第二十七話 ブラシ
二階にあがり、るいの部屋となっている六畳間に足を踏み入れた。
急ごしらえなので大したものはない。布団が床に敷かれ、るいのリュックやその中身が隅のほうに転がっているくらいだ。また、母さんと一緒に買ったるいの服は、衣装ケースのなかにしまってある。
部屋のなかを見たあと、歌島はるいを座らせた。
「ちょっと待ってて。すぐに戻ってくるね」
そして、いったん俺の家を出たようだ。おそらく、自分の家からなにかとってこようとしているのだろう。
数分でまた戻ってきた歌島は、赤い小さなポーチを持っていた。そして、るいの後ろに回り込んだ。
「え、え? 歌島、さん?」
「ごめん。大人しくしていてね」
ポーチを開き、そこから新品と思しきブラシを取り出した。
背後から抱きしめるような形で、歌島の左腕がるいの腰に回された。それから、手に持ったブラシでるいの髪を梳きはじめる。
母さんも多少は梳いてあげていたが、忙しさゆえにおろそかになっていたのかもしれない。俺はその様子を黙って見守っていた。
ゆるく冷房の風が吹いている。るいは、くすぐったそうに身をよじりつつ、大人しくブラシを受け止めていた。視線のやり場に困ったのか、俺のほうを見て恥ずかしそうに口を閉じる。こんなふうに密着されながら髪を梳かれるのは初めてなのかもしれない。
「るいちゃんは、いつからここにいるの?」
アヒル座りとなったるいは、手で足をさすりながら言う。
「一、二、三、四……たぶん五日前から」
「そうなんだ。いつ帰っちゃうの?」
「……えと……」
るいにとって非常に難しい質問だろう。俺が代わりに答えることにする。
「実はまだ決まっていないんだ。ただ、しばらくはここにいると思うよ」
「はい、そうです。そんな感じです」
「ふぅん」
曖昧な返事になってしまったが、特に突っ込んでこなかった。
「なら、まだまだお別れしなくてよさそう。せっかくだし、もっと仲良くなりたいな」
この短時間で、歌島はるいを気に入ったようだ。確かに小動物じみたかわいさがあるよなと思う。兄弟姉妹がいなかったので、そういう存在に憧れのようなものがあるのかもしれない。
「よし、だいたいおっけーかな」
五分くらいで歌島がるいを解放した。俺はあまり気にしていなかったけれど、確かにだいぶ髪の毛がまとまったような感じがする。るい自身もそれを実感しているのか、何度も髪の毛を触っていた。
「歌島さんは……」
るいは、後ろを振り返りながら言った。
「歌島さんは、ステキな女性なのですね」
「おぅ……」
不意打ちで発せられた言葉に、歌島が変な声を上げている。あんまり考えたことがなかったが、意外と面倒見がいいタイプなのかもしれない。
やることもなく立っていたら眠気が襲ってきた。あくびをしているとき、歌島が俺を見た。
「なんで、五日も教えてくれなかったの? せっかくこんな子が来ているのに」
「……別に、わざわざお前に教える必要はないだろ。『今日から親戚の子がうちに来ているのでどうぞよろしくお願いします』とか馬鹿みたいに挨拶すればよかった?」
「そんなこと言ってないでしょ」
もちろん、五日の間に歌島とは何回か会っていたから、そのときに話してほしかったということだろう。センシティブな話なので、こういうことがなければ一切伝えるつもりはなかったし、話さない理由を考えるのも面倒だった。
歌島がため息をついている。
「でも、わたしは今まで会ったことなかったし、こんなこと初めてだよね。るいちゃんとは、もともと面識があったの?」
「さあな。あったかもしれないし、なかったかもしれない」
俺に答える気がないと理解したらしく、歌島はそれ以上訊いてこなかった。少しむっとされてしまったが、まじめに答えて要らぬことまで話すよりマシだ。
「このブラシは、るいちゃんにあげるね」
使ったブラシをるいの手に乗せる。るいは、「ありがとうございます」と小さく言った。もしかしたら、リビングにるい用のものがもうあるかもしれないけれど、そこまで口をはさむのは良くないと自重しておいた。
「ところで、歌島はなにしに来たんだ?」
特にうちに来る用事は思い当たらないが。と、歌島はきょとんとしたような顔になる。
「別にないよ。なんとなく来ただけ」
「ああ、そう……」
まあいい。るいと俺だけでは時間を持て余すことが多かったし、歌島の存在はありがたい。
俺は、自室のなかにあったトランプをるいの部屋に運んだ。三人で遊ぶもので無難なものはこれくらいしか思いつかない。ゲーム機の類は、うちにはあまりない。
「トランプのルールで知っているのは?」
るいに尋ねると、ババ抜きと大富豪、それからスピードという答えが返ってきた。俺もそれくらいしか知らないのでちょうどいい。三人でやるならスピードという選択肢はないし、必然的にババ抜きか大富豪ということになる。




