第4話
なんて、真っ暗なところなんだろう。
真っ暗な場所に二人の人間がいる。
ああ、嫌だ。また昨日の夢!同じ夢!
二人の人間は私のよく知る人たちだった。一人は、親友。そして、もう一人は初恋の人。
岸田先輩とミキが恍惚とした表情でお互いの手をとり、見つめあっている。空には輝く星たち。なんてロマンチック。星に照らされて二人の姿は青く発光しているようだった。
二人の唇が合わさった瞬間、岸田先輩の表情がいっぺんした。驚愕で見開かれた瞳。それはあの凍えるようなブルー!
先輩の苦痛に歪んだ顔はとても正視に堪えうるものではなかった。
ストローで何かを飲むときに出る音。最後に残った水分を吸いこむ時のような音がした。
あっという間のことのようだった。本当に一瞬のような出来事。
そこには、もう岸田先輩の姿はなかった。まるで、掻き消えたかのように。
ミキが一人たたずんでいた。まるで、最初から一人でいたように。
どうしてだか、私には岸田先輩がその場から忽然と姿を消した理由が理解できた。
岸田先輩は体の内側から吸い込まれるようにミキに飲み込まれてしまったのだ。ジュルっと音がしたその瞬間に。
ミキが先輩を食べたのだ!
ミキが先輩を飲み干した!
見ると、先輩のぬけがらが散乱している。学生服に靴、靴下、下着。身につけていたものが虚しくそこにあった。
ミキは陶然とした様子でしばらく放心していた。やがて、ご飯を食べて満足そうな猫のような表情になる。
それが、人間らしく見えて私にはいっそう恐ろしかった。
彼女は、何か唄を口ずさみ始めた。軽やかに。
真っ暗なところだ。真っ暗な。
真っ暗な場所でミキは一人、幸せそうに両手を広げてくるくる回っている。
空には満点の星が燦然と輝き、その光を受けてミキの瞳はキラキラ輝いて見える。
彼女は恐ろしいほど美しかった。
流れ星が一つ流れた。すると、それを目にしたミキの表情が一変する。こんなに怖い顔をした人を私はこれまでに見たことがない。それは、能で使う般若の面に似ていた。
彼女は、ずっとその星をするどい表情で凝視している。星は、どこか地上に落ちたようだった。それを見届けるとミキは…。
人間の皮を脱ぎ始めた!
まるで、脱皮でもするように、外側をぬいでいく。中から現れたのは巨大ないもむしに似たものだった!
やがて、それは体をくねらせ糸をはく。金色にも銀色にも見える糸だった。
「おい!二ノ宮!
大丈夫か?」
目を開けると森田君の心配そうな顔があった。ぼうっとしてここがどこか分からない。ゆっくり左右を見回して、保健室だと理解する。
「二ノ宮?」
「うん。起きた。」
心臓が、まだどきどきしている。夢の余韻をひきずったままだった。
深呼吸して、森田君に尋ねる。
「今、何時かな?」
森田君は腕時計を確認した。
「もうすぐ、5時だよ。二ノ宮が起きるのを待っていたんだけど、すごくうなされていたから起こした。
…さっきは、ごめん。」
「ううん。好きな人のことを心配するのは当然だよ。
だいぶん寝ちゃったんだね。
起してくれてありがとう。部活は?」
「あ、うん、今日は休んだよ。」
「そうなんだ。」
気まずい沈黙が流れる。私は、言葉を探す。ぽつりと出たのは、正直な思い。
「私も、なんだかよく分かんなくて不安なんだ。」
森田君がまっすぐに私を見て、うなずく。
「そりゃ、そうだよな。
…久野に、連絡はしてみた?」
「うん。
だけど電話してもつながらないんだ。携帯の電源が入っていないみたい。」
「そっか。
なぁ、今から一緒に久野の家に行ってみないか?」
「うん。行く。」
私は、間髪入れずに答えていた。本当は一人で行くつもりだったから。でも、一人で行くのは怖かった。だから、森田君の提案にすぐに飛びついた。そして、安堵していた。
それから二人、ミキの家まで向かっている。
私たちは始終、無言だった。重たい沈黙は冬の寂しい景色とあいまっていっそう私たちの心を重くした。
交差点にさしかかった時、遠くの方まで見える全ての信号がいっせいに赤へと変わった。混雑する時間帯でたくさんの車がとまり、テールランプが赤い光を放つ。信号とテールランプの赤い光が私に強く、何かを警告しているように感じる。
考えすぎだよね。
電車に乗る際、思い出したように森田君が言った。
「今更気づくようなことじゃないんだけど。
二ノ宮、体調は大丈夫?」
「うん。寝不足なだけだし、さっきたくさん寝たから大丈夫だよ。」
「そう。ごめん。」
「ふふ。
なんだか、さっきから謝ってばかりだね。」
「そうかな?」
「そうだよ。」
互いの緊張が少し緩んだ。固い表情を少しやわらげて森田君が言う。
「なぁ、金魚好きか?」
「金魚?突然どうしたの?」
「うちに今、一匹いてさ。それ、岸田先輩が夏の終わりに出店ですくったやつなんだ。家で飼えないからって、俺にくれてさ。
いる?」
「いいの?」
「うん。」
岸田先輩。
恋に落ちた日の先輩の表情が今も私の心にある。まぶしそうに顔をしかめたあの横顔。心に刻まれたワンシーン。
胸がきゅんと苦しくなった。
先輩、無事だよね?
きっと、悪い予感にとらわれているだけで、後から笑い話になるんだよ。
絶対そうだよ。
変な夢を見たのだって、きっと、私の嫉妬のせい。先輩に対する過剰な執着のせい。
自分に言い聞かせている間に、私は両の手を力いっぱい握りしめていたので、電車が目的地につくころには手がかちかちになっていた。
ミキの家は洒落た洋館で、駅からそう遠くはないところにある。なんども、遊びに行った場所。優しいミキのお母さんはよく自家製のプリンをおやつに出してくれた。
ミキの家の茶色の屋根が見えてきた。外からみる限り、家の中に明かりはなく、留守のようにみえる。
森田君と顔を見合わせた後、インターフォンを押してみる。
一回目、返答がない。
少し待って、二回目を押す。
返答はなかった。
「留守かな?」
「もう一回だけ、押してみよう。」
森田君が言ったので、私は、再びチャイムを鳴らす。
「あら、どうしたの?」
スーパーの袋を両手にさげた年配の女性が声をかけてきた。
「久野さんに、用があって訪ねたんですが、留守みたいで。」
森田君の答えを聞いて女性は眉をひそめる。
「久野さんって…。そちらのお宅、中村さんじゃなかったかしら。
とにかく、今は空き家のはずよ?」
「え?本当に?
どれくらい前からですか?」
「そうね、一年くらいたつんじゃないかしら。」
「二ノ宮、家を間違えたんじゃないの?」
「え?」
私は、呆然と洋館を振り返る。
そんな、暗いからって間違えるはずない!
つい、二週間くらい前にも遊びに来ていたのに。
けれど、手入れのされていない様子は前に訪れた時とは違っていた。玄関には大きな蜘蛛の巣がかかっているし、ところどころすすけて汚れている。表札もなくなっていた。
私は知らず知らずのうちに後ずさりしていた。
森田君はそんな私の様子を目にして、通りがかりの女性に聞いた。
「失礼ですが、こちらのご近所の方ですか?」
「ええ、そうよ。ここのはす向かいに住んでいるの。」
「この辺に、久野さんのお宅があるはずなんですが、ご存じないでしょうか?」
「うーん。聞いたことないわね。」
「そうですか。
すみません。ありがとうございました。」
森田君の体育会系の九十度のおじぎに、女性は会釈で答え、さきほど自分で言った通り、はす向かいのお宅へと帰っていった。
「ここで、間違いないんだな。」
「うん。」
私も、森田君も呆然としていた。
「一体何が起こっているんだ?」
森田君のつぶやきに、私はただ静かにうなずいた。
私たちは無言で帰途につく。来る時よりも、大きな胸のしこりをかかえて。
普段は勉強なんて好きじゃないし、進んでしようとも思わない。でも、問題を抱えている時は別だ。余計なことを考えなくてすむから。
今の私は、眠るのも怖く、ただひたすら机に向う時だけが、安らいだ時間だった。
また、夜がやってくる。恐怖の夜が。
私の寝不足はすでに慢性化していたので、だったらもう寝なくてもいいじゃんとひらきなおることにした。ふと時計を見ると午前3時。
寒さにふるえていたので、ちょっとだけ布団に入ることにした。布団の中に入ってもしばらくは暖かくない。そして、暖かくなることには、うとうととしてきた。
私の意思とは関係なく眠りがやってくる。
閉じた瞼の裏に、コバルトブルーのいもむしが現れる。
ああ、結局また夢を見るのか。
いもむしは体をくねらせ糸をはく。金色にも銀色にも見える糸がシャワーのように空へ広がり落ちてくる。不思議だ、とても奇麗。
やがて糸はいもむしを覆い尽くしてしまう。それは卵形になった光る糸の集合体。彼女の温かい寝床。その繭の中、いもむしは再び姿をミキに変えていた。彼女はほほをピンクに染め大きくなったお腹を幸せそうになでている。金と銀のきらめく繭の中で彼女の漆黒の髪は鮮烈だった。漆黒の長い絹のような髪は雪のようなきめの細かい素肌をつつんでいる。それは、まるで巨匠の描く一枚の裸婦画のようだ。
彼女は何か奇麗なメロディーを口ずさんでいる。まるで、お腹の中の何かに聞かせるように。とても慈愛に溢れた様子で。
やがて、彼女のお腹は異常なスピードで膨らみ始める。彼女自身よりも大きく。
すると、空をつんざくような悲鳴がした。眼球が飛び出るほどに目を見開いた彼女の苦悶の表情。美しい顔だけに、いっそう凄まじい。
彼女のお腹の内側から黒い節が一本つき出ていた。やがて、それが二本になり、三本になり。その度に赤い血が飛び散る。ミキの悲鳴がほとばしる。巨大なお腹の中でそれはごそごそと、うごめいている。何かを食らう音が聞こえてくる。汁をすするような音がするかと思えば、固いものを削るような音も聞こえる。
ああ、ミキ!ミキ!
一瞬ミキと目が合った気がした。
彼女は、かすかにほほ笑んだ。
ミキの表情が消えていくのが分かる。
彼女の命が失われていく。
姿のないまま、私は彼女に手をのばした。
ミキの手が私に伸ばされた。
私の見えない手はもう少しで、彼女の手に届いたはずだった。
けれど、それを阻止するように、ミキの伸ばした手が一瞬で消えた。
食われたのだ。
彼女の体の内側からのぞいた赤い目と一瞬目が合った!
それは、彼女を内側からおおかた食い散らかし、いっきに彼女の腹を食い破り外へと這い出てきた。
ああ、なんてこと。私は目を覆うが無駄だった。なぜか見えてしまうのだ。残酷な場面。壮絶な姿が。
ミキは生きたままそれに、あとかたもなく食べられてしまった。金と銀にきらめく繭の中は飛び散ったミキの血で真っ赤に染められていた。あの美しかった彼女の漆黒の髪の毛も汚く血でよごれあちこちに散らばっている。
彼女の腹から出てきたものを、私は知っていた。以前に見たことがあったから。
ミキの夢を見るようになる前に、続いていた悪夢の元凶。
あの、グロテスクな蜘蛛!
私は、私の悲鳴で目を覚ました。
そこには、待ち望んだ朝があった。