第十話 前兆
七月二十六日。ラジオ体操カードには、四つ目のスタンプが押された。毎回毎回同じようなメンバーが集まり、同じように体を動かして帰っていくだけのイベント。誰一人として怪しい行動をしている人はいないし、かといって細かく見ていくと誰もが怪しく思えてしまう。
ラジオ体操が、事件の端緒ということではないのかもしれない……。
とはいえ、そろそろなにが起こってもおかしくない。
俺の存在により、そもそも事件が起きなくなるよう改変されているのかもしれないが、油断は禁物だ。少なくとも七月末まで、気を緩めないように徹底して歌島を守らなければ。
昼に、いつもどおり歌島の家で宿題を片付けていたとき、歌島が言った。
「山村くん、疲れてるの?」
「え?」
持っていた鉛筆の芯がちょうど折れてしまう。小型の鉛筆削りに差し込んで回す。
「クマっていうの? 目の下。怖い顔になってる」
「そうかな……。夜にちゃんと寝られていないような気はするけど」
「こっそり起きて遊んでるの?」
「いや、そんなことはないよ。眠りが浅いというか、なんというか……」
歌島は、わかったような、わからないような顔をしている。子供のときに、眠りが浅いとか悩んだことなかったよな、ということを思い出す。
「あんまり気にしないでくれ。俺は大丈夫だから」
「うん、それならいいけど」
朝は早い。そのうえで、考えなくちゃいけないことはたくさんある。夜は不安で眠れない。
いつも思うのだ。寝て起きたとき、俺は死に瀕したあの四畳半に戻る。過去に戻ったなんて甘い幻想が消えて、冷たくて苦しい現実に直面する。歌島も義両親も亡くなり、なにひとつとして希望のない暗闇に叩き込まれる。
目が覚めると、汗が背中に流れていて、呼吸が一瞬止まる。
天井と自分の体を順番に見て、まだこの世界がつづいていることを理解する。
そして、すぐに彫刻刀とスプレーをリュックに入れて、ラジオ体操へと向かう。
「前に俺が言っていたことを覚えているか?」
「占い?」
「そうだ。外に一人で出てはいけないという話。あれ、結構大事なことなんだ」
鉛筆削りの刃から、削りカスが飛び出してくる。バラバラにならないように、鉛筆を刃に押しつけながら俺は歌島の目を見た。
「夢を見たんだ。未来の夢。占いの内容って、実は全部夢で見たことなんだ。夢のなかで、俺はよくない未来をたくさん知った。だから、歌島にあんなことを言った」
「予知夢、っていうんだっけ?」
俺はうなずく。そういうことにしたほうがスムーズだろう。
「これから、良くないことが起こるかもしれない。それはとても恐ろしいことだ。宿題を忘れるよりもずっと。それを起こさないようにするには、一人で外に出ないでほしい」
「わたし?」
「ああ。俺は、歌島を守りたいんだ」
だから、今は自分のことよりも目の前にいる少女を優先しなければならない。歌島は、俺の言葉に目を真ん丸にした。怖がらせてしまったかもしれない。
「心配するな。俺がなんとかするから」
「……」
「歌島?」
削り終わった鉛筆をテーブルに置いた。歌島は俺のことを見据えながら、瞬きを繰り返している。急にこんなことを言われたらびっくりするよな。信じる信じないに関係なく、いい気持ちにはならないだろう。
どう言い繕うべきか考えていたら、無言の時間が数十秒ほど流れてしまった。
やがて、歌島は俺から目をそらして、テーブルのうえに視線を移した。
「……あんまり、気にするな。とりあえず歌島はしばらく外に出なければいい」
「うん」
「宿題のつづきをしよう」
「うん」
歌島は、こちらを見ようとしない。やっぱりさっきの発言は失敗だったようだ。
それからしばらく会話はなく、俺と歌島は残ったドリルを片付けるべく、鉛筆を動かしつづけた。
疲労が蓄積しつづけた七月二十八日。ラジオ体操を実施する公園にて、半川さんが俺たちを見るや近づいてきた。当然、半川さんに対しても警戒はしていたので「なんですか?」と前に出て尋ねると、こう返ってきた。
「これから、しばらくラジオ体操の音量を下げるから気をつけてね」
ぽんぽんと肩を叩かれる。それから、背後の低層マンションを指さした。
マンションの窓には、相変わらずカーテンが閉められている。すぐに半川さんは、別の子供たちのほうへと向かって同じような話をした。
いろんな人の話を盗み聞きしたところ、どうやらクレームが入ったらしい。
「みんな、今日はだいぶ静かだね」
歌島が言う。実際のところ、いつもは明確に聞こえてくる話し声が控え目だ。クレームに応じてあまり声が出せなくなってしまったのだろう。
実際のところ、これだけ朝の早い時間帯に大勢が集まるわけだから、近所の人にはたまったものじゃないだろう。少なくともマンションの住人には聞こえてしまう。もっともこの場所でラジオ体操をするのは過去からの慣例だから、急なことに参加者が戸惑っているという側面もありそうだった。
すっかり体に染みたラジオ体操を終えて、スタンプを待つ列に並ぶ。
「お腹痛い……」
後ろからそんな声が聞こえて振り向くと、歌島が青い顔でうずくまっている。
「大丈夫か?」
「……わかんない」
「立てる? トイレに向かおう。スタンプのことは俺から話しておくから」
「うん」
列から離れて、背中をさすりながら公園に設置されたトイレに連れて行く。女子トイレまで付き添うわけにはいかない。誰か大人の女性がいないか周囲を見渡す。
――犯人は、女性ではなかったはず。大丈夫だ。
トイレに入る歌島を見送ったあと、健康のために来ていたと思われる、中年の女性にそのことを告げた。
「それは心配ね。わかった。わたしが様子を見る」
「お願いします」
かといって、俺は一人で帰るわけにいかない。腹痛が収まって、歌島が一人で家に戻る最中になにが起こるかわからない。中年女性がトイレに入ったタイミングで、俺はスタンプの列に戻った。おかげで最後尾だ。
列が進んでいき、俺の番になった。
「歌島が、お腹痛くてトイレに行ったので、二人分もらえますか?」
「ああ、そうか。ちゃんと来ていたのは見たから大丈夫だよ」
スタンプを押した半川さんは、用は済んだとばかりにラジカセなどの荷物を片づける。俺はやることもないのでそれを手伝った。
「ありがとう。君はしっかりしているな」
「いえ。いつもありがとうございます」
「その子のことを待っているのかな?」
「はい。心配なので、出てきたら一緒に帰ろうと思います」
なにを考えているのか、それを聞いたあと半川さんの顔が半笑いに変わる。
「うんうん。青春だな。女の子は大事にしてあげるんだよ」
どうも、変な風に誤解されているらしい。俺は適当にうなずいておいた。
半川さんも女子トイレには入れないので、心配そうにしながらもその場をあとにした。俺がしっかりしていると思って、任せておけばいいと判断したのかもしれない。
――こういうときに携帯があればな。
歌島の両親に連絡して来てもらうこともできただろう。しかし、今の俺にできるのは、少し離れた位置で見守ることだけだ。ここから離れた隙に犯人がやってくるかもしれない。
公園に置いていたリュックを背負いなおして、ブランコ前の柵に腰かけた。公衆トイレの出入り口は一つしかなく、この位置からであればその近辺を監視できる。
さっきまで人であふれていた公園内に、すでに人影はない。がらんとした空間のなかを、風が吹きすぎていく。すでに多くの人の記憶に、うすぼんやりとしか残っていないはずの光景が俺の前に存在している。
夏の朝の涼しさとか、子供のころに抱いていた大人への印象とか、忘れていたものが鮮明に蘇る。風に揺れるブランコがきしむ音も、澄んだ空の青さも、家で待ってくれる人がいる心の温かさも、みんな俺の頭から消えてしまったものだった。
一人でいると、疲れがどっとあふれでる。それでもまだ休むわけにはいかない。視線だけはしっかりと周囲に向けている。怪しい人物がいないか。トイレに近づく人がいないか。歌島がトイレから出ていないか……。
予感はある。
今日、もしかしたらなにか起こるのではないか予感が。
そのまま、十五分ほど経過したころだろうか。
公園の入り口付近に異変があった。ラジオ体操が終わってからだいぶ経ったとはいえ、まだ午前七時くらいだろう。
一人の男の姿が、そこにはあった。
灰色のパジャマらしきものをまとっている。見た目からすると、まだ三十代くらいではないかという気がする。その男は、寝ぐせだらけの髪で公園内に足を踏み入れた。
――こいつだ。
それは、かつて存在していた薄い記憶がよみがえったからかも、その風貌や雰囲気から異様なものを見出したからかもしれない。ただ、自分のなかで予感が確信へと変わろうとしているのを明確に感じていた。