第二十話 未来
「前に、やってみたいって言った。夜にこうやって話すの」
「俺は部屋にいないけど、まぁ似たようなものか。夏休みだからって夜更かしばかりしているから寝られなくなるんじゃねえの?」
「そんなことないよ。寝不足は美容の敵だってお母さんが教えてくれたもん」
「じゃあ、なおのこと早く寝たほうがいいじゃん」
「いじわる」
むっとした歌島の表情が目に浮かぶようで、俺は苦笑してしまった。
やはり携帯電話を使って、夜に二人で話すことに憧れがあるのだろう。それに付き合うのも悪くないので、まぜっかえすのはやめることにした。
うなされて起きるまえに見た光景を頭のなかから振り払う。歌島の優しい声色は、俺のなかにある恐怖をぬぐう効果があるのだと今日初めて知った。目を閉じて、歌島との会話に意識を集中させる。
「確かに変だよね。わたしたち、ずっと隣同士で育ってきたんだし、こんなふうに電話なんて使わなくてもいいのに。でもね、電話で話すのは、会って話すよりも違う感じがするの」
受話器越しにがさごそと音が聞こえる。歌島が、ベッドの布団を動かしているのだろう。音だけで伝えるからこそ、相手の機微をより鮮明に感じるのかもしれない。
「明人。ちょっと疲れた感じの声だね」
「……そう?」
「うん。わたしはいつも一緒にいるからわかるよ」
疲れているのは確かだ。俺は、本来の自分ではない自分をずっと演じているようなもので、それは奥に存在する自分の本質を一切信用していないからだ。
「いつも明人は、わたしのことを助けてくれる。でも、わたしから助けることはなかなかできない。なにか、悩んでいることでもあるの?」
「おまえらに音痴呼ばわりされたことを、気に病んでいるってのはあるな……」
「ほら、すぐそうやってごまかす。それに、本当に下手だったし……」
このことを掘り下げると、傷を深くするだけだからやめておこう。俺は唇をなめた。
「別に、悩んでいることなんてないさ」
当然、俺の過去にあったいろんなことを正直に話したことはない。壁を作って、過去に失敗を重ねたけれど、やっぱり簡単に話せることではない。
「ただ、たまに一人になりたいときがあるし、勉強のしすぎで頭がパンクしそうになるときもあるってだけのことだ。誰にでもあるような、普通のことでしかない」
「ねえ」
そのとき、歌島がいつもよりも一段と低い声で言った。
「明人って、どうして、時々、未来のことがわかるの?」
その言葉に心臓が大きく跳ねる。閉じていた目を開いた。
歌島がつづける。
「小学生のときに、わたしを助けてくれたこと。あと、パソコンとかインターネットとかについて教えてくれたこともあったよね。明人が言う『未来のこと』はだいたいその通りになる」
道路には一台の車もなく、薄れた白線が横に引かれているだけだ。この世界にあるすべてのものは、一直線に一つの未来を目指しているように思える。俺一人の存在だけでは大きく変化しないくらいに強固な道筋が存在している。
未来は収束するなんて信じていないけれど、それでもこの六年ほどの期間でたくさんの予定調和を見てきた。例外は、数えるほどしか存在していない。
「状況からの推測だ。将来的に競馬や競艇のプロ予想士になれるかもしれない」
「わたしは、明人の言うことなら信じるよ」
冗談を信じるという意味なのか、未来から過去に戻ったという荒唐無稽な話をしても信じるという意味なのか、よくわからなかった。
どちらにせよ、あのときのことを話そうなんて選択肢はない。
俺は、大きく息を吐いた。
「恥ずかしい話、本当は嫌な夢を見て起きたんだ」
「へ?」
俺はつづける。
「困ったことに、変なおっさんにべたべた体を触られる夢でな。なんでそんな夢を見たのか自分でもショックなんだ。悪夢の内容なんて、あまり人に話したいことじゃないだろう。夢は、その人の不満や願望を表すという噂もある。だが、俺にはおっさんにべたべた触られたいという願望なんてないわけで、いったいどうしてなのか未だにわからない……」
これが、今の俺にできる精一杯のごまかしだ。
歌島は、困ったように言う。
「あ、そうなんだ……。うん。夢なんて本人にもよくわからないものだよね」
「ああ。だからあまり気にしないでくれ」
いつか、話すときは来るかもしれない。だがそれは今じゃない。俺だって、未だにこの現象を十分に把握できていないし、これから起こる未来と全力で戦っている最中だ。
「補導されたら嫌だから、もうじき家に戻る。おまえも疲れているみたいだから寝なよ」
「わかった。出てくれてありがとう」
「おやすみ」
「うん、おやすみ」
電話を切ると、一気に夜の静寂に包まれた。すでに頭のなかは冷静になっていて、比例するように眠気が強まっていく。
「……帰るか」
俺は、ベンチから立ち上がる。ジャケットにまた袖を通し、家に向かって歩きはじめた。




