第四十話 波音
るいの部屋の扉が開いている。なかに誰もいないので、どうやら、もうすでに一階に行ったみたいだ。裸足のまま、ぺたぺたと廊下を歩いて、階段のまえにたどりついた。
一階のリビングに人の気配を感じる。声が聞こえてくるが、ほとんど聞き取ることができない。体調が万全であれば聞き取れるくらいの声量だと思えるものの、頭のなかを素通りしてしまって、認識することができなかった。
階段の手すりを持って、慎重に一段ずつ下っていく。一階に通じる階段が、ずいぶんと長く感じる。家のなかにある光が薄く、長いトンネルを進んでいるような気分だった。自分の足と段差の距離感がつかめない。いつもであれば数秒で終わることが、とてつもなく苦しいことに思えてならなかった。
一階にたどりついて、奥の壁にぶつかる。リビングのすりガラスの奥に人影が三つある。父さんも母さんも、るいまで一緒にいるようだった。
一枚の扉を隔てたその場所が、自分とは遠いところのように感じる。
俺は、ぐらつく視界を必死に定めようとしながら、その扉を開けた。
リビングには、光が満ちている。今日は土曜日なんだっけ、と考えながら、父さんの後ろ姿を見た。食卓の付近に、母さんもるいもいて、なにやら楽しげに話している。
――なにか、いいことでもあったのだろうか。
異変に気づかれないよう目を大きく開き、表情を引き締めて、三人の元まで歩み寄っていく。
時間が経つにつれて、体の異変が収まるどころか、ますます悪化しているように感じる。俺はいったいどうしてしまったのだろうか。壁伝いにまっすぐ進んでいくと、やがて父さんが俺の存在に気づいた。
「明人。朗報だ」
父さんは、そんなことを言った。言葉は聞き取れたが、意味が自分のなかで消化されない。
立っているのもやっとで、父さんと母さん、るいの表情をしっかり認識できなかった。俺はかろうじて、顔を下げずに三人に向けている。
声を発することはかなわないので、ひたすらに言葉のつづきを待つ。
「しばらく、うちでるいを預かれることになった」
ようやく少しだけ話の内容を理解できた。るい、というワードにつられて、少しだけ停止していた脳機能が活性化されたようだ。
俺は意識を振り絞って、父さんの話を聞いた。どうやらこういうことらしい。
ずっと、るいの実の両親と交渉をつづけていたが、向こうが折れた。向こうはるいに対する虐待的な仕打ちの発覚を恐れていて、学校再開を機にるいを引き戻すことを想定していたようだ。もともとるいは大人しい子だったから、自分たちと争うことはないと踏んでいた。
だが、るいが、ここにきてはっきりと意思表示をした。
電話越しに、るいが自分の言葉で自分の気持ちをしっかりと伝えた。あたしはここにいたいのだということ、そのためであれば、必要なことを話すつもりであると。
当然、向こうから罵声や怒声が返ってきたが、すべてを受け止めたうえで自分の希望を言葉にして話した。ここにいることができるのなら平穏に暮らすだけで特に争うつもりはないのだということも伝えた。
最終的に、るいの意思がくみ取られる形となった。るいの両親もまた、面倒なことを避けたいと考えていたのだろう。親権は動かないものの、転校の手続きを含め、こっちで暮らすことに協力してくれることになった。
「だから、正式にるいちゃんはうちの子だ」
それで、さっきから楽しげな声が聞こえたのだと理解した。
るいらしき小さな人影を見る。どんな表情になっているのかまったくわからないが、きっとすがすがしい笑顔を浮かべているのだろうと思う。
「あたしのこと、助けてくれて、ありがとうございます」
そんな声が聞こえてくる。
いいことだ。俺は、歌島だけではなく、るいのことも救うことができたのか。まだ、予断は許されない状況だろうけど、これでなんとかなるだろうと思えた。
今すぐにでも、その喜びを分かち合いたい。これで、よりよい未来にまた近づいたのだ。
口を開いて、なにか言わないと。そろそろ、俺の様子を怪しまれてしまうかもしれない。
「……」
でも、もうそこが限界だった。
意識を緩めた瞬間に、足に力が入らなくなった。目の前の視界が黒くつぶれていく。
「……明人?」
父さんの声。しだいにそれも遠ざかっていく。
体が自分のものではなくなったかのように、指先すら感触を失っている。黒い闇に端々まで覆われてしまうと、もはや自分がどこにいるのかもわからなくなってしまう。
俺は、どうしたんだ。
どうなってしまったんだ。
そんな考えすらも、闇に引きずり込まれていく。
意識が完全に途切れる間際、俺のなかで波の音が響く。
白い泡が、飛沫となって舞う。そんな光景が、暗闇のなかに一瞬浮かんで、すぐに俺の意識ごとその波音に飲み込まれていった。
次話から最終章です。




