第十二話 高校生
どうやら、本当に過去に戻ったらしいとわかったのは、それからしばらくしてもこの世界が消えることはなかったからだ。歌島を助け、入院し、学校に戻り、そのあとの人生を過ごしているうちに俺はその確信を得ることができた。
ありがたいことだ。クズみたいな人生を送ったあとにチャンスを恵んでもらえるなんて想像もしていなかった。
以前のような人生を送らないと決めた俺は、懸命に努力することにした。
もう過去を引きずって、ぐずぐずとした感情を抱えたまま、与えられたものを台無しにすることはしない。勉強も、人間関係も、なにひとつとしておろそかにはせずに努力する。自分の持っているものを大事にして、今までになかった新たな景色を見たい。
四年生の途中から人が変わったようだと多くの人たちに思われながら、俺は優等生でいた。幸いに、歌島を守ったことについて大した罰則を受けず、そのうえで助けたという事実のみが評価されたことで、周囲からの見る目が変わった。
義両親とも積極的に話すようになった。普通の家族のように、気兼ねなく接するまでは時間がかかったが、生前では言えなかった「お父さん」「お母さん」という呼び方までできた。
夢中で新たな人生を歩んでいるうちに、時は過ぎていく。
小学校を卒業して地元の公立中学に進学し、やがて三年生になると、高校受験をすることになった。今まで、受験というものを経験したことがなかったけれど、義両親は俺のために学費を出してくれて、塾にも通わせてくれた。もともとの人生での積み上げはなかったので、勉強には苦労したが、無事に志望校に合格することができた。
そして、いつのまにか高校生である。
以前の人生では、高校にはろくに通わなかった。サボってばかりで、両親には心配をかけただろう。卒業できた理由について今でも思い出すことができないが、きっと先生たちが大目に見てくれたに違いない。
今回通う高校は、以前と異なり偏差値の高い進学校である。驚くことに、歌島も同じ学校を受験して合格したので、小学校・中学校・高校とずっと同じ学校で過ごすことになる。
まさか歌島とこれほど長く一緒にいることになるとは思わなかった。
ただ、もうひとつ大きく変わったことがあって、それが俺の悩みの種の一つでもあった。
それがなにかというと、こういうことである。
* * *
「明人!」
駅のホームに立っていると、声がかけられた。振り返るとそこには一人の女子高校生の姿がある。
こちらに向かって走っていて、足を動かすたびに長い髪の毛が揺れている。こっそり施している化粧によって、目鼻立ちが強調されているのがわかった。俺は小さくうなずく。
「相変わらず朝が弱いな、おまえは」
「えへへ。でもなんとか間に合った」
ちょうど、電車が来るというアナウンスが流れた。やがて到着した電車に、二人で乗った。
「やだ、汗かいちゃった」
ぱたぱたと手で顔に風を送っている。
「だったらもっと早く起きることだな」
「少しくらい待ってくれてもいいのに、いつも置いてっちゃうんだもん」
「おまえのために部活に遅れるわけにはいかないだろ」
「冷たい~」
むっとしたその表情に、俺はつい頬を緩めた。
目の前にいる女子生徒――歌島生美。一緒に成長して、同じ高校に通うまでになった。
これが、いわゆる幼馴染という間柄なんだろう。
自分がまさか歌島とこれほど仲良くなるなんて想像もしていなかった。
歌島は出会った当初からは考えられないほど様変わりした。ほとんど人と話さないくらいに大人しい子だったのに、今や人見知りせず積極的になった。小学生のときはおしゃれにも興味はなさそうだったが、ずいぶんと垢抜けてきたように思う。
元の年齢と合わせて、俺にとっては子供みたいな年齢差だ。その一方で、もともと同年齢でもあったからタメとしての感覚もある。そういう意味では、かなり不思議な存在だ。
俺も歌島も、かつて存在しなかった未来のうえを生きている。
「あ、海きれい」
ドアの横に立つ俺たちの前に、美しい景色が広がっている。
俺たちの通っている高校は、海にだいぶ近い位置に存在している。学校から歩いて二十分ほどの距離に海水浴場まである。
海を見ると、義両親に出会う前にいた児童養護施設を思い出す。こんなきらびやかな海ではなく、もっとごつごつとした岩に囲まれていて、荒れた海だった。小さいころは、ずっとその近くで膝を抱えて、絶え間なく押し寄せる波を眺めていたものだ。
「もうそろそろ夏休みか。一回くらいは遊びに行きたいよなぁ」
「うん、楽しそう。水着新しいの買わなくちゃ。どんなのがいい?」
「そんなの俺に訊くなよ」
「興味ないの?」
歌島は、俺をじっと見る。視線で物申すのは、小さいころから変わらない。俺はこの視線を受けると、どうしたらいいのかわからなくなってしまう。きらきらした瞳を向けられて、俺のクズみたいな本質を見抜かれたような気分になる。
過去に戻って六年近く。それでも、戻るより前の三十六年ほどの人生が比重として大きい。ズルのような超常現象で、優等生のふりをしている自分の汚さが浮き彫りになる。
黙りこくっていると、歌島がいたずらっぽく笑った。
「むっつりすけべ。想像したでしょ」
「ちげえよ。おまえの自意識が過剰なだけだ」
「鼻の下伸びてない?」
「あくびを我慢して、口をもぞもぞさせているだけだ」
「ふぅん。素直じゃないなぁ」
歌島の水着を見たいか見たくないかで言えば、見たいに決まっている。だが、正直にそんなことを話すバカはいない。
「まぁ、夏休みの前に期末テストだな。補習になったら目も当てられないから頑張れよ。中間テストでいきなり赤点とっていたし」
「うっ……」
「先輩に聞いたけど、うちの学校の補習や追試はがっちりやるみたいだから。そうなったら、海がどうとかいう以前の問題だ。もちろん、対策はしているんだよな?」
「……ええと、その」
言葉に詰まって、それから俺を見て、両手を合わせた。
「ごめん。なにも対策できてません。また勉強教えて」
「……はいよ」
いつものことなので、仕方ない。それに、歌島に勉強を教える時間は嫌いではなかった。
受験のときには、二人三脚で頑張った。俺も俺で受験は初めての経験だったから、不安な気持ちが大きかったし、隣にいる存在はとてもありがたかった。
もっとも、学力的には歌島のほうがギリギリだったんだけど。
「結局、わたしは明人のおかげで合格できたようなものだもん」
「俺と同じ高校受けるってのを聞いたときは、確かに少し驚いた」
「うん。でも、どうしても行きたかったの」
電車が、学校の最寄駅についた。駅舎に通じるドアが開いて、俺たちは朝の冷たい空気に包まれたプラットフォームに降り立った。
一緒に降りた乗客よりも遅いペースで歩いていた歌島は、周囲の人影が減ったところで足を止めた。振り返って俺に言う。
「明人と同じ学校に通いたかった。一人だけなんて寂しいもん」
「そうか……」
歌島の無垢な笑顔に俺も笑い返す。その裏にある歌島の気持ちには、当然気づいていた。
だけれど、俺にはなにもできない。怖くて手が出せない。
過去の経験から、臆病は後悔を招くことを知っている。だからといって、与えられたものを守るのではなく、自分から手を伸ばすのは難しい。
俺は言った。
「学校、行こう」
うん、と歌島はうなずいた。