第十六話 勲章
「一度やってみたいことがあって。ほら、夜にお互い部屋のなかにいながら、携帯電話で話すやつ。明人が買ってくれれば、できるなって思って……」
ちょっと恥ずかしそうだ。視線をあらぬほうに向けていた。
「べ、別に大した意味じゃないんだけど。そういうの、一度でいいから経験してみたい。他の人には夜遅くに電話なんてできないから」
「まあ、なんとなく気持ちはわかる」
考えたことさえなかったから、電話とメールだけで機能を抑えれば、安い金額で契約できるかもしれない。夏休みのときに困るというのはうなずける話だったので、あとで調べてみようと思った。
携帯電話の話はいったん切り上げて、勉強に移る。夏休み中に遊ぶのなら、どのみち補習を回避しないといけない。
やはりうちの学校は進学校なだけあって、授業のペースが速い。というか、もともとの学力を下地としているから、最低限の説明で十分だと思われている節があるし、実際、ほとんどの生徒はそれでなんとかしてしまっている。
俺は、もともと勉強ができるタイプではないから、歌島のつまずくところがよくわかる。だから、歌島も俺を頼りにしてくれているのかもしれなかった。
「あー、そういうことだったんだ!」
教科書のわかりづらい説明を補足すると歌島が理解したようだった。
「もう、全然わかんないんだもん。やっぱり、明人いないとわたしはダメ……」
「そもそもあの先生が、やる気ない感じだからな。誰も授業まともに聞いてないし」
「うん。わたしはつい寝ちゃう」
歌島は別のクラスなのでその様子を直接見ていないが、目に浮かぶようだった。
「声が小さいし、寝ても起こさないし、うちのクラスも寝息がよく聞こえる」
「やっぱりそうだよね。明人は?」
「俺は寝てないよ。その間に、内職してるけど」
授業を真面目に聞くのは性に合わない。特にやる気のない先生ならなおさらだ。
受験に成功しただけあって、歌島も決して理解力がないわけじゃない。これをつづけていけば期末テストの赤点は回避できるんじゃないかと思う。
勉強を進めていくうちに、日が落ちていく。一年でもっとも日が長い時期ではあるが、午後六時半くらいになると空が赤く染まっていた。
「今日はこのへんにするか」
「ありがとう。もう疲れた……」
長居しすぎると歌島家にも迷惑をかけてしまう。というか、あの母親は「今日は泊まる?」なんてことを平気で訊いてくるのでその前に退散したい。テーブルに広げていたノートやペンをしまっていると、歌島が「あ、そうだ」と思い出したような声を上げた。それから、勉強机の引き出しを開ける。
「なに?」
「あった、あった。はいこれ」
見るとそれは、携帯電話のカタログのようだった。
「わたしが買ったときにもらったやつ。よかったらあげるね」
「よほど買ってほしいんだな。まあ、よさそうなものがあったら考えてみるよ」
「買ったら教えて。電話番号とメールアドレス交換しよう」
「気が早い。俺はまだ、買うと決めたわけじゃないから」
俺は、そのパンフレットを肩にはさみながら立ち上がった。きっと両親に話したら、すぐに了承してくれるんじゃないかという気がした。だからこそ、話すのは熟考してからにしたい。
歌島の家を出て、夕焼けから夜に変わっていく空を見上げる。
子供のころより、大人のときのほうが、時間の経過するスピードが速い。一度、死んでから子供に戻ったせいか、おそらく周囲の同級生よりも速く感じていると思う。
温い風に吹かれながら、煌々と光が灯る歌島家を視界に収める。
「ほんとに、守れてよかった」
誰にも聞かれないような小さい声でぽつりと漏らした。
かつて、一つの悲劇によってボロボロにされただろう家族。それが、今も幸せそうに暮らしている。だから、俺にとってこの家族の光景は、勝ち得た勲章の一つでもあった。
少し横に視線を滑らせると、電気工務店だった建物が売却予定となっている。俺がもともと生きてきた時間軸と全く同じ結末を辿っている。俺という異分子が特に関与しなければ、基本的に同じ未来を歩むということなんだろう。
もともと関わりのなかった人たちだけど、知れば知るほど命を賭けた甲斐があったと感じるようになった。
俺は、脇に挟んだ携帯電話のカタログを改めて見た。あの日、歌島を助けた日に、携帯電話があればと考えていたことを思い出す。
――買ったほうがいいのかもな。
これから先も、なにがあるかわからない。そう認識を改めて、俺は家に帰るのだった。