第一話 遡行
岩肌に包まれた海を思い出す。あれだけ大きい海が、地平線から流れてきた波におされて、岸辺になんども打ちつけられる。毎回同じようなところで水が止まるのが、小さいころの俺には不思議な光景に見えていた。
頭の中でさんざめく波の音を聞きながら目を覚ますと、そこは見慣れた汚い天井ではなく、清潔な白い壁紙に覆われた天井だった。
「え?」
すぐに、俺は気づいた。記憶の奥底にしまわれていた光景と同じだったからだ。
ベッドから立つと、今の自分よりも低い身長。まさか、と思った。
鏡が見当たらなかったので、一階に降り立ったとき人の気配を感じた。おそるおそる、リビングの扉を開くとそこには俺のよく知っている夫婦の姿があった。
片方は、メガネをかけた線の細い男性。
もう片方は、髪を後ろで縛った女性。
俺の記憶よりも若々しい姿で、俺の目の前に存在していた。
「明人くん、どうかしたかい?」
俺の様子がおかしいことに気づいたのか、近づいてきた。急に怖くなった俺は、つい逃げ出してしまう。
玄関には、靴が何足も並んでいる。今の自分の足のサイズが分からず、とっさに靴を選ぶことができなかった。適当につっかけて、ドアを開けると整然と並ぶ住宅街の一角に出た。
「明人くん!」
わからない。なにが起こっているのかわからない。
体の感覚がつかめない。走ろうとしたが、うまくいかなかった。
どうして、俺の体は小さくなっている?
どうして、死んでしまったはずの二人がいる?
まるで、過去に戻ってしまったかのようではないか。
右足を左足に引っ掛けて転びそうになってしまった。道路わきに立つ電柱に手を置いた。
「どうしたの? なにか気になることでも?」
俺は、おそるおそる振り返った。
目を大きく開いて、至近距離で改めて見ても、やはりその人は、俺のよく知る義父だった。
名前は、山村紀仁。幼き俺を引き取って、育ててくれた。懐こうとしない俺に対して、辛抱強く声をかけて面倒を見てくれた。
すでに、死んだはずだ。仮に生きていたとしても、今の見た目はあまりにも若すぎる。なぜなら、今ここにいる義父が四畳半の部屋にいた俺の年齢とほとんど変わらない様子だからだ。
「言いたいことがあるなら言っていい。そう約束しただろう」
低い位置から、日差しが差し込んでいる。これは、もしかして天国というやつなのか。でなければ、幸福に最も近かったころを都合よく再現できるわけがない。
そこで、俺は思い出す。四畳半の狭い部屋のなか、寒さに震えながら目をつむったこと。意識が途切れ、死を覚悟したこと。
過去に戻ることはあり得ない。であれば、これは死の間際に見ている幻想で、すぐに覚める夢なのだろう。
気を失うまでの苦しみは嘘のように存在していない。俺を不憫に思った神様が、最後の最後でサービスしてくれたのかもしれない。気持ちよく呼吸ができるのは久しぶりだった。ずっと、心も体も痛みに支配されていたから、実にすがすがしい。
「……言いたいこと」
あまりにも突然に起こった事態に、まだ混乱していた。これで、言いたいことを告げたら、この夢のような時間は終わるのだろうか。
俺は、ふらふらと歩きつづけることにした。頭の芯が眠い。
夏だ。朝の早い時間だと思われるが、これだけ暑さがあるのだからまず間違いない。近所のゴミ捨て場には、ネットをかけられたいくつものゴミ袋が積みあがっている。まだゴミ収集車が来ていないということだろう。
後ろからついてきている義父は、不思議そうにしながらも俺の行動を止めようとはしない。黙って、俺のあとをゆっくり追いかけている。そうだった。昔から、この人は俺のことを否定せず、黙って見守ってくれた。当時の俺は、疎ましく思いこそすれ、そのことに感謝したことは一度もなかった。
――小学校を、最期に見たい。
セミの鳴き声が、通学路だった道を進むにつれて、大きくなっていく。そういえば、今通りすぎた電気工務店は、俺が中学生のときにつぶれてしまった。それが、過去に存在したように残っていたから、やはりこれは現実のものではない。
「懐かしいな……」
体が小さいせいか、ずいぶんと遠く感じる。
やがて、俺はかつて通っていた小学校の前にたどり着いた。
「AB市立〇×小学校」と記載された銘板が正門の前に掲げられている。夢のせいか、まだ朝だからわからないが、あまり人の気配がなかった。
足を踏み入れたところで、袖をつかまれた。
「明人くん。どうしてなにも持ってないのに学校に? 用でもあるのかい?」
俺は、素直に答えることにする。
「見たいんです。どうせ、もう来ることはないので」
すると、義父が怪訝そうな表情に変わる。
「それはどういう意味だい? もう学校には行きたくないということなのか?」
「そういうことじゃありません。自分には時間がないので、通いたくても通えない」
「時間はいくらでもある。ゆっくり考えればいいじゃないか」
あのときには、実際に時間があったのかもしれない。その時間をもっと有効に使っていれば、あのような結末を迎えなくてよかったのかもしれない。
でも、過ぎたことはもう変えられない。こうやって思い出に浸るだけで精いっぱいだ。
「ほんとうに、時間があればどれだけよかったんだろう」
失うものばかりで、最後の最後には命さえもこの手から零れ落ちてしまった。
「やり直すことができたら、失ったものを取り戻せるなら、存在したかもしれない幸福をつかめたのかな、ってよく考えた。あとになってわかるんだ。自分が恵まれていたのだということを理解できたんだ。失わないと、そこに存在していたことさえ気づかない。二人に拾われて、幸せだったことにさえわかっていなかった。二人がそばにいてくれるありがたみを理解していなかった。ああ、それにしても、嘘の世界だってわかっているから、素直に自分の気持ちを話せるのかな」
義父は、真剣な目で俺を見ていた。
俺の服装は、よく見ると小学生のときによく着ていたTシャツだ。鋭い目つきをしたヘビのキャラクターが中央に大きくのっている。こういう細かいところまで再現してくれるなんて、本当によくできた幻想の世界だと思う。
まるで、本当に過去に戻ってきたみたいだ。
「でも、ゲロまみれで、寒さに震えながら死ぬ記憶で終わるよりマシだ。感謝している」
そこで、義父が腰を曲げながら俺に訊いてきた。
「悪い夢でも見たのかな? 大丈夫。明人くんが心配するようなことはなにもない」
「まぁ、悪い夢……そうと言えばそうかも」
「うん。恐ろしい夢を見たあとは、現実と夢の区別がつかないことがあるよね。きっと、今はそんな状態なんだ。いったん、今は家に戻って整理しよう?」
「整理……」
この偽りの世界がいつ剥がれ落ちて、死という暗闇に叩き落されるのかわからない。そう考えると、小学校に後ろ髪をひかれる思いがあるけれど……無理に義父の手を振り払って行こうという気にもならなかった。俺は、うなずいた。
自分の手よりもはるかに大きな手で握られて、家へと引き返す。そういえば、混乱したまま、義母の顔をしっかり見ずに飛び出してきてしまった。死ぬ前に、義母の顔もちゃんと見ておきたい。
家の一階には、まだ義母がいた。俺の顔を見ると、ほっとしたような表情を浮かべていた。
「大丈夫? 気分でも悪かった?」
俺は、首を振った。食卓には、俺の分も含めて三人分の食事が並べられていた。本当に緻密な再現度で夢と知りながら感心してしまう。生きていたころ、明晰夢として自由に操れた経験は一度もない。ひとまず、今の俺にできることは、死にかけていたことを脳裏から排除して、夢から醒めないようにすることだけだ。
義母は、俺の前に腰かけながら心配そうに俺を見ている。記憶よりもずっと若々しい姿で、かつての俺がいかに彼女に苦労をかけてしまったかがありありとわかる。
「どうやら、明人くんは良くない夢を見ていたみたいだよ」
「そうなの? それは大変ね」
むしろ、現在進行形で素晴らしい夢を見ている。家のなかの細部に至るまで、きちんと映し出されている。自分の記憶をもとに夢が構成されているのであれば、俺の頭にはちゃんと細かく残っていたということだが、天国であれば神様が俺のために誂えてくれたということになる。
「ご飯は食べられそう?」
うなずいた。ただ、食べ物はちゃんと味わうことができるのだろうか。
卵焼きをつかんで、口に含んだ。
瞬間、驚きに体が震えた。
なぜなら、それはかつて食べていたものと全く同じ味だったからだ。味覚までも、俺に与えてくれるなんて想像もできなかった。最期のほうに食べていたものは、味のないもやしとふやけた麺くらいだったのに。
箸が止まらなくなる。これだけおいしいご飯を食べたのはどれくらいぶりだろう。
気づけば、食卓のうえの料理はほとんどなくなっていた。
「学校には行けそう?」
「……学校?」
「そう。もう少ししたら行かないといけないわ」
「ねえ、それって小学校のことを指している?」
「それ以外にあるの?」
小学生なのか、今の俺は。なんとなくそんな気はしていたけれど。それなら、学校のなかにも堂々と足を踏み入れられる。俺のために神様が用意してくれた設定なのかもしれない。
「行ける。大丈夫」
「無理そうだったら、途中で帰ってきても大丈夫だから」
未だにふわふわとした感覚のままだ。ランドセルを背負うと、義両親ともに俺を見送ってくれる。この光景もまた、失われてしまったものの一つだった。
「行ってきます」と言うと、「行ってらっしゃい」と返ってくる。もう、俺にそんな風に言ってくれる人なんていなかったはずだから、本当にうれしい気持ちになった。
さっき外に出たときより、人が増えている。電柱の下から伸びる影も、空気の匂いも、肩に食い込むランドセルの重みも、かつて経験したものと同じだと古い記憶が告げている。
ゆっくりと歩きだす。
この幻想を現実のものとして生きていたころ、俺はとんでもなく厄介な子供だった。
ありとあらゆるものを敵とみなしていて、今見ているこんな景色に苛立っていた。自分は、世界で一番不幸な子供だと考えていたし、他人はみんな自分を害する存在だと思っていた。
そんなわけはないのに。
俺にとって、もっとも世界が優しかった時期なのに。
今の俺にはとても美しい光景だと思える。見る人の心境が変わるだけで、こんなに世界は様変わりするものなのか。
足を進めていくと、急に横に建つ家から扉が開いて閉じる音が聞こえてきた。
ふと、そちらに目を向ける。
隣の家だ。表札には、歌島という文字が書かれてあった。
家から出た女の子が、さらに奥の門扉を開いたとき、俺の存在に気づいてこちらを見た。
「あ……」
俺は、奥深くに眠っていたその記憶がよみがえるのを感慨深く受け止めていた。
そうだ。隣に住んでいた女の子――歌島生美という少女だ。
飾り気のない髪。いつも着ていた紺色のシャツ、デニム生地のスカート。
歌島は、俺の存在に戸惑っている様子だった。どの記憶を探っても、俺がこの子と仲良くしていたという記憶はない。家が隣同士であるにもかかわらず、ほとんど接してこなかった。
当時の俺には、隣の女の子を気にする余裕もなかった。
そして、まともに会話をすることもなく、歌島生美という少女は死んでしまった。
「……」
思い入れがあったわけじゃない。生前の歌島生美に対して感じていたことはなかった。
ただ、自分のなかで忘れ去ることのできない存在だったのも確かだった。
俺に都合のいい幻想でも、いい思い出ばかりじゃない。彼女の存在は、俺にとって苦い記憶であり、痛みを伴うものだ。
無為に消え去るだけと思っていた俺にも、人生の集積がある。ああ、死ぬまでの間に、色々なことがあったのだなぁ、と改めて感じさせられる。
「おはよう」
俺がそう声をかけると、女の子はびくっと肩を揺らした。もともと会話などなかったから、話しかけられたことに驚いてしまったのだろう。
並んで歩いていくわけにもいかず、さっさと登校を再開する。俺のほうが歩くペースは速いし、これ以上気まずい空気になることもない。
しかし、いったいいつまでこの幻想はつづくのか。
現実ではありえない以上、どこかで切れるはずだが、いっこうに終わる気配がない。気分がのってきたときに突然打ち切られてしまうのも怖いので、中途半端なところではなく、適度なタイミングで幕を引いてほしいとも思った。
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