第三十三話 黒い感情
「なるほどな」るいの話を聞いて、俺は深いため息をついた。「よく理解できたよ。つらいことだったのに、話してくれてありがとう」
やはり、相当にひどい状況だったようだ。もしも自分で逃げ出すことができなかったなら、最悪の事態を招いていた可能性もある。両親とも家にまともに寄りつかないのであれば、なかなか連絡が取れなかったのもうなずける話である。
(そっちにいるなら、別にどうぞ、ということだ)
父さんの言葉を思い出して、また脳裏にどす黒いものが広がっていくのを感じた。
だが、今はるいのことだ。すぐに心を落ち着かせて、るいを真正面から見つめた。
「おまえは、十分立派だと思う。ふつうはそこまでできない。お金をとったことだって、絶対に責められるようなことじゃない。必要だったお金を、もともと向こうが出さなかったというだけの話だ」
ずっと抑圧されてきたのだろう。支配されつづけてきたから、自分の行動に自信を持つことができない。だが、客観的に聞いてみれば、何一つとして悪いことはない。
「学校には行っていたのか?」
すると、るいはうなずいた。
「でも、いろいろひどかったから友達がいなくなっちゃった」
「先生は?」
「……一度来たことがあったけど、それだけ」
あんまりまともに対応してくれなかったようだ。それか、ヤバイ親だということを知って、関わりたくなくなってしまったのかもしれない。
それともう一つ、俺には気になることがあった。
「……おまえのされたこと、それがすべてか?」
るいの話を総合すると、両親がなにもしてくれなかったということに尽きる。しかし、それではつじつまの合わないことがある。
俺は、どう話そうか迷いながら、遠慮がちに言った。
「……母さんが教えてくれた」
言いたくないことなのはわかっている。それでも、聞き出さないといけないと思っていた。
「体に、いくつか傷があるんだろ。それは、本当に転んでできた傷なのか?」
今も、腕の裏にかすかに傷跡が見えている。一つ二つならまだしも、古い傷まで含めて多くあるのであれば、偶然にできた傷とは考えづらかった。
俺は知っている。子供という身分の不条理さを。
社会において、子供にはなんの自由も与えられていない。お金を稼ぐことはできないし、物理的にできないことが多くあるし、そのうえで大人よりも言葉に重みがない。だから、もしもひどい状況に陥ったときに簡単に脱出することはできない。
るいは、腕をさすりながら小さな声を発した。
「……でも、これはお母さんたちじゃない」
これについては、特にかばっている様子じゃない。となると、思いつくのは一つだけだ。
学校では友達がいないと話していた。もしかしたら、それだけじゃなくて、イジメのようなものに遭っていたのかもしれない。
イジメられていたなんてこと、自分から話したい内容じゃない。これ以上深堀りしても意味がないと理解した俺は、「わかった」とだけ返しておいた。
俺は想像する。家では、地獄絵図のような光景が広がっている。両親は基本的に家にいなくて、たまにいたとしても鬱陶しがられてしまう。よれよれの服を着て学校に行くと、同級生の目は冷たく、からかわれたり、突き飛ばされたりすることになる。そんなつらい目に遭わされていても、先生も親も、誰も助けてはくれない。ご飯すらまともにとれていなかったのなら、いつもお腹を空かせていたことになる。
ひどい話だ。本当にひどい。とうてい、元の場所に帰すわけにはいかないと思った。
正直なところ、転校させるのであればそこにいる友達と引き離すことになるわけだし、るいは嫌がるかもしれないなんて想像もしていた。だが、こうなったら話は別だ。むしろ、とっととそいつらから引き離してしまったほうがいい。
「おまえは、自分の親に対して、どう思う?」
その質問に、るいは唇を指でつまんだ。
難しい質問だったかもしれない。どんな親であったとしても、簡単に割り切れるほど単純な関係ではないのだ。それは俺自身もよくわかっていた。
もし、この家に残るように努力するのであれば、るいの両親と争う必要も出てくるかもしれない。そのときに、るいのされたことを正直に話してもらう必要がある。
「……」
しかし、しばらくしても返事は来ない。元の家に戻りたいなんてことは考えていないだろうが、簡単に折り合いをつけることはできないのだと思う。
「わかった。ひとまず、今日はいろいろ話して疲れただろ。ゆっくり休め。また、なにか訊くことがあるかもしれないけど、おまえの場合、ゆっくり体を落ちつけることも仕事だ」
「……うん」
俺は、るいの部屋を出て自室に戻った。
ドアを閉めて、一気に体から力を抜く。俺自身もるいの話を聞きながら、ずっと神経を張りつめていた。
――嫌な記憶ばっかり、いつも思い出す。
忘れたいことは、そこに染み付いた嫌な感情まで鮮明に脳裏に蘇ってしまう。それでも、俺までもがそこから逃げることは許されない。るいのためにも、俺自身のためにも、今は、この状況と真正面から向き合うしかない。
しばらく、俺はそこでぼんやりと座り込んでいた。
きれいな部屋。温かい両親。それとは対極にある、いくつものひどい記憶の数々。
るいに偉そうに物申せる立場じゃない。俺はそんな風に自重しながら、蛍光灯の眩しい光をじっと眺めていた。




