第9話
生まれた瞬間から己に対する悪意を感じていた。その悪意が巨大な力を持っていることも分かっていた。それと同時に、愛しくてたまらない存在がその悪意のそばにあることも知っていた。
母親を食べたことを後悔はしていない。なぜなら、僕はそういう生き物だから。だけど、母親の絶命の瞬間に、愛しい彼女がそこにいた。彼女の意識がそこで、僕を強く攻めていた。その時初めて、自分の醜さを知った。彼女の目に映る醜悪な化け物。彼女にとって許しがたい恐ろしい存在であるという悲しい現実。
けれど、僕は生まれた意味を彼女に求めるしかなかった。生まれる前から愛しいという感情はただそこにあって、僕はその思いだけで幸せでいられた。それだけでよかった。遠くからリサを見守っていたかった。
けれど、あいつがそうはさせないことも分かっていた。いつかこちらへやってくるだろうとは思っていたけれど…。あいつはこともあろうに、彼女を傷つけた!僕の目の前で!
許せない。許せない。許せない。
二匹の蜘蛛に似た化け物が闇の中、それぞれの糸をあちらこちらにはりめぐらせて闘っている。それにしてもなんてスピードなのだろう。彼らは風のように音とともに移動している。めまぐるしい攻防戦を目で追うのがやっとだ。
強い怒りに我を忘れた一匹の猛烈な思念がダイレクトにこちらへ伝わってきた。愛するものを傷つけられた強烈な憤り。そんな頭に血がのぼった一匹をもてあそぶように次々と罠を張り巡らしていく、冷静沈着なもう一匹。非常に対照的な二匹である。
ああ、冷静さを欠いている一匹の蜘蛛の足が、一本、また一本と切断されていく。同時にあたりに濃い体液のにおいがたちこめる。糸にからまった蜘蛛の足が運悪くこちらへ飛んできた。危うく我に衝突するところを紙一重でよける。二匹の吐いた糸が空間に規則的に張り巡らされて行く。幾何学的な美しさに少しみとれる。夜から朝にかけてのしんとしたひととき。どうみても、足を失って動きの鈍くなった一匹に勝ち目はないようだ。じわじわと、まわたでくるむように、するどい糸の罠が彼の退路をたってゆく。勝負は時間の問題だ。
しかし、優勢の蜘蛛は簡単に、相手の息の根を止めるつもりがないらしい。かわいそうに、瀕死の蜘蛛はそれでも果敢にむかっていく。あきらめず必至に新たな糸を生み出して違う展開を導きだそうとしている。
ああ、これはなんて残酷な遊びなんだろう。優勢な蜘蛛は相手をいたぶるのが楽しくてしょうがないようだ。また一本、哀れな彼の足をもぎとった。いっそう濃い体液のいにおいがたちこめて我は思わず顔をしかめる。
そうだ。我は残酷なあの者を知っている。我の側で、ずっと我に関心を向けていた者。
「ヤヒコ。」
我はうかつにも、軽々しくその者の名をつぶやいていた。突如、冷静沈着な戦いをしていた一匹の動きがとまる。初めてこちらに気付いたのだろうか、ゆっくりと振り返った。
そして、いまやそのものは我だけに関心をむけていた。
懐かしい。ひたむきだけれども、抑制の利いた思念。
ヤヒコ。まだこの地にとどまっていたのか。
我はただ懐かしかったのだ。けれど、ヤヒコのほうはそうでもないらしい。我に対してすぐさま攻撃態勢に入ってしまった。
来る!