?
もう一度、チャレンジしようにも体が動かない。さらに首や上半身を起こそうとしても、力がまったく入らない。
どうして、俺はここにいる? 記憶をさかのぼっても、最後の記憶が出てこない。
病院にいるということは倒れてしまったのかもしれない。救急車かなにかを呼ばれて、担ぎ込まれたのだとしたら、余計なことだ、と思う。そのまま死ぬことができた可能性があったのに、それをつぶされてしまった。
誰が助けたのか知らないけど、早くこんなところから出たい。別に自分の体を治したくないのに病院に閉じこめられるのは面倒だ。なんとか力を入れてベッドから這い出ようとするが、体を横に転がすだけで精いっぱいだった。
「あ……」
声のような、呻きのようなものが俺の口から漏れる。声の出し方さえもわからなくなってしまったような感覚だった。しばらく、体を左右に揺らしていたら、看護婦の一人に見つかってしまった。
「……山村さん!」
すぐに中年の看護婦がかけつけてきた。ベッドで動く俺の体をおさえつける。
「先生を呼んできます。混乱していると思いますが、落ち着いてください」
「くっ……」
逃げられなかった。こんなところに閉じ込められるのはごめんなのに。
やがて、医者らしき白衣の男がやってきた。髪をぴっちりと整えた真面目そうな人だ。
「わたしの声は聞こえているかい? 聞こえていたら、なんでもいいから合図をしてくれ」
口を開いて、声を出そうとする。しかし、まともな言葉にならない。俺は、ベッドに投げ出していた指を一本だけ動かした。
「聞こえているということでいいのかな? そうならもう一回動かしてくれ」
俺はその通りにする。
「よかった。聞こえているみたいだね。まずは、君の両親を呼ぶ。状況が分からなくて困っていると思うが、まずは深呼吸をして落ちつくんだ」
逃げられない以上、もうどうすることもできない。俺が、なるべく深く呼吸をしている間、医者が看護婦に『親御さんに連絡して』と話していた。
それから、医者は、俺の目を見て言った。
「君は、二か月もの間、眠っていたんだ」
「……ぃか、げつ」
「そう。だから体に力が入らないのも当たり前のことだ。いろいろ心配なことはあると思うけど、ひとまず不安になる必要はない。大丈夫だ」
どうして、そんなことになったのかまったくわからない。頭だけはやたらとクリアに動くのに、体だけがまったくついていかなかった。
「自分の名前と年齢はわかるかい?」
俺は、指を一本動かした。
「そう。君の名前は、山村明人。十六歳。そのことは、わかっているみたいだね」
俺の思考が凍った。動かそうとした指が止まる。
「じ、じゅう、ぉく?」
「なにか気になることでもあるのかい?」
そんなわけはない。俺が十六歳? バカみたいな話で、ウソを疑った。
ふと、ベッドから見下ろす自分の体が、やたらと大きくなっていることに気がついた。
「か、ぁ、かぁみ?」
「え?」
「か、ぐぁ、み」
「ああ、鏡か」
医者は、近くの看護婦から小さな折り畳み式の手鏡を受け取った。それを俺に向かって開いて見せてくれる。
「……寝たきりだったからね、想像とは違うかもしれないけど」
俺は、その鏡に映った自分の姿に心を乱された。
医者の言うとおり、まったく想像とは異なる。しかし、それは弱った自分の体を見たからではなかった。根本的に、大きく違っているのだ。
――誰だ、これは……。
こんな、大人っぽい姿ではなかったはずだ。だって俺は、小学四年生なのだから。
「……」
二か月寝ていたと教えてくれた。小学四年生の俺が、たった二か月でこんなに成長するはずがない。
――ウソだ。
心のなかでつぶやく。しかし、鏡に映るのは、ずっと変わらず大人びた姿のままだ。




