第十一話 対決
歌島は、まだトイレから出てきていない。公園内に他の人影はなく、俺とその男だけが朝の日差しに照らされている。
男は、ふらふらとした足取りで、公園の中心に向かって歩いている。俺のことを認識していないのか、あらぬ方向を見ながら足元の土を爪先でめくりあげていた。
「クソ!」
掘った土を爪先にのせてから、足を蹴り上げて土をばらまく。誰も見ていないと思っているからこのような行動がとれるのだろうか。
――苛立っていて、突発的に犯行を行った。
俺は、リュックを前に回してファスナーを開けた。右手はすぐにでも臨戦態勢に入れるようにスプレー缶をつかんでいる。彫刻刀よりも遠方攻撃に向いているから、変な動きをしたならすぐに噴射しよう。
「毎日毎日うっせえんだよ!」
そう叫んでいる。俺は、すぐに半川さんに言われたことを思い出した。
(これから、しばらくラジオ体操の音量を下げるから気をつけてね)
もしかして、マンションの住人か。そして、ラジオ体操による騒音にクレームをつけてきた人なのかもしれない。
携帯電話がない以上、通報はできない。今頼りになるのは、俺と数少ない武器だけだ。
こっそりとブランコの柵から離れて、公衆トイレの前に移動する。絶対にここを通してはいけない。脳裏に残っていた眠気はどこかへと消えている。アドレナリンが分泌されているのを感じながら、俺は大きく息を吸った。
しばらく、男は同じような動作を繰り返していたが、やがてこちらのほうを向いた。
「おい、いつもいつもうっせえんだよ!」
大きな声が男から発せられた。俺は一歩後ずさる。
作られたように、過去に起こった出来事へと事態が収束している。これを変えられるのは俺しかいないと理解しているが、急に背中から恐怖感が這いあがってくる。いくら大人の人格が入っているとはいえ、中身は社会の底辺のクズだ。こんなふうに、得体のしれない人間と戦うなんてこと、一度もしたことはない。
「死ねや、クソが死ね死ね」
触れるものみな壊すような剣幕だ。子供だろうが関係ないのだろう。
逃げたい。だが、逃げたら今までの苦労は無に帰してしまう。
俺は、リュックからスプレー缶を出さず、隠したまま男が近づくのを待った。体格差があるのだから、真っ向から勝負しても勝てない。不意打ちを狙うべきだ。
距離が縮まるにつれ、男の顔が鮮明になる。事件に関する報道から見たことはあったかもしれないが、記憶に残っていない。感情を乱してさえいなければ、どこにでもいるような平凡な外見だった。
顔が紅潮している。よほど興奮しているみたいだった。
「てめえらが※◆で&$●だろうが! %<▼ざけ#!」
なんと言っているのか聞き取れない。攻撃を開始した途端に、俺はこの男との戦いを避けられない。心のどこかに、そのまま去ってくれないかという思いもあった。
子供の体では、大人がやたらとでかく見える。男の足元から伸びた影が俺の足元に差しかかったとき、一気に背中が冷えるのを感じた。覚悟を決めていたはずなのに、いざ直面すると、情けない俺が飛び出てきそうになる。
もともと、俺はなにも成し遂げられなかった人間だ。失いつづけて、誰からも必要とされないまま、無惨に死んでいった人間だ。このゴミみたいな性質はそう簡単に変わらない。
スプレー缶を握る手が震えた。本当にこいつが犯人でいいのかという疑問まで蘇ってくる。
日差しが男の図体に隠れて、視界が暗くなる。逆光で男の表情さえもわからなくなった。
――俺、戦えよ!
そのとき、急に後ろから声が聞こえてきた。
「山村くん……?」
――歌島だ。
――まずい!
焦りと同時に、俺の体から冷たさが抜けて一気に体が動いた。男の腕が俺に向かって振り下ろされるのをスローモーションのように感じながら、予めつかんでいたスプレー缶をリュックから出して構えた。
「歌島、下がってろ!」
ノズルを前に向けて押すと、強烈な匂いとともに勢いよく塗料が飛び出した。男が少しひるんだところで上に傾けて、塗料を顔にぶっかける。
「ぐっあああああああ!」
赤い塗料が男の顎から鼻にかけて塗りたくられる。ちょうど呼吸が難しい位置だろう。
すぐに俺は、スプレー缶を離して、またリュックに手を突っ込む。
「すぐにトイレに戻れ」
男は、顔をぬぐいながら膝をついている。早く歌島を逃がさなければ。
歌島と一緒にトイレに入った女性も、異変に気づいたようだ。歌島をかばうような形で、奥へと押してくれている。
「いったいどうしたの!?」
「警察を呼んでください!」
すぐに男が立ち上がって、凄まじい形相で俺に突っ込んできた。彫刻刀を握った右手に力を入れて、俺はそれを真正面から受け止めた。
体が吹っ飛ぶ。抱えていたリュックは、俺の背後へと滑っていく。
男が俺のうえに乗ったところで、つかんでいた彫刻刀を男の太ももに突き刺した。
「いっつうううう!」
クソ、リーチが短いせいで深く刺さらない。力では勝てないから、武器を失ってしまったらもう終わりだ。
「キャアアアア! なに、なにやってるのあなたたち!」
「いいから、早く警察を! 早く!」
一瞬、男が腰を上げたところで、あわてて男の下から抜け出す。リュックから別の彫刻刀を取った。男の視線がこちらに突き刺さっている。歌島に意識を向けさせてはならないので、俺はあえてその目に俺の視線を合わせた。
「危害を加えたことは謝ります」
Ⅴ字型の彫刻刀を前に突き出しながら、言った。
「ですが、守るためにやったことです。そちらがもうなにもしないなら、僕は武器を取り下げます。あとは警察の方をふまえて話し合いましょう」
すでに突き刺した彫刻刀が功を奏しているようで、男の動きが鈍くなっている。強烈な痛みがあるのだろう。
男のまなざしが俺の手元にある彫刻刀に移る。刃が日差しを反射しているし、自然と意識を持っていかれるのかもしれない。猛獣をエサで釣るみたいな感じで、少しずつ歌島から距離を離していくと、男もそれについてきた。
呼吸はお互いに荒いままだが、さっきとはうってかわって何もしかけてこない。俺の説得に応じようとしているのだろうか。
と、急に男は膝に刺さった彫刻刀をつかんで引き抜いた。血がにじみ出て、ズボンにシミを作っていた。
「ガキが……」
彫刻刀から赤い血が垂れている。灰色の砂にぽつぽつと赤い丸が広がっていく。
「もうやめましょう。お互いにとっていいことじゃないです」
「うっせえんだよ! ガキのくせに! <▼※◆&$」
わめきちらしてすぐにまた突っ込んできた。
――やばい!
結果的に相手に武器を渡してしまった。相手に武器がなく、こちらに武器がある状況でさえ苦しかったのに、これでは力負けしてしまう。
今度は受け止めずに後ろ向きに逃げる。足は男のほうが速い。しかし、あまり冷静ではないようなので、寸前のところで横に飛んでかわす。せめて高所に立たなければならないと考え、滑り台の段差を駆けあがった。
一番高いところで、彫刻刀を携えたまま見下ろす。まだ男はこっちを意識している。歌島のほうに行かないならなんでもいい。
とにかく、警察に来てもらわないとどうしようもない。もとより、俺の力で拘束できるなんて考えていない。
男が、滑り台の周囲をぐるりと回っているときに、俺は歌島を見た。
声に出さず、口だけ動かす。
《おまわりさんをよべ》
付き添ってくれた中年女性は、子供だけ置いていくこともできずに立ち往生している。ならば、歌島に呼んでもらったほうが早いし、歌島をこの現場から遠ざけることもできる。
しかし、すぐに歌島は動かない。もう一度繰り返す。
《いけ。はやく》
この状況において、恐怖が勝っているのかもしれないが、時間稼ぎも限界が近い。
最後に自分の胸を叩いた。それでようやく、歌島が走り出す。
高い位置にいるから、歌島の様子がよく見える。ただでさえ小さい背中が遠ざかっていくのがよくわかった。歌島の安全が確保された以上、あとはうまくやりすごすだけでいい。
公園を取り囲むように植えられたケヤキの葉が揺れている。男は、今なお降りてこない俺を見て、苛立たしそうに滑り台のステップを思い切り蹴飛ばした。
「っと……」
思ったよりも揺れる。地面に固定されているはずだが、手すりから振動が伝わってきた。手につかんだ彫刻刀は離さないように注意する。
滑り台の先には小さな砂場がある。非常に歩きづらいのでこちらから回ってくるとは思えなかった。てっぺんの位置にいる俺は、どの角度からでも逃げることが可能だ。
「おそらく、警察が間もなく来るでしょう。いい加減にしてください」
背後に歌島がいると知って、咄嗟に攻撃したのは失敗だったか。もはや、会話が通じるとは思えないほど怒りをあらわにしている。
「クソガキが! 降りてこい!」
「嫌です。警察官が来るまで、こちらもなにもしません」
「先に手を出してきたのはそっち$●が<▼&%」
「後でいくらでも謝ります。急に近づいてきて怖かったんです。わかってください」
「#※&$●<▼%」
ダメだ。どうしようもない。だが、この公園を離れることで別の人間に危害を及ぼされても困る。また、警察官を公園に連れてきたとき、ここにいないのでは事態の収拾が遅れる。
持ってきたリュックは鉄棒の真下に落ちていて、ここから拾うには遠すぎる。歌島と一緒にいた中年女性は、困ったようにおろおろしているだけだった。
「降りろ! 降りろ!」
何度も何度も、持ちあげられた足が手すりに叩きつけられる。そのたびに体のバランスを整えなければならなかった。脳内物質の影響か、足の痛みはもはや感じていないようだ。
「このクソが!」
また一回。そのとき、男がこちらに一気に迫ってくるのが分かった。
――しまった。
揺れていて、身動きできなかった一瞬の隙。大きな手が一気に俺まで迫ってくる。
反射的に体が後ろにのけぞった。と、背中を支えるものがなく、浮遊感に包まれる。
滑り台を転がるように、あちこち体を打ちつけながら落ちていく。
彫刻刀が砂場に転がり、俺の体もまた砂のなかに沈む。体を起き上がらせようとしたが、すぐに上下がわからないくらい三半規管がやられていた。
口のなかに砂粒が入っている。噛むとじゃり、という音がする。
腕を伸ばして体を起きあがらせるも、砂場に力が吸い取られる。ほんの数秒程度のもたつきだと思うが、何倍にも引き伸ばされているかのように感じた。両腕を安定させて、足を一つ一つ砂場に押しつけたところで、横から影が差し込んできた。
「おい!」
鼓膜を破壊しそうな大きい声がした。
顔を向けるより先に、体が強い力で弾き飛ばされる。また砂場のなかで体を横たえる羽目になった。
「げほ、ごほ」
「やってくれたなぁ! ガキが!」
目に砂が入ったようで視界がうまく定まらない。眼球の痛みに耐えながら目を開こうとするが、開き切らないし涙が出てくる。逃げるより前に彫刻刀を見つけなければと手探りで砂場をまさぐってみたものの、どこにも見当たらない。
――このままでは、俺が殺されてしまう。
嫌だ。この世界において、まだ死ぬわけにはいかない。
なにもできていない。歌島を守ることはできたかもしれないが、大事な義両親に何の恩返しもできていない。もっともっと、自分の人生で失ってきたものと向き合いたい。この時間が、いったいどういうものかはわからないけど、それでもこのチャンスを最大限に活かしたい。
生き残る。そして、もう少し先の未来を見る。
自分が手に入れられなかったものを、もう一度その目に収めるために。
「ぶっこぉす!」
強く目をつぶりまた開いたときに、眼前に迫って赤く染まった彫刻刀を振りかざす男の姿が視界に映った。回避は無理だ。すぐに俺は、両腕で顔の前を覆った。
しゃ、っとひっかくように彫刻刀の刃が腕を切り裂いた。瞬間的に鋭い痛みが走る。
「っつ……」
腕が真っ赤に染まるほどの勢いで血が流れだした。砂の雑菌に侵入されてはまずいので、腕を頑張って持ちあげながら、すぐに横に転がった。
「待てぇっ!」
武器を持たれてしまった以上、一発でも急所にくらったら終わりだ。
また、男が彫刻刀を振りかざすのが見えた。俺は、全身の力を入れて前に飛び込む。
砂場から出た俺の体が、固い地面に打ちつけられる。肩や膝に擦り傷を負ったような感覚があるが、そんなことも気にしていられない。立ち上がって後ろを向くと、また、彫刻刀の刃が頭上をきらりと輝いた。
「よげんなぁ!」
また跳ねて回避しようとしたが、間に合わずに今度は背中を裂かれた。服に守られたみたいだけど、それでも深くえぐられたようだ。
「いた、いたい……」
「●<▼&%があああああああああ」
容赦なく、また刃が降ってくる。俺はすぐに滑り台の裏に隠れた。金属製の滑り台と刃がぶつかり合う金属音が鈍く響く。地面をひきずるように動く足が見えた。
「出てこい!」
また金属音が響く。滑り台が壊れるんじゃないかという威力だった。滑り台はそこまで高くないので、大人の男性が屈まずに内側を通ることはできない。
と、急に地面に擦りつけられていた足が上がり、俺のいる空間に向かって蹴りだされた。
強い勢いで迫ってくる靴裏を避けると、滑り台の裏に衝突した。
「ほら~。はやく~」
俺が刺した箇所は赤く染まっている。普通であればかなり痛みがあるはずなのに、傷口のことをあまり気にせずに俺を攻撃しようとしている様が不気味だった。
避けたときに滑り台の裏から出た体の一部を引っ込めると、また足が飛んでくる。不意打ちのようなタイミングだったから、大きめに体をそらす。
そのとき、髪の毛を強く引っ張られる感覚があった。
「捕まえた」
避けるのを待ち構えていたらしい。にんまり笑う男の顔が、いつのまにか目の前にあった。
「悪いガキにはお仕置きが必要だなぁ」
そして、彫刻刀を握りなおす。大きく腕を後ろに下げると、一気に俺に向かって刃を下ろしてきた。
恐ろしさのあまり、瞬間的に目をつむる。まもなく強烈な痛みが肩のあたりから広がる。
再度広がった視界の隅に、細長いものが伸びていた。彫刻刀の持ち手が痛みのある左肩付近から生えている。
声が出ない。体力と気力を削られ、痛みに上書きされて、呻く余裕すら残っていない。
俺の肩から彫刻刀を抜いた男が髪の毛から手を離す。俺は、そのまま地面に仰向けの体勢で倒れてしまった。
呼吸。やたらと青く澄んだ空に、狭まった視界が覆われている。それから、黒い輪郭の男がその間に差し込んできた。
「終わりだぁ」
死刑宣告のように、男の声が響く。
せっかくチャンスを与えられたのに、またうまくいかなかったのだろうか。子供の体で、殺人犯と戦うということを軽く考えすぎていたのかもしれない。人一人を救ってみようなんて、大それたことを考えてしまったのが間違いだった。
でも、やっぱりいつ終わるかもわからない人生のなかで、なにかを成し遂げてみたかった。
誰にも必要とされず、失われていくだけの日々を、苦しみに耐えるだけの生活を、二度と味わいたくはなかったのだ。
馬乗りになった男が、俺の胸のあたりを凝視しながら両手で彫刻刀を握る。心臓を一突きにされたら、この世界でも死んでしまうことになるだろう。
願わくば、死なずに済んだ歌島が自分の人生を全うしてくれれば――。
* * *
少しの間、気を失っていたらしい。それを知覚したのは散らばっていた意識が固まり、暗闇から引きずり出されたからだ。
記憶の最後と一致する光景。青い空が視界に広がっていた。
――生きているのか?
あの男はどこだろう。馬乗りになっていたはずなのに、どこにもいなくなっている。
そのとき、手や胸のあたりに温かい感触があった。かすかな重みもある。まさか刺されてしまったのかとおそるおそる首を曲げると、そこには歌島の姿があった。
歌島が、俺にすがりついて泣いている。
どうやら本当に死ななかったらしい。いったいどうなったのかよくわからず、歌島の方に触れると、歌島は、ようやく俺が起きていることに気づいたようだった。
「助けてくれたのか……?」
俺を見たあと、下唇をかんでうなずいた。周囲をよく確認すると、公園の出入り口付近で、二人の警察官に取り押さえられている男の姿を発見した。
――すんでのところだったみたいだな。
あのまま刺されていたら助からなかっただろう。気が抜けるのと同時に、左肩を襲う強烈な痛みに気づいた。背中も膝もじくじくと俺を苛む。
「ごめん……なさい。わたし、わたしがもっとはやく……」
「いいんだよ。無事に目標を達成できた。それに俺は、ちゃんと生きている」
「でも、でも……」
「ありがとう。俺は大丈夫だ。もう心配はいらない」
自分を守るためとはいえ、武器を振りかざしたり、事前に彫刻刀などを準備していたことは問い詰められるだろう。その点についてはうまく話さないといけないと思った。
少しは、なにかを成し遂げられただろうか。今までの人生になかった大きな一歩だ。
「守るって話しただろ」
声をかすらせながら、歌島に言った。
「だから、歌島が無事ならいいんだ。俺のけがは、そのうちに治る」
それにしても、体がしんどい。しばらくは、この痛みと戦うことになりそうだ。
しゃべるのをやめて、体から力を抜いて、緩く吹く風に身を任せる。
歌島は、涙をぬぐいながら俺を食い入るように見つめている。俺の服をつかんだまま、手に力を入れている。鼻水をすすり、それから小さくうなずいていた。
……時の歯車が、以前とは全く異なる形ではまる音を聞いた。
これが過去なのか幻想なのか未だわからずとも、この景色は間違いなく尊いもので、俺自身が欲しがっていたものの一つなんだろう。
今だけは難しいことを考えるのはやめて、このすがすがしい感情に身を浸せていようと俺は思った。