第十四話 恐怖
「ただいま」
家に帰った俺がそう声をかけると、奥から「お帰り」と答える母さんの声がした。
練習で使用したウェアを洗濯機に放り込み、手洗いとうがいをしてから、自分の部屋がある二階にあがった。
制服から私服に着替えて、一階のリビングルームに入る。
「ご飯、もうできてるから食べなさい」
「うん」
父さんはまだ帰っていない。課長に昇進してから、残業が増えてしまった。
今日はカレーだ。皿によそって、椅子に座る。
いつも通り、母さんの作るカレーはうまい。もう二度と食べられないと思っていたこの味を未だに味わえるのは本当に幸せだ。
スプーンで黙々と口に運びながら、家のなかを見渡す。
ここにあるものは、以前の人生とは異なっている。両親とまともに会話していなかったから思い出の品はほとんどなかった。
両親の死後、相続のために両親の所有物を整理することになった。その際に、家のなかを見ていて感じたのが、自分の行いの罪深さだった。
あれだけ尽くしてくれた両親に、俺が渡したものはなに一つとしてなかった。ほとんど会話していなかったから一緒になにかしたという思い出の品はなく、写真ですら三人で写っているものは一枚だけだった。
家を出てから、俺が存在していたという痕跡がなくなった。あれだけ俺のために愛情を注いでくれた両親に、なにも残さなかった。連絡すらまともにとっていなかったから、その愛情の行く場はどこにもなく、無為に消えるだけだったのだ。
その後悔が、今、別の形で表れている。
例えば、食卓の横のキャビネットには複数の写真立てが並んでいる。それは、自分がかつて残せなかった三人の写真であり、旅行に行ったときなどに撮影したものだった。また、図工の時間に作った変な像もあれば、マラソン大会で上位に入ったという賞状もある。
いろんな思い出が、少しずつこの家に刻み込まれている。
でも、まだまだ俺にできることはたくさんあるはずだ。
食事を終えて、自分の食器を洗ってから二階の自室に戻る。学校のなかだけではなく、家に帰ってからも勉強をしなければならない。俺が目指しているのは、中途半端な成績ではない。
一時間ほどの勉強ののち、休憩がてら風呂に入った。風呂から上がり、体を拭いているときに玄関ドアが開く音と「ただいま」という声が聞こえた。父さんが帰ってきた。
「おかえり」
パンツだけ履いて、洗面所のドアを開けた。
「ああ、ごめんな。ちょうど着替えていたんだな」
「いいよ。すぐに服着て出るから」
父さんの顔には疲れが残っている。父さんが洗面所に入って手を洗っている間、以前よりも少し老いたその背中を黙って見た。
当時は気にもとめていなかったが、俺を育てている間に父さんも苦労している。俺の学費や生活費のために働いてくれている。母さんも、パートをしながら家事をしてくれている。
大人としての自分を経たからこそ、そのことがはっきりと理解できる。
「明人、どうした? 何か言いたいことがあるのか?」
俺は首を振った。
「いや、なんでもない。仕事でいつも大変そうだなと思っただけだ」
「そうだな。管理職というのは想像以上に大変だ。上からいろいろ言われるし、下からも言われるのに逃げ場がないんだから。おまえも大人になったらわかるさ」
「うん」
「勉強は順調か?」
「もちろん。レベルの高い高校に行かせてもらったんだから、ちゃんと結果は出す」
「そうか。無理はしないようにな」
俺より先に、父さんが洗面所から出た。まもなくリビングの扉が開く音が聞こえてくる。
ゆっくり着替えをしてから、二階の自室に戻った。
ドアを閉めて、大きく息を吐く。
「……もっともっと頑張らないとな」
父さんも母さんも、俺のために頑張ってくれている。それに報いなければならない。
(おまえは、ずっとなにかに追われているみたいだよな)
森口の言葉が脳裏に蘇る。そのとおりだよ、と心のなかで返した。
自分の幻影が潜んでいる。変わったつもりでいるけど、クズで、なにもできなかったかつての自分をどこかに抱えている。それが怖い。いつかそんな自分が帰ってくるのではと思うと、いてもたってもいられなくなる。
もうさすがに、四畳半で死んだときの世界に戻ることを危惧していないが、あの出来事自体は間違いなく一度起こった事実なのである。そのうえで、また過ちを犯したときに、同じように過去に戻れるなんて期待はしていなかった。
せっかく与えられたチャンスを、絶対に活かさなければ。両親を幸せな形で看取るまで、手を緩めることはできない。両親の思いを考えれば考えるほど、失敗はできないと強く思う。
かつての俺が犯した罪に対する罪滅ぼしという意味でも、いい未来が確実に欲しかった。
その確率を上げるためなら、どんな苦労も惜しまない。すでに一度、命を賭けた身だ。
俺は、勉強机のまえに座りなおす。
小学生の時間に帰れたことはうれしかったのに、責任を負った今、学生という身分でいるのがもどかしくて仕方ない。
体力が尽きるまで、俺はそのまま勉強をつづけた。




