第三十話 悪い子
るいの両親と連絡がついたのは、それから一週間が経ったときだった。そのとき、俺は家にいなかったのでどんな反応だったのか、あとで父さんから聞いた。
「そっちにいるなら、別にどうぞ、ということだ」
「……それだけ?」
「それだけだ。特に事を大きくするつもりはないらしい。ただ、親権とか養子の話にはなってないから、ずっと置いておけるわけでもない」
俺がいない間に話してくれてよかったと思う。もともと自分にある負の感情と相まって、変な暴走をしてしまう可能性がある。もしかしたら父さんも俺を気遣って、そうなるように取り計らってくれたのかもしれない。
想像以上に進展がないという感覚だった。夏休みが終われば学校が始まるし、転校手続きができないのであれば戻らざるをえないのではないかという気がした。
――まさか、それがわかっているのか?
俺のなかでそんな考えが芽生える。こちらもこちらで、うまくやらないと足元をすくわれるかもしれないし、慎重に事を運んでいく必要がある。
「るいには、話すの?」
「……ある程度、言葉は選ぶ。そのうえで、もっといろいろ話を聞いておかないとな」
うなずく。もちろん最優先されるべきはるいの意思だけれど、るいにはまだ親に対する感情が残っているのではないかという気がしている。あのアルバムが、不退転の覚悟なのか、それとも未練によるものなのか、俺にはまだわかっていないというのが正直なところだった。
夜、父さんからそのことを伝えられると、るいは「そうですか」と小さくこぼした。
「だから、今は気にせずにここにいていい。まだまだ考えなくちゃいけないことはあるけど、いったん大人に任せておけば大丈夫だよ」
「はい」
父さんは、「興味なさそうにしていた」ということを話すのではなく、うちにいることについてなにも問題はないということだけを強調した。一人で逃げてきたるいにとって、ここが最後の砦でなければならない。
話のあと、俺はるいの部屋を訪ねた。
「ちょっといい?」
ノックをすると、奥から「平気です」という返事が聞こえた。
ドアを開けた。相変わらず殺風景なるいの部屋が、視界に広がった。
俺は、少し離れたところで腰を下ろす。両親よりも、年齢の近い俺のほうが話しやすいことも多いのではないかと思った。
「ここに来て二週間近く経つけど、どうだ? 困っていることはある?」
急にそんなことを訊かれるとは思わなかったのだろう。少し戸惑っている様子だった。
「全然、ないです。みんな優しいです」
「母さんの料理、おいしいだろ?」
「あ。それは、はい。とてもおいしいです」
今日は天ぷらだったが、るいは恐ろしいほどたくさん食べていた。初めてここに来たときと比べて、食欲が旺盛になったという印象がある。
他にも、生活にまつわるいくつかの質問をしてみたが、困っていることはなさそうだった。両親も俺も、るいが快適に暮らせるように努力しているから、それが実を結んでいる。
俺は、初めてるいに会ったときのことを思い出す。
あのときのるいは、ボロボロの服と血色の悪い顔で、雨の降る外を眺めながら一人でベンチに座っていた。あれから、しばらくここで暮らしているうちに、だいぶ血色がよくなり、服装もきれいなものに変わっている。
でも、この家でしていることは、子供にしなければならない当たり前のことで、特別なことはなにもない。逆を言えば、もともとるいが暮らしていた環境が、どれほど劣悪だったかということになる。
「……おまえがいた場所は、どんなところだった?」
俺が尋ねると、るいは目を伏せた。
助けて、と言われたときの手の感触は、今も覚えている。また、父さんと母さんに優しくしてもらって涙を流したときの姿も、はっきりと脳裏に残っている。
「ごはんは、ちゃんと食べていたの?」
るいはうなずかなかった。首を振ってはいないけれど、意味は一つしかない。
「ちゃんと、必要なものを与えてくれたか?」
うなずかない。
「るいに対して、優しく接してくれた?」
ずっとうつむいたままだ。意地悪な質問をしているという自覚はあったが、はっきりさせないといけないことである。
アルバムの写真のなかには、るいがもっと幼いころの出来事が記録されていた。しかし、今と近い年齢の写真はなく、そのくせアルバムにはたくさんの空きがあった。
るいは、ぽつりとつぶやいた。
「たぶん、あたしが悪い子だから……」
「……っ……」
その悲しげな表情を見たとき、俺のなかで、フラッシュバックする記憶があった。
児童養護施設のまえに、裸足で俺は立っている。その先には、一人の若い職員の姿がある。
夜。街灯が少なくてほとんど周囲は暗闇に包まれていたが、児童養護施設にだけぽっかりと光が当てられていた。俺の足元からまっすぐ影が伸びている。
職員に対して言った。
(――俺は、悪いことをしたから、こうなったの?)
どうして、そんなことを訊いたのか、明確に思い出すことはできない。
ヒーローもののような勧善懲悪を信じていたわけではないけれど、ついそんな疑問が脳裏に浮かんできて、それを言葉にしてしまったのかもしれない。
俺は、泣いていない。怒ってもいない。
ただまっすぐその質問を、ぶつけるだけだった。
職員は、俺の言葉に困ったように眉を寄せて、「そんなことないよ」と頼りなく返した。
それ以上、特にかぶせることができなかった俺を見て、その場を去っていく。
空虚だった。自分の胸にある空虚さを埋めるために、なんでもいいから代わりとなるもので満たしておきたかった。
いつのまにか、俺は海に来ていた。
海と接する岩礁はごつごつしていて、尻に痛みを与えた。満月が空で輝き、海面のうえに光を散らしている。
身を乗り出して海面を見ると、俺の顔がそこに映し出されている。
波に揺られながら、どこまでも深淵をのぞきこむ俺がそこに存在している……。




