プロローグ
四畳半の小さな和室のなかで、俺は震えていた。
冬の夜。畳から、俺の口元をこぼれたゲロの臭いがした。建付けの悪い窓からは隙間風が吹いていて、どんどん室内から温度を奪っていく。
「寒い……」
本当に寒い。
それは、気温だけじゃない。俺の芯からわきあがる悪寒によるものでもあった。
頭が重くて、体の節々が痛む。明らかに熱があるのだけど、病院に行ったり、救急車を呼んだりすることもできない。どうやってももう体が動かない。
「助けて……」
両腕を腹の前で抱えている。横になった体は、自分のものとは思えないくらいに重かった。指の一つ一つすら満足に動かせない。
窓ガラスの先には、星の見えない夜空が広がっている。
ずっと一人だった。誰一人として心を預けられる存在はいなかった。
残酷なまでに冷えた空気に包まれながら、俺は自分の人生を振り返っていた。
俺に優しく接してくれた義両親。隣に住んでいた女の子。学校で会った数々の同級生。自分の人生の横を過ぎ去っていった、たくさんの人たちの姿。
もう、俺は死ぬんだろうと覚悟していた。
冷え切った体には、これから先の人生を生きていく力を残していない。人間を生かしておくには、あまりにも心もとない空間だ。そして、俺が死にかけようがなにしようが、救いの手を差し伸べてくれる人物などいない。もし死んだとしても、腐って、臭いがして、警察か誰かの手によって扉が開かれない限り、この小さな部屋に人がいたことさえも意識されないだろう。
「疲れたな……」
満足に独り言を漏らせているかも自信がない。
「もう、嫌だ、疲れた……。苦しいことばっかりだ」
畳のうえに投げ出された腕が、自分のものと認識ができない。視界がどんどん遠くなり、体の自由はますますなくなっていく。
「なにも、いいことはなかった。死ねるなら、もうそれでいいか」
瞼を開いたままでいるのもしんどかった。
死を覚悟しながら目を閉じる直前、一つの写真立てが壁に寄りかかっているのが見えた。写真立てのスタンドが壊れているから、壁に立てかけないとすぐに倒れてしまうのだ。
その写真には、まだ幼き頃の俺がいる。
引き取られたばかりのころ、義両親と一緒に撮らされた写真だった。まともに家族らしく接してこなかったのに、未だにその過去にすがりついている俺は、なんて情けないのだろう。
あのころ、一匹狼のようだった俺が、もっと心を開いていれば、人生は別のものになったのかもしれない。後悔しても、もう遅いことではあるけれど。
――父さん、母さん
一度も彼らに呼びかけなかったその言葉を、死の間際、俺は心のなかでつぶやいた。