第三十五話 変化
俺は、歌島やるいよりも背が高いので、足のつかない場所が二人よりも遠い。別に泳ぎたいわけではないし、ギリギリの位置で立っていれば二人が流されるのを防げる。
地平線の彼方から押し寄せる波が、柔らかく俺の胸を押す。海面の先には、屈折した俺の体が見えて、足の動きとともに底の砂が巻きあがるのがわかる。人が多いから濁っているのかと思っていたけど、案外水はきれいだ。
「るいは、海に来たことあるの?」
俺が尋ねると、すぐにるいは「ううん」と否定した。新潟にもいくつか海水浴場はあるはずだから、単純に連れて行ってもらえなかったのだろう。
「景色、すっごいきれい。こんなところで泳げるなんて夢みたい」
「夢だなんて大げさ……いや、そうだな、夢みたいだな」
しどろもどろな俺の様子に、歌島が笑いをこらえている。おまえがそうしろって言ったんだろと内心毒づきながら、俺はつづけた。
「とはいえ、るいは運がいい。海っていうのはこういうところだけじゃないから。人が泳げるような環境じゃないこともある」
「それはどんなところなんです?」
「ゴミがいっぱい落ちているところもあれば、そもそも浅瀬がないところもある。波が激しくて、入ったらそのまま流されてしまうところもある」
「そうなんですね。海ってこわいです」
と、適度に怖がらせたところで、俺は言った。
「だから、少しでも体がつらいと思ったらすぐに教えるんだ。無理をしたらいけない」
「……たまに、優しいのか優しくないのか、わからなくなります」
「なに言ってんだ。俺はずっと優しいだろ」
さすがにこんなところで溺れさせてしまったら目も当てられない。
「おーい」
少し離れたところから声が聞こえた。そこには森口がいる。
ビーチボールが、風に乗ってこっちに運ばれてきた。どうやら、見当違いのところに投げてしまったらしい。俺はすぐにそれをとって投げ返した。
「サンキュ」
爽やかにお礼を言う森口の声を聞きながら、俺は小さく呻いた。
「……いって」
左肩をおさえる。海中にいながら投げたので、体が変な動きをしたのかもしれない。
歌島が、あわてて近寄ってきた。
「大丈夫? もしかして……」
「いや。あんまり気にするな。ちょっと痛んだだけだ」
俺の左肩には、歌島を守るときに負った古傷が残っている。だいぶ深く刺されてしまったので、六年経った今でさえたまに痛みが走る。テニスをやるときは片手バックハンドで対処して左肩に負担をかけないようにしているが、一生、治ることはないのだろうと思う。
念のため、視線を下げて古傷を確認する。
「……傷は開いてないな」
当時、何針も縫った痕跡がはっきり残っている。二本の赤い線が、浮き出た血管のように左肩を走っていた。
「まだ痛むことがあるの?」
「いや、めったにないよ。大丈夫」
「うん。でも改めて見ると、やっぱりすごい……」
歌島は、触れようとしたみたいだが、すぐに手を引っ込めた。この傷を抱えたばかりのときは、毎日激痛が走って大変だった。神経も一部やられていたみたいだから、未だにうまく肩が持ちあがらない。
もしも、俺がプロ野球選手を目指している少年だったなら大事になっていたかもしれない。しかし、これ以上失うもののないような存在だったから、大したことではなかった。この傷跡で新しい人生を歩みはじめることができたのだし、ありがたみさえある。
「どうかしたのです?」
俺たちの様子を見て、るいが不思議そうに首をかしげる。俺は言った。
「なんでもない。それより、だいぶ浮き輪にも慣れたみたいだな」
最初は浮かぶことしかできなかったが、腕や足を使って自由に移動できるようになったようだ。体のバランスを崩さなくなったし、だいぶ安定している。
「頑張ったら、なんとかなりました」
「こういうのは結局感覚だからな。理屈で説明するよりも、やってみたほうが早い」
「そうみたいです」
俺は、ビーチボールを投げ返した方向に視線を向けた。
「そろそろあっちに混ぜてもらうか」
森口たちは、ボールやフリスビーを使って遊んでいる。るいに無理をさせなければ、あっちで一緒にやっても問題なさそうだ。
るいはうなずいた。
「はい。いっぱい遊びたいです」
「はしゃぎすぎて、あんまり水を飲まないようにしろよ。おまえは泳げないんだからな」
浮き輪をつかんで動かすと、一緒にるいの体も流される。移動できるようになったとはいえスピードが遅い。るいには出せないスピードで移動していたら、それがるいには楽しいようで始終「わー」と叫びながら笑っていた。
出会った当初と比べて、だいぶ感情表現が豊かになった。大人びた雰囲気を出すときもあるが、やはりこっちが本来のるいなんだろうと俺は思った。




