自分に嫌気がさしたなら。
時間とはまさに命そのものである。
人生とはおびただしい数(量、というべきか)の時間の集合である。
故に、限りある時間をどう生きるか、がこの世界では一番肝心である。
では、問おう。
君は今まで、どんな「時間」を過ごしてきたか。何に費やしてきたか。
……思い返してみて欲しい。そして考えてみて欲しい。
君がこうなっている、こうなってしまった原因たる時間はいつだったろうか。
それは大抵、幼少時代ではないだろうか。
……いや、幼少時代に違いない。
自我が芽生えたころ、あるいは芽生える前、
どんな環境で、どんな経験をし、どんな考えをもち、どう行動したか。
それらが今の君を今の君たらしめている時間であったのである。
まずは、今の自分、あるいは少年時代、青年時代の自分の考えや行動と照らし合わせてみよう。
ああ、あの考えはあの頃のこういう経験が影響している。
ああ、今私がこうなのはあの時こうだったからかもしれない。
思い当たる節、というのはいくらでも出てくるのではないだろうか。
では次に、今の状況や能力、あるいは未来の可能性と照らし合わせてみよう。
ああ、あのときこれに気付いていればこうだったろうに。
ああ、あのときこうしていればああはならなかったにちがいない。
ありふれた後悔が次々と浮かんでくることだろう。
このように、幼少時代とは1人の人間にとって非常に重要な時間なのである。
だが、もし仮に今の自分に嫌気がさしても、幼少時代を呪ってはいけない。
あの時自分がああしていれば、なんていうのは、非常に酷な話である。当時の自分は当時の自分なりに最善の行動をとった、その結果なのだから。
また、あの時あいつがああしなければ、というのも傲慢な話である。あいつ、というのが、親であれ、教師であれ、誰であれ。所詮は他人である。自分の人生の不利益は、自分の力不足が故であり、自分の責任に違いない。
ならばどうすれば良いか。
自分も他人も呪うなと言う。ならばこの胸のどす黒い感情はどうすれば良いか。
簡潔に言うならば、飲み込むしかあるまい。
幼少時代、つまり自我の形成など、所詮運でしかない。
どの国に生まれるか。
どの家に生まれるか。
男として、あるいは女として、あるいはどちらでもないものとして生まれるか。
どのような環境ですごすか。
どのように扱われるか。
など。
そこで人生ほぼほぼ決まっているのだ。「人生は運ゲー」とはよく言ったものだ。
ならば、もうこれ以上がんばったって無駄なのか。
決まってしまった人生なら、何であれ甘んじて受け入れるしかないのか。
いいや、そうではないはずだ。
そうではないと信じてみようじゃあないか。
だってそうだろう。
幼少時代が未来を決定するのが事実だとして。
決定づけられた未来が、今自分が想像する未来と全く同じであると、誰が確かめたのか。
そもそも、決定づけられた未来がたった1つであると、誰が決めたのか。
確かに決まった未来なのかもしれない。
だが、抗えるうちは抗ってみようじゃないか。
死ぬ気で抗ってみようじゃないか。
過労死上等で抗ってみようじゃないか。
うつ病上等で抗ってみようじゃないか。
抗える、ということは、抗うことは決定づけられた未来の選択肢に含まれている、ということだ。
抗える限り、可能性はある。
物理的に抗えなくなったなら、そのときこそ諦めよう。
そうでもなければ、諦めきれない。
中途半端な諦め程ほど、虚しく苦しいものなどない。
完全な諦めを得られるまで、自分を追い込め。
でなければ、君は幼少時代に喰い尽くされるだけだ。
むしろ君が喰い返してしまえ。
そんなくそったれな幼少時代など。