3. まくあけ
恐怖とは、得てして自分ではコントロール出来ないものなのかもしれない。
12歳を迎えようかというあたしは、そんなことを考えながら立ち尽くしていた。
呼吸は荒い。
肩で息をしながら、目の前で動かなくなった脅威を見下ろしていた。
恐怖に駆られると、こんなにも早く息が上がってしまうものなのか。
それとも見境なく全力で殴り掛かるのは、剣を以て対峙するよりも遥かに過酷なことなのか。
あれこれ突発的な考えが脳内をめぐるが、それはたちまちに消えていく。
「ふぅぅぅ。はぁぁぁっ」
深呼吸を繰り返す。
その間も、脅威を睨みつけてじっと立ち尽くす。
しかし、それはぴくりとも動かないまま倒れている。
呼吸が落ち着いてきたのか、我に返ると、あたしが恐怖していたものは人間の男の子だということに気が付いた。
相変わらず、微動だにしない。
まさか、殺してしまったのだろうか。
「モ、モシモシ…」
見下ろしたまま声をかける。
が、はやり反応はない。
ちょん、と。
つま先で突いてみる。
しかし反応はない。
ダラリと伸びた腕をそっと手に取って、その手首に触れてみると、無事に彼の脈を確認することができた。
ひとまず安心だ。
血濡れた顔を確認してみると、どうやら歳もあたしとそう変わらなさそうな子だった。
でもなぜこんなところに男の子が?
分かってはいたが、ほんのわずかながら全くの異世界、おとぎ話の世界に来たかもしれないという、あたしの淡い期待は霧散した。
彼の着ている服は薄汚れてはいるが、城下の人間が身に着けている服によく似ていた。
顔もバタラニティ王国ではよく見かける顔立ちをしていて、別の世界どころか別の国の人間でもなさそうだ。
ということは、この巨大な鉄の世界はバタラニティ王国内にあるのだろうか。
城から出たことのないあたしには見当もつかないが、御父様やハヤネール先生からもそんな話聞いたことがない。
「ねぇアンタ、チョット。ダイジョブ…」
肩をゆすってみるが、意識を取り戻す気配はない。
鼻血を流し、切れた唇からは血が滲んで、いたる所が切れた顔はなんとも痛ましかった。
まさかあたしが、こんなにも一方的に男の子を痛めつけられるとは思わなかった。
剣を持てば自信もあるし、剣で男の子に負けたことなど数えるほどしかない。
だがここまで無残に、ましてや相手が気を失うまでやりあったことなどないから、少々不安になってくる。
頬を叩いてみる。
だがしかし、彼は目を覚まさない。
「あぁ、ウソ。どうしよほんと…」
さっき調べた部屋に、ベッドやソファのようなものはなかった。
あったのは無機質な机や椅子などの家具ばかり。
彼を手当てするならば、綺麗な布や水も必要になってくるはずだ。
でも、そんなものはどこにも見当たらなかった。
彼をさっきの部屋まで運んで看病するか、目の前に続く通路を進んで探してみるか…。
ひとまず、万が一窒息してしまわないように、彼の上体を起こして壁に立てかけると、あたしは駆け足で布と水を探し始めた。
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壁が半分に割れると、目の前には人影があった。
不意の出来事が連続し、ボクは思わず叫んでしまった。
しかし、それがいけなかったのだろうか。
その人影は、奇声を発しながら襲い掛かってきた。
まず最初に、鼻が折れた。
その一撃で、ボクの視界は霞んで、まともにその人影を確認することもできない。
庇うために手で顔を覆うが、人影はボクの腕ごと顔を吹き飛ばす。
歯が折れそうなほどの衝撃が襲い、たった2発の拳でボクの意識は飛びそうになった。
死を感じた。
暗闇に落ちた時にも死を意識したが、今度こそは本当に。
殺されると思った。
ボクは必死に抗った。
手をがむしゃらに振り回し、必死の抵抗を試みた。
だが、無駄だった。
ボクの腕は空を切り、代わりに相手の拳が脳を揺らす。
腹に、脚に、胸に、人影は重く鋭く蹴りを入れて、また顔を殴る。
最後に、ボクは左から飛んでくる拳を見たような気がした。
でもそれが最後。
音も視界も何もかもが、白くなって消えていった。
「………」
にがい…。
そしてほんのり嫌な臭いが鼻の奥に充満している。
でもそれは、どこか懐かしいにおいだった。
「ゴホっ、げほっ、ごえ゛」
喉に何か詰まる感じがして、ボクの意識は覚醒していった。
ボクの肩を掴み、誰かが背中をトントンと叩いてくれている。
誰だろうか。
全く覚えがない。
「よかった!気づいた!」
女の子の声だ。
ボクを気遣ってくれているのか、その声はとても心配そうに聞こえる。
「あなた大丈夫?息できる?」
言葉の代わりに、激しい咳がでる。
血が喉に詰まっているのだろうか、とても息苦しい。
少女は、今度は背中を擦って手当てをしてくれる。
「ゴホっ、だい、じょぶ」
上手く喋れないが、今度は声が出た。
「あぁ、よかったぁ。ほんっとよかったぁ」
本気で心配してくれる声を聞いたのはいつ以来だろうか。
息苦しさはなかなか取れないが、彼女が本気で気遣ってくれているのを感じて、幾分落ち着いてきた。
顔を上げて、少女の顔を見てみる。
背丈はボクよりも少し大きかったが、顔の感じからして歳は同じくらいに見えた。
そして何より、薄く紫がかった黒い髪が、彼女の健康的な肌に張り付いてとても美しかった。
一瞬にして顔が火照るのを感じる。
顔もジンジン痛み、頭もクラクラするので本当に火照ったかどうか分からないが、少女は確かに美しかった。
「ごめんなさいね。あたし、急に大声出されて。びっくりして」
何に謝っているのだろう。
ボクはしばらく考えた後、体中の痛みと共に思い出した。
「もしかして、あれはきみ、だったの…」
「あの、本当に申し訳ありませんでした。気が動転して止まらなくって…」
「…ハハハ」
思わず笑ってしまった。
少女の本気で申し訳なさそうな顔が、妙におかしく感じたのもある。
見ず知らずの女の子に、こんなにも心配されたことが嬉しかったのもある。
しかし、こんな少女に気を失うまで殴られた、ボクの不甲斐なさに笑いを堪えられなかったのが一番の理由だった。
ボクって本当に情けない奴だ…。
「な、なによ」
うろたえている事を笑われたと思ったのか、少女は眉をひそめる。
「いや、…ハハハハ」
「ちょっと、なに笑ってんのよアンタ。人が心配してやってんのに…!」
「…いや。ほんと。ハハハ…」
「…腹っ立つわねえ!何なのよいったい!」
同じ年頃の少女に好き放題やられて、ばつが悪いのを笑ってごまかしたことを勘違いし癪に障ったのか、彼女は急に態度を変えて怒り出した。
驚いた僕は、今度は真剣に謝罪した。
「いえ、あ、あの。違うんですごめんなさい。その、あの」
「なによさっきから。煮え切らないわね」
仁王立ちで見下ろされて、ボクは蛇に睨まれたカエルのようになってしまった。
「そ、その。あ、あなたの事を笑ったんじゃなくて…」
「御託はいいのよ。なに笑ってんのか聞いてんの」
「や、優しくされたのが嬉しくて…」
ちょっとだけ嘘だったが、優しくされたのが嬉しかったのは本当なので、嘘はついていない。
「…あら。なんだそういうこと」
「……」
「ふぅん、そ。ならいいわ。せっかく手当してやってんのに、なんか馬鹿にされたみたいで嫌だったけど」
「本当にごめんなさい…」
「いいわよ別に。そういう理由だったんなら気にしない」
竹を割ったような少女だった。
「で、本当に大丈夫なの。遠慮なく殴っちゃったけど」
大丈夫かどうかは分からなかった。
体中がズキズキと痛むが、動けないというほどでもない。
「たぶん…」
「そう。でもアンタも悪いんだからね。急に変な声で叫んで、目ひん剥いてんだもん。怖いわよ」
人は怖いと襲ってくるものなのだろうか。
普通は怖いと逃げ出すと思うんだけどな。
でも、そう思ったことは口に出さないでおいた。
「にしても、こんなところで人に会うとは思わなかったわ。アンタも水鏡の扉でここに来たの?」
「み、みかがみのとびら?」
「ええ。青く光ってる変なの」
「??? いえ、違うけど…。ボクは、」
下水道から落ちたらここだった。
と説明してよいのだろうか。
変に思われないだろうか。
「えっと…。なんていうか」
言い淀んでいると、彼女はボクの言葉を待たず自分の話を始めた。
「あたしは、宝物殿にあった青い光が光ったと思ったら、ここへ来てたわ。ほんとわけわかんないけど」
ほうもつでん?なんだろうそれは。
手にしている布を絞りながら、彼女はちょっと楽しそうに話した。
絞った水は、血に汚れている。
きっとボクの怪我を手当てしてくれた時のものだ。
彼女はそれをボクに投げてくる。
あとは自分で、ということなのだろう。
顔にできた傷を気にしながら顔を拭うと、濡れた布がひんやりと気持ちよかった。
…しかし、この布はどこかで嗅ぎなれたような、すえた臭いがする気がした。
「あの、これ」
布を掲げて見せると、彼女は得意げになって答えた。
「つ、使えそうな布がなくって、あたしの服を破いたんだけど。感謝しなさい!」
見ると、彼女の着ている服は、袖が片方だけ無くなっている。
「ど、どうもありがとう。そこまで…。…でもこれ濡れて」
「ああ、それはここの」
そう言って指した先には、水垢が固まったのか大きく縦に変色した壁に、ちろちろと水が流れていた。
「アンタを張っ倒した後、何かないか探してたら、運よくここに水が流れててね。色も汚くなさそうだし、急いでここに連れてきたのよ。意外と重かったわアンタ」
笑いながら自慢げな顔をしているが、ボクには笑いごとではなかった。
壁を伝う水を追いかけて、見上げてみる。
丸く穴の開いた奥は暗く、その先を覗くことはできないが、確かにその真っ暗闇から水が垂れているのが分かる。
そして、目線を下に戻すと、床に茶色いレンガの欠片がいくつか落ちているのが目に入った。
そうか、ここは…。
「あと、手当てしてる時、布に着いた水飲みたそうにしてたから。何度かこの水飲ませてやったわよ。命の水に感謝しときなさい」
「ぅおえええええ」
ボクは何度もえずいた。
でも胃からは何も出てこず、ただただ、気持ち悪さだけが口から吐き出されるだけだった。
「な、大丈夫!?どうしたの急に!」
ボクはえずき続けた。
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どうやら、あたしの使っていた水は下水に流れる水だったようだ。
傷口をなんどもあの水で洗ったが、大丈夫だろうか。
「…ごめんなさい」
「いや、今更…。大丈夫…」
えずき終わった後、簡単に男の子からここへ来た経緯を聞いた。
下水道を探検していたら、仲間とはぐれて長い時間彷徨った挙句、上の穴から落ちてきたらしい。
下水道の探索なんて、変な趣味をお持ちの男の子だ。
「てことは、この上から出られるの?やっぱここはバタラニティ王国?」
「間違いないよ。城下街のどこかだと思う」
「ふぅん…。案外、心配しなくても帰れるかもね」
しかし、あたしには腑に落ちないことがある。
この通路の向こう、筒状の大きな空間は上に大きく伸びていた。
一見しただけでも王城のてっぺんよりも高そうだった。
でも、いつも城下を見下ろしていたあたしは、そんな巨大な建物を見たことがない。
いくら下水が地下にあるからと言っても、王城の高さを超えるような深さに造れるものではないはずだ。
「キミは。そういえばキミはどうやって来たの。みかなんとか、って言ってたけど」
「ああ、水鏡の扉」
「うん。どこかに入口があるの?」
「いいえ、おとぎ話にでてくる法具よ。初代バタラニティ王が使ってたんですって」
「なんだかよく分かんないけど…。ここから出られるの?」
「んんー、それがね。なんかうんともすんとも言わなくて、帰れないのよね」
男の子は???を顔に浮かべているが、あたしだってよく分からないことの説明なんてできない。
「だから多分。この穴から下水道を通って帰るしかないわ」
あたしは天井に空いた穴を見上げる。
それは偶発的ではなく、明らかに人口的に作られた穴だった。
そこがなぜ下水道に繋がっているのか、それは定かではないが、とりあえず次の行動は決まった。
「なんでもいいから、ここに物を積んで脱出するわよ。動ける?」
男の子は少しばかり歯を食いしばっているが、補助はなくても歩けそうだった。
「そうだ。アンタ名前は?」
男の子は、はにかみながらラクニィドと答えた。
「あたしはアスカ。よろしくね。…その怪我は、ほんとごめん」
「ううん、いいんだ。よろしくアスカ」
心の広い奴だなと思った。
あたしなら、ボコボコに殴られて、挙句の果てに下水道の水をぶっかけられようものなら、たとえ便所に隠れていようが見つけ出して復讐してやるところだ。
握手をしたあと、あたし達は積み重ねられそうな物を手分けして探した。
探索中、妙なことに、このエリアには手をかざして自動で扉の開く仕掛けは、入口のあれだけだった。
ここにある扉は取っ手のようなものを捻って開く、よくみる一般的なものばかりだった。
各部屋の中にはベッドやテーブル、人が住むのに必要なものが並んでいた。
しかし、そのどれもが朽ち果てて、ベッドに掛けてある布なんかはボロボロに崩れて欠片しか残っていない。
だが、今必要なのは積み上げられる何かだ。
あたしはベッドやテーブル、積み上げられそうなものを次々と運んでいった。
そのどれもが金属製だったため、ひとつ運ぶのにも苦労した。
なにより、床を引く時に出る不快な音が曲者だった。
ラクニィドも、怪我をした体に鞭打ってくれたおかげで、あっという間に穴へ届く高さにまでそれらを積むことができた。
早速、あたしは穴まで登って出入口を確かめてみる。
しかし、そこには足場になりそうなスペースがちょこんとあるだけで、四方を鉄の壁に囲まれていた。
「ねえ、ラクニィド。アンタが落ちてきたのって、本当にこの穴なの」
「そうだと思うけど、なんで」
「出られそうなところなんてないわよ。場所間違えたりしてないでしょうね」
がんがん壁を叩いてみるが、そのどれもが厚い壁に覆われていそうだった。
ラクニィドは周囲をきょろきょろしたり、あっちへこっちへ指をさしてうなっている。
「そんなこと、ないと思うけどなあ」
しかし、いくら調べてみても、そこには鉄の壁が鎮座しているだけだった。
確かに、ある壁の一面から水が漏れているのを確認できるが、殴っても蹴ってもそれはただの壁だった。
徒労に終わったことで気が抜けたのか、なんだか急にお腹も空いて、喉も乾いてくる。
「疲れた…。何か食べるものもってない?」
しかし、残念なことにラクニィドは黙って首を横に振る。
「なによアンタ、下水道探検しようってのに、食べ物も持って来てないの。何食べるつもりだったのよ」
「…ごめん……」
「…まあ仕方ないわ。飲み物も持ってるようじゃなさそうだし。しかし参ったわね。出口より先に飲み水探したほうがいいかも」
ラクニィドは、ばつの悪そうな顔のまま黙ってしまった。
まあ持っていない物は仕方がない。
「井戸とか、それっぽいの見なかった?」
これにもラクニィドは首を横に振った。
「そっか。あたしも」
沈黙が流れた。
だが、あたしは別に不機嫌になって黙り込んだわけではなかった。
ラクニィドが落ちてきたという下水道の位置。
あたしがやって来た、水鏡の扉があった部屋の位置。
円筒状に出来た空間に、それに沿って広がるこの施設。
「ふぅむ」
「ど、どうしたの」
ひとつため息をつくと、沈黙に耐えられなかったのか、ラクニィドは遠慮がちに話しかけてきた。
「ここってベッドとかテーブルとか、そういう生活に必要なものがたくさんあったじゃない。だから、飲み水を探すならここら辺かなって思ったのよ」
「うん」
「でもね、アンタ言ったじゃない。下水道から落ちてきたって。普通、下水を引くなら居住スペースよりも下に造るんじゃないかなって」
「ああ、そうか。人の住む場所より高い位置に下水を造るなんて、たしかにおかしいね」
「そうなのよ。だから、下水よりも下にあるここじゃ、飲めそうな水も無いのかなって思ってね」
ラクニィドはたいそう納得がいったという表情で、首をふんふん振って見せていた。
「だからアンタに質問。アンタが探検してたのって、本当に下水道なの?」
「…うぅぅん…。据えた臭いもしてたし、暗渠と繋がってたし、水も流れてたから…」
「そう、そうよね…。そりゃ下水よね…」
「…それにしても」
「なに?」
「アスカって凄いね。そうやって色々考えられるんだ」
唐突に、この男は訳の分からないことを言い出した。考えるもなにも、状況を整理しているだけなのだが…。
「は、は?何言ってんの」
「ボクね。まずいな、どうにかしなきゃ。どうしようどうしよう、って事ばかり考えてて、キミみたいに冷静に考え事出来なかったから。凄いなって」
「ほ、褒めても何も出ないわよ。何も持ってないし」
「本当にそう思ったんだ。ボクと歳も変わらなさそうなのに、すごく大人だなって」
「そそ、そう。そりゃ、ありがと。まあ、当然よ!」
あまりにも実直に褒められてしまったので、つい照れてしまった。
お菓子でも持っていたら、気前よくあるだけ渡していたかもしれない。
が、ここにそんな洒落たものはない。
「さ、さて!ここでこうしててもらちが明かないわ。って言っても、あたしもどうしたらいいか分かんない。アンタなんか良い考えある!?」
「うーん、そうだな。…そういえば、アスカの言ってた水鏡の扉って、どこにあるの」
そうか。
そういえば、ラクニィドは階下にある部屋をまだ見ていないのだ。 ふたりで探せば、もしかしたら何か進展するかもしれない。
「そうね。案内するわ、着いて来て」
あたしは先頭に立って、水鏡の扉の部屋に向かった。
大きな竪穴を目にし、ラクニィドも感嘆の声を上げていた。
こんな広大な建築を目にしたら、誰だって同じ反応をするというものだ。
先ほどとは逆に、螺旋の坂道を下りながら、あたしは再度周囲を見渡してみる。
やはり緑色に光る扉は、近くにはなさそうだった。
階下を調べた後、まだ見えない上の方に行ってみるのもいい。
もしかしたら、ここ以外にも開く扉があるかもしれないのだ。
いや、きっとある。
こんなにも広い空間に、たったふたつしかないなんてことはないだろう。
あたしが出てきた扉の階に到着し、銀の板に触ってその扉が開くのと同時だった。
開いた扉の向こう、広く長い通路の向こう。
きりきりと鉄の擦れる乾いた音と共に、波打った巨大な鉄の壁が、下から上へとゆっくり動いている。
あれは巨大な壁ではなかった。
巨大な扉だったのだ。
あたしもラクニィドも、空いた扉から動くことなく、じっとそれが大口を開けるのを見ていた。
大口の向こうは薄暗く、そして、何やら無数の、まるで大勢の騎士達が行進でもしているかのような、金属を打ち合わせている音が響てくる。
その音は次第に大きくなり、こちらへ近づいてくるのがわかる。
「ラクニィド。何かしら…あの音」
「わかんない…」
そうラクニィドが言い終わった時だった。
大口を開けた暗闇の横から、小さな緑色の影が通路へ飛び込んできた。
かと思うと、今度は大人の背丈もありそうな巨大な蜘蛛が、幾匹もの大群になって通路へなだれ込んでくる。
巨大で鋭い脚をひしめかせ、開ききっていない鉄の扉をこじ開けながら、次々と壁へうねりながら迫るその様は、さながら大地を這う津波のようだった。
「なにやってるッ!!!どけ!どけエ!!!」
小さな影は、その迫りくる蜘蛛の津波から逃げているのだ。
必死の形相であたし達の方へ迫ってくる。
あたしは呆然と立つラクニィドを引っぱたき、全力で元来た道を駆けのぼった。
後ろを見ると、あの小さな影もあたし達の後を追ってきている。
そして、その更に後ろには、巨大な蜘蛛たちが壁を這いながら、蠢いていた。
が、こちらを向くや否や、飛来する矢のように前進を始める。
あたし達は無我夢中で、緑に光っていた扉を目指した。
駆ける脚はもつれ、つまずきそうなりながらも、なんとかバランスを取った。
背後からは死神のような機械音が烈々と迫ってくる。
涙が出ていた。
他の何の感情でもない、ただ逃げたいという恐怖から、涙は止めどなく流れていた。
ラクニィドと対面したときにも恐怖は感じたが、今感じている恐怖はそれの比ではなかった。
獲物として狩られる。
逃げるしか選択肢の無い小さな野兎。
それがあたし達なのだと、本能が感じ取っていた。
それでも、あたしは真っ先に扉に辿り着き、勢いのままに銀の板に手を打ち付けると、扉は事も無げに開いた。
滑り込むように。
あたしは扉の向こうへ駆け込んだ。
緑の小さな影が。
恐怖に顔を歪ませたラクニィドが。
それと同時に、扉は迫り来る蜘蛛など意にも介していないように、静かに閉まっていく。
その隙間から、あたしは通路にひしめく蜘蛛や、螺旋の坂の向こうから這い上ってくる蜘蛛達を見た。
扉が完全に閉まる。
ガンッ!!!
と、扉は大きく音を立てて、鉄の軋む音さえ聞こえてきそうなほど激しく揺れる。
しかし、扉はそれでも開くことはなかった。
しばらくすると、がなり立てるように響いていた衝突音は鳴り止み、壊れるかと思ったほど揺れていた扉は水面ほども揺れていない。
恐る恐る扉に近づき、そっと耳をそばだてる。
すると、キシキシと蠢く音は次第に数を減らし、聞こえなくなった。
どうやら、ひとまずの危険は去っていったようだ。
後ろを振り返る。
そこには、腰が抜けてへたり込んだ、緑の肌をした小さな魔物と。
同じく尻もちを着き、未だ恐怖に顔を歪めたままのラクニィドが、じっとあたしを見て固まっている間抜けな姿があった。
「…タハハっ」
なんだか分からない笑いが出た。
ここまで読んでいただいてありがとうございます。
ようやく、少しばかり物語が動き出した気がします。
誤字脱字、ご指摘などありましたら、お教えいただけると嬉しいです。
どうぞこれからもよろしくお願いします。