第三十八話 海の泡
「消えてなくなりたかった」
俺は言った。誰にも話したことのないことを。
かつて、新潟の海を眺めながら、心のなかで吐露していたことを口にした。
子供のように。
「そのときに、とんでもなく嫌なことがたくさんあったんだ。恐ろしいくらいに、すべてが敵に見えるくらいに、ほんとうにいろんなことがあった」
初めて、その海のそばに来たときのことを俺はまだ覚えている。
その施設に入って、でも、その現実を受け入れきれなくて、自分という人間ごと消失してしまったら、どれほどいいだろうと思った。
海は大きくて、どこまでも広がっていて、濁った水を湛えながら揺れていた。
夜空と海の区別がつかないほど、どちらも同じように暗い色をして俺の前につづいていた。
「岩肌に足をのせて、少しずつ足を進めて、岩礁を叩く波に近づいた。あと一歩踏み出せば、その大きな黒いものに飲み込まれて、消えることができるんじゃないかって考えた。そうしたら、なにもかも楽になる。俺の存在なんて、初めからなかったかのように、この嫌な感情ごと消失して、俺がいたことさえ誰の記憶からも時とともに奪われて、ただ、海の泡となる。それでいいんだって、俺は思ったんだ」
こんなことを話したって、歌島が困るだけだとわかっていた。それでも、一度語りだしたら止まらなくなってしまった。
自分でも驚くほどに、当時の記憶が鮮明に残っている。一つ一つの音の粒や感触までもが、今ここにある現実かのように蘇ってくる。
「だが、俺の足は止まった」
俺の頭のなかで、震えている小さな両足と黒光りする岩肌が映る。頭にのぼる血の感覚や、荒くなった呼吸まで伝わってくるような細密さだった。
目を閉じると波音が、在りし日と同様に響いている。
「不思議なことに、ずっと海を見ていたら自分の心のなかのざわめきが収まっていくのを感じたんだ。とめどなくあふれていた涙さえも止まった。呼吸が深くなって、狭まっていた視界が徐々に広がっていくのを感じた。寄せて返す波を見て、そのさざめきを聞くだけで、自然と俺は自分を取り戻すことができた」
目を開いた。
視界には、さっきと変わらぬ砂浜と輝く海が広がっている。まばらにいる人たちが、浅瀬に足を浸しながら、はしゃぐ声を上げていた。
思えば、ずいぶんと異なる未来に来たものだ。俺の世界にはこんなきれいな海は存在していなかった。そして、隣にこんな話を聞く人がいるなんてこともありえなかった。
「以来、気分が滅入ったときには海のそばで腰かけて、じっと海を見ていた。そのときから、海が好きになっていたんだろうな。今でさえも、こうやって海のそばにいると、すごく心が安らぐ」
隣の歌島は、口を閉ざしたまま俺を見上げていた。
困惑しているという感じでも、退屈そうにしているという感じでもない。俺の言葉に耳を傾けながら、じっとそこにいて受け止めていた。
また、あの海を見たいと思ってはいない。ただ、自分にとっての大切な光景として、時を経ても自分のなかで抱えつづけてきた。
どんなに絶望を抱えていても、苦しみに身を引き裂かれそうになっても、ぎりぎりのところで生きつづけてこられたのは、その光景が俺をずっと支えてくれたからだ。
ぼんやりと海を眺めながら、膝を抱えていた小さな体。ほぼなにもない暗がりのなかで、空の果てまでずっと水が瞬いている。俺はそんな暗闇の端にいて、いつでも踏み越えられるその先をイメージしながら、ずっと心の声を投げかけている。
やがて、心が凪いだころに俺は立ち上がる。背後には、人工的な光に包まれた児童養護施設がそびえたっている。周囲には、それ以外にほとんどなにもなく、まるで陸の孤島のように寂しく鎮座していた。
ゆっくりと足を進めて、蠢くフナムシを避けながらそこに帰っていく……。
「……俺は、あの家の養子なんだ」
すると、歌島は驚いた様子もなくうなずいた。
「うん」
「もしかして、知っていたのか?」
またもうなずく。話したことはなかったはずだが、いつのまに知ったのだろう。
「だって、もともとお隣さんだったから。急に男の子が来て、一緒の学校になったから、なんとなくわかっていたの」
「なんだ、そうだったのか」
確かによく考えればその推測にたどりつく材料はいくつも存在している。かつての俺が、一匹狼を貫いていた理由についても、ある程度わかっていたのかもしれない。
さっきまで俺たちが遊んでいた場所の付近で、片づけを終えた森口たちがこちらに向かって手を振っているのが見えた。どうやら、もう帰るところらしい。
俺は、すぐに手を振り返し、そちらに行くという意思を示した。
日がさらに傾いて、夜の気配が深まっていく。
もたれかかっていた岩から離れて、まっすぐ立ち上がったとき、歌島が言った。
「来年も、海に行きたいね」
「そうだな」
俺たちは、他のやつらの待つ場所へとゆっくり足を進めた。




