第三十九話 ぐらつき
冷たい風が吹いている。おそろしく冷たい風で、俺の体から根こそぎ熱を奪い取るような風だった。そういえば、今は夏のはずである。なのに、どうしてこんなに冷たいのだろう。
強風にあおられて、海面に波が立っていた。ずっと俺の記憶のなかに存在している、思い入れ深いあの海が目の前に存在していた。荒れていて、不規則に動きながら、ざばん、ざばんと波を打ちつけている。
俺は、一人きりでその海の前に立っていた。
体を見下ろすと、汚らしいジーンズに黒いダウンジャケット。両手には、たくさんのしわが刻まれていて、普段よりも息苦しい。
――なんだ?
俺は、海面を見下ろす。
海は濁っていて、黒々としていて、まるで鏡のように周囲を映している。波が収まらず、すぐには判然としなかったが、やがて今の俺の顔がそこに現れた。
――おまえ……。
死んだはずの俺、四畳半のなかで潰えたはずの俺が、自分自身をまっすぐ見据えていた。
また、強い風が真正面からぶつかってくる。
髪の毛が揺れ、海面に写っていた自分の顔もすぐに打ち消される……。
* * *
ずんぐりと、頭に重しがのしかかったような感覚があった。朝に目を覚まして、見慣れた白い天井を見ていたときのことである。
夏休みも下旬に差し掛かり、あと一、二週間後には二学期がはじまる。夏休みの宿題のほとんどが終わっているし、るいのこと以外は、頭を悩ませるようなこともない。にもかかわらず今までの疲れがすべて降りかかってきたかのように、体にダルさが生じていた。
――なんだ?
もしかして、風邪でも引いたのだろうか。寒気はないが、明らかに不調だ。自分の体と精神がうまくかみあわないような感覚がある。
ベッドから起き上がり、立ち上がろうとしたところでバランスを崩した。病院に行って、薬をもらいにいったほうがいいかもしれない。
俺は、部屋の壁に座り込みながら、大きく息を吐いた。
平衡感覚が壊れてしまったかのように上下が安定しない。寝ぼけているだけということも考えられるから、いったんその場でじっとしていることにした。少し体に力を入れて、ベッドのわきに置いていた携帯電話をつかむ。
画面を開くと、午前九時三十二分と表示されていた。
――いつもよりちょっと遅いくらいか。
九時ちょうどに目覚めることが多いけれど、部活がないときは早く起きる必要もない。特に誰からも連絡が来ていないことを確認した俺は、すぐに携帯電話を閉じた。
十時までには降りようと決めて、座り込んだままぼんやりすることに決めた。
窓の外には曇り空が広がっている。白と灰色を混ぜたような微妙な色合いで、もしかしたら今日のどこかで雨が降るかもしれない。
――母さんは、今日パートか。洗濯物は外に干さないようにしないと。
昨日の段階で、天気予報の降水確率は四十%となっていた。今日は比較的涼しい一日となるだろう。
部屋の隅に設置しているエアコンは動いていない。毎日、寝る前にスイッチを切っている。ずっと暑い日がつづいていたとはいえ、冷房の設定温度は控えめにしているし、そんなに長時間つけているわけでもない。たまたま、変なウィルスをもらってしまったのだろうか。
海に行ったのはもう一週間も前のことだから、あれが原因とも考えづらい。
夏風邪をひいたのだとしたら、だいぶ久しぶりだ。手洗いやうがいなど、自衛できることは欠かさず実施していたのだけど、体調を崩すときは崩す。別に寝ていれば治ると思うし、るいに移さないようにすればいい。
夏休みの間、なるべく俺も家事を担当するようにしているが、今日は難しいかもしれない。その点については素直に甘えたほうがいいだろう。
これが、忙しい時期でなくてよかった。今日はなんの予定も入れていなかったから、一日体を休めることに専念できる。父さんや母さんを心配させたくはないし、あんまりつらいそぶりを見せないようにしなければ。
そんなことを考えている間にも時は過ぎていく。あんまり頭が働かないけれど、ずっと一階に行かないままだと怪しまれてしまうかもしれない。携帯電話をまたとって時間を確認するとすでに十時近くになっていた。
――もうか。
いつもより時の進行が速く感じる。もう少し回復してほしかったが、これ以上待っていても改善しないだろう。俺は、立ち上がろうと足に力を入れた。
平衡感覚がまだ不安定だ。壁に手をつけて、足を伸ばすもまっすぐ歩けそうな気がしない。俺は、壁伝いに進んでいって、自室の扉を開けた。




