果たすべき約束
突如出現した異形の生物。その咆哮に耳より先に頭がおかしくなりそうになる。こんな物の相手など出来ない。
「行け、早く!!」
すぐさま立ち直ったアルトが二人に告げる。
アルトより治りが遅かった二人だが、ゆっくりとした足取りでどうにかその足を窓へと向ける。
アルトも二人を追って窓へと駆け出そうとする。しかしそんなアルトの姿を異形の生物は捉えた。真っ直ぐ前を向いた牙がアルトへと向けられる。
「ヴォォォォォォ!!」
叫びと共に異形の生物はアルトに突進する。長い手足を駆使して迫るそれは地を蜥蜴のように這い、その巨躯からは想像も出来ない速度でアルトへと迫る。しかしアルトはギリギリの所で角へと飛び込み、牙を回避する。
異形の生物はそのまま壁へと突進して壁から建物の外に飛び出した。
「うわぁぁぁぁぁぁ!!」
「なんだコイツは!?」
その瞬間建物の外が騒然とし、混乱に包まれるのは窓を経ていても分かった。
アルトは直ぐに立ち上がって二人を見る。
「二人とも大丈夫か!?」
アルトの問いかけに「はい!」とニーナが答える。アルもニーナも、目立った外傷はなかった。そんな中、アルが外を指差す。
「あれ見ろ!」
声をあげるアルの指先をアルトは釣られるように見る。
すると本来はこの建物を攻撃される為に配備されていた魔術師数名が詠唱していた。魔術師はそれ以外にも何名か居たのだが、あまりに歪なその生物の姿に尻込みする者と、既に逃げ出そうとしている者ばかりでまともに統率が取れて居なかった。
対する勇敢な魔術師達は全員が遠距離の放出魔術を扱うらしく、一人は弓に矢をつがえ、それ以外が杖を構えている。
「今だ、放て!!」
一人の合図で魔術師達がそれぞれの魔術を放つ。
雷、炎、氷など様々な種類の魔術が一斉に異形の生物に向かい、命中と同時に魔術同士が反応して辺りが煙に覆われる。
「撃ち方待て!」
指揮官らしき男がそう声を発して魔術師達を待機させる。と、その時だった。
「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
煙の中から断末魔が木霊す。すると次の瞬間、バキバキと何かが砕けるような音がし、続いて何かが叩き付けられるような音と断末魔が聞こえる。
「!ッ伏せろ!!」
煙にの中で動きを察知したアルトは二人に合図する。アルトの合図で三人は倒れ込むように床に伏せる。
するとちょうどアルトの頭上の窓を割って館内に何かが飛び込んで来た。
飛んで来た何かが見えていたアルトは、直ぐ様二人に「見るな!」と告げる。それは先程指揮を執っていた男の上半身だった。顔は鋭利な刃物で切り裂かれたように半分失っており、同様に胸から下が綺麗になくなっていた。
「向こうに行くぞ」
そうアルトは死体が背になるように二人を先導する。アルもニーナもアルトに言われた通り一度も振り返る事なくアルトに着いて行った。
そして、アルトは最初に自分が割って館内に侵入した場所まで移動し、二人に外に出るよう告げる。
二人に続いてアルトも館内から脱出し、再び状況の把握を図った。
「ヴォォォォォォ!!」
煙が晴れた先で異形の生物が吠える。その周りは血肉に彩られており、先程魔術師達が居たその場所には最早誰も立って居なかった。更にはあの生物には確実に魔術が命中していたのにも関わらず、その黒ずんだ様な体皮には目立った外傷が無い。おまけに他の眷属達なら嫌がって近付かない陽の下にあっても全く怯んだ様子もない。
何もかもが規格外過ぎる。最早この場の誰もあれを止める術を持っていない。
「ヴァルバロイ……」
ふとアルがその名を口にする。
「あれがそうなのか?」
尋ねて返すアルトに対し、アルも首を振ってから答えた。
「分からねえよ。そもそも、ヴァルバロイに出会って生き残れたのは極少数の人間で、どんな生態か、どんな見た目なのかすら情報が一致しねぇんだ。だが目の前に居るのはどう考えたって普通じゃねぇだろ」
ヴァルバロイ。その名はアルトも聞いて知っていた。眷属の中でも、更に特異な存在が居るのだと。ヴァルバロイと呼ばれたそれ“等”は、時に天を突く巨人だったり、腐臭の漂う肉の塊だったり、長い首や手足を持つ蜥蜴だったりと、とにかく情報の整合性がなかった。だが仮に目の前のそれがヴァルバロイだとするならば、その整合性の無さにも無理は無いとアルトも理解した。
その姿はあまりに名伏しがたく、他に形容のしようが無い。この世の物からかけ離れたその存在は、まるで誰かの悪夢の中から出てきたかのようだった。
「第一班構え!!」
と、その時完全武装した衛兵がこの場にたどり着いた。12人程の人数が皆フルプレートメイルを着込み、突撃槍と巨大な盾を構えて立ちはだかる。
すると衛兵の指揮官の怒号にヴァルバロイが反応し、牙をそちらに向ける。
「ヴォォォォォォ!!」
咆哮と共にヴァルバロイが突進する。衛兵達は決死の覚悟で盾を構えて備えた。だが、
「ぐぁぁぁぁ!!」
断末魔と共に、三人程の衛兵が盾ごと体を貫かれる。重装備でもなんら関係無しに貫くその牙に、鋼鉄製の武具がまるで役に立っていない。
更には今ので他の衛兵達も吹き飛ばされ、完全に陣形が崩れてしまう。
「逃げるんだ!!早くこの場から離れて!!」
町は悲鳴と走り出す人間で大混乱に陥っている。その上衛兵達も、住民を逃がす時間すら稼げていない。と、その時だった。
「お母さぁぁぁぁぁん!!」
逃げ遅れた住民の中で一人の少年が泣き叫ぶ。不幸な事に母を探すその声はその喧騒の中でも良く通り、ヴァルバロイの注意を引いてしまう。
ヴァルバロイは頭を勢い良く動かし、串刺した衛兵を振り払う。勢い良く地面に叩き付けられた衛兵は絶命した。同様に吹き飛んで来た盾がアルトの足元まで転がって来る。
(どうする……)
アルトの胸にはずっと葛藤があった。今ならニーナとアルを連れて逃げる事が出来る。幸か不幸かヴァルバロイの注意は完全にアルト達からは逸れているため、容易く逃げ延びれるだろう。だがこのままではまた多くの人が死ぬ。
「ヴォォォォ……」
唸りながらゆっくりと子供に近くヴァルバロイ。それに気が付き子供はその場から動けなくなり、更に助けを求めて大きな声で泣き始めた。
ヴァルバロイがその長い前足を振り上げた。その先端にある、鎌のように鋭く長い爪が、先程切り裂いた魔術師達の血で赤く輝いている。その瞬間に皆が息を飲み、静寂が辺りを包んだ。もうダメだと思われたその時だった。
ガンッと鋭い衝撃音が辺りに響く。するとヴァルバロイがバランスを崩して振り上げていた前足を地面につく。そしてその直ぐ近くに、風穴の空いた衛兵の大盾が落ちた。
「アル!! ニーナ!!」
静寂を破るアルトの声。同時にヴァルバロイの牙がアルトの方へと向けられる。
「住民の避難を手伝え!! 時間は俺が稼ぐ!!」
その言葉を告げてからアルトは博物館へ向かって走り出す。
するとそれを追ってヴァルバロイは突進を開始した。
「待て、お前は!!」
「アルト先輩!!」
二人の言葉が届く前に、アルトは美術館の窓へと飛び込んで再び館内に侵入する。舞い散るガラスの中、着地と同時にアルトは再び走り出す。すると次の瞬間壁を破壊する轟音と、けたたましい咆哮と共にヴァルバロイが館内に侵入する。
アルトはそのまま全速力で角を曲がり、大通りの廊下へと出る。先程まで真っ白だった通路が嘘の様に元に戻っていたが、そんな事を気にして居られず、アルトは通路を図書室へと向かって走って行く。それを追うヴァルバロイは角を曲がる勢いを殺し切れずに壁へと激突する。壁を大きく陥没させる勢いでぶつかったヴァルバロイであったが、直ぐ様体勢を立て直して走り出す。
常人より多少足の早いアルトではあるが、ヴァルバロイ相手ではその脚力は気休めにもならず両者の距離は直ぐに縮まった。
「ヴォォォォォォ!!」
ヴァルバロイの咆哮を間近で聞き、振り返らずともマズイ状況である事をアルトは悟る。ヴァルバロイは首を僅かに引き、その牙でアルトを突き刺そうとしていた。
だが寸前の所でアルトは横に跳んだ。ヴァルバロイの牙は空を切り、アルトを通り過ぎてしまう。アルトはニーナが倒れた部屋へと飛び込んでいた。
すぐに立ち上がり、アルトは再び走り出す。ヴァルバロイは壁を割って追いかけて来る様子はなかったが、それでもどこから攻撃を仕掛けて来るか分からなかった。そして通路側の真っ正面に、最初アルと共に追い詰められた部屋がある事をアルトは理解していた。そのまま真っ直ぐ進んでその先の壁が向こう側へと通じているのを確認し、アルトは再び壁へと飛び込む。
しかし飛び込んだ先には部屋に所狭しと眷属達が待っていた。だがこの程度はアルトは予想出来ていた。壁を抜けると同時に、後ろに大きく引いた拳を一番近くに居た眷属へと叩き込む。
眷属はアルトの拳をまともに受け、その後ろに控えていた数体もまとめて向かい側へと吹き飛ばす。殴った個体は原形を留めない程顔面を砕かれて絶命したが、残った数体は壁を黒い体液で染め上げる程の勢いで叩き付けられたが、止めには至っていない。
しかし道は開けた。アルトは直ぐ様走り出して向かいの扉へと向かう。が、その時だった。突如左手の扉を突き破り、黒い何かがアルト目掛けて迫る。
「くっ!?」
ギリギリの所で地面へと飛び込み、アルトはそれを回避する。アルトの頭上を通り過ぎた浅黒く長いその腕は、その先にある鎌のような爪で部屋の中を凪払う。すると部屋の中の眷属達がその爪の餌食になり、バラバラになって部屋に散乱する。
「ヴォォォ……」
引く唸る様なその声は、獲物を仕留め損ねた事への苛立ちのようだった。構ってられるかとアルトは立ち上がってすぐ向かいの扉へ走り出す。再びヴァルバロイが腕を振るうも、アルトは扉へ体当たりして部屋から脱出しその一撃を凌ぐ。
扉を抜けた先は細い通路になっていた。アルトが走るとそのまますぐ角に突き当たる。その角を曲がるとそのまま人が二人並んで歩ける程度の細い通路が続いており、途中に幾つも扉がある。
貰った地図ではここは備品や美術品等を保管する倉庫に繋がる従業員用の通路である事をアルトは思い出す。そのためこの通路は表の通路よりも狭くなっていた。
「ヴォォォォォォ!!」
そのままヴァルバロイがアルトを追おうとする。しかしその通路は表と違い、ヴァルバロイが存分に走るスペースはない。ヴァルバロイは狭い通路を鍵爪を使って体を引っ張りながら強引に追うが、アルトには到底追い付ける速度ではなかった。
アルトはそのままヴァルバロイを突き放しにかかる。やがて突き当たりまで走り角を曲がってそのまま真っ直ぐ走る。闇雲に走っている様だがアルトには目的地があった。頭の中の地図を頼りに目指す場所は武器展示室だった。とにかくこのまま逃げるにしても武器がなくてはどうにもならない。それに、あわよくばあの怪物に対抗する何かがあるかもしれない。そう思いながらアルトは裏の通路を進む。
次第にヴァルバロイの咆哮が遠ざかっていく。振り切ったのだろうが恐らくまた直ぐに見付けて来るだろう事をアルトは感じていた。ヴァルバロイは離れて居ようと、その姿が見えなかろうと、アルトを捉えていた。どうやっているのか検討は付かないが、広い通りに出れば向こうは姿を見せて来る。逆に言えば、狭い通路を行き来すれば向こうは追って来れなくなる。だが、アルトは完全にヴァルバロイを振り切る訳には行かない。何故ならヴァルバロイから逃げ切れば、次にはその注意がアルトの他に向けられてしまうからだ。
アルトは狭い通路を真っ直ぐ突っ切り、その先にあった扉へ体当たりをして扉を破る。扉の先は大通りになっており、そこは図書室のすぐ前だった。
「ヴォォォォォォ!!」
予想通りヴァルバロイは壁を破壊して通りへ出てきた。だが従業員用通路で足止めされたヴァルバロイは長い通路の中間地点から現れたため、アルトとの距離100メートル程開いていた。
アルトは脇目も振らずに直ぐ様階段を上がる。遠くにあったヴァルバロイの声が近付くのを感じながらアルトは階段を登りきり、上がった先の通路を右へと真っ直ぐに進む。ルイスが発狂したトイレを越え、その通路の先に武器展示室はあった。
「ヴォォォォォォ!!」
ヴァルバロイの声が更に迫る。ヴァルバロイはもう階段を上がりきり、その姿が直線で見える所まで来ていた。
対するアルトは武器展示室へと駆け込み、辺りを見渡す。恐らくルイスが整備している最中だったのだろう、床にはまだ槍が何本か残っていた。それはパイクと呼ばれる類いの槍で、柄が非常に長いものだった。
そうこうしている内にヴァルバロイが迫る。その足はもう武器展示室内の入り口まで差し掛かってた。
アルトは床に落ちていたパイクを全て小脇に抱える。
「ヴォォォォォォ!!」
声を上げ、牙を向けるヴァルバロイ。しかしその中心、蛭の様に中心に向かって円を描くように並ぶ歯の真ん中は無防備だった。一か八か、アルトはそこに向けてパイクを構えた。
次の瞬間、バキバキとパイクの柄が全て折れるのをアルトは感じた。鋭く前方に伸びる牙がアルトに迫る。だが、
「ギャァァァァァァァァァァ!!!」
黒板を引っ掻くような甲高い悲鳴を上げてヴァルバロイが仰け反る。折れたパイクが三本、ヴァルバロイの口に刺さっていた。
(やったか!?)
確かな手応えを感じてアルトはヴァルバロイから距離を取る。しかしヴァルバロイはその痛みに展示室の入り口で暴れだした。槍を抜こうと頭を壁や天井、床に叩き付ける。その衝撃に部屋が大きく揺れ、床に亀裂が入る。マズイと思ってアルトは部屋から抜け出そうとする。
だが部屋の入り口を塞ぎながら暴れるヴァルバロイの脇を通る事など不可能だった。と、その時部屋が大きく揺らぐ。同時にアルトは足元の感覚を失った。
(クソ! こんな所で……!!)
アルトは遠退く天井に手を伸ばす。しかし数秒後に訪れた全身の衝撃により、その意識を手離してしまった。
▼▼▼
「落ちついて避難してください! 焦らないで! 眷属はまだここには来ませんから!!」
「動ける奴は怪我人の搬出を最優先してくれ!」
アルとニーナは再び館内のホールへと戻り、衛兵に代わって現場を指揮していた。
衛兵はその殆どが眷属の餌食になり、更にヴァルバロイの出現もあって動ける人間は殆どが逃げたしていた。ホールに残ったのは僅かな人間と大量の怪我人だけであり、この事態を見過ごせなかったニーナとアルは街の中で何人かに声をかけ、事態の収拾に当たっていたのである。
と、その時大きく美術館が揺れた。先程からホールの奥から時々聞こえた咆哮や、壁を突き破るような音とも違う。それよりも遥かに大きい、美術館全体を揺らすような大きな揺れだった。
「アルト……」
ホールの先をアルは見つめる。ホールと大通りへと続く吹き抜けへの扉は閉ざされているため、その先を見ることはできない。しかし、ヴァルバロイとアルトに何か大きな動きがある事は確かだった。と、その時だった。
「負傷者は!? 状況を説明出来る者は居るか!!」
声を上げて一人の男がホールに入ってくる。全身をフルプレートメイルで固めたその男は青いマントを背にしていた。その男の後ろから、続々と同じようにフルプレートメイルの兵士達が入って来る。声を上げた男と違い、その兵士達のマントは赤かったが、そのマントには皆同じく金の三つ葉の刺繍が縫われていた。
平等と平和を顕す三つ葉のクローバはブリテンの象徴である。それを背にした彼らは、ブリテンの正規軍である事を顕していた。
と、青いマントの男がアルに近づいて声をかける。
「バーミリオンの生徒か。君がここをまとめているようだな。中の様子はどうなっている? それと怪我人はこれで全てか?」
「怪我人はここに居るので全員だ。それより中で俺達の仲間がヴァルバロイに追われてる!」
「ヴァルバロイだと……!?」
青マントの男は一瞬声を荒げる。しかしアーメットヘルムの奥のその目は揺らいではいなかった。
「直ちにこの場の負傷者を運び出せ。手当てはここを出てからで良い!」
青マントの男はそう言って周りの兵士達に指令を出す。
「君達もだ。良くここで皆を指揮してくれた」
「待ってくれ、仲間がまだ!」
「駄目だ。この場の全員を避難させた後、この館をヴァルバロイごと焼き払う」
無情な言葉に、一瞬アルは言葉を失う。どうにかなると思った。正規軍が来ればきっとヴァルバロイでもどうにかなると、そうアルは思っていた。
「早くしろ。一刻を争う状況なんだ、君も負傷者の搬出を急いでくれ」
「待てよ! あいつは……アルトはヴァルバロイを引き受けて逃げ回ってるんだ! 街に逃げ出さない為に、わざわざあの美術館へと戻って行ったんだぞ! それを助けないでなんのための軍隊なんだよ!」
「軍属の人間なら、死んでも良いと云うのか?」
その言葉を告げられた瞬間アルはハッとする。尚も続けて男は言う。
「君はヴァルバロイの姿は見たのだろう? 私もここに来る道中、無惨に殺された衛兵隊を見てきた。あれは到底人間に相手取れる物ではない。よしんば我々で討ち取れたとて、きっと犠牲が出るだろう。情けない話だが、私にはこれ以外に犠牲を出さずにこの事態を収拾する術を思い付けない」
アルは拳を握る。どうにかこの事態を打開し、アルトを助けたい。だが同時に理解していた。この状況は、先程ニーナを助ける時にしたアルトとのやり取りと同じだということに。周りには何人居るか分からない市民達。ヴァルバロイは陽の下に出ても全く怯む様子もなく人々に襲いかかっていた。このままにしておいたら、一体どれ程の犠牲が出るのか分からない。この男が言っている事が正しい事など分かりきった事だった。だがそれでも……
「助けてくれよ……。俺のせいなんだ、全部……」
そう告げつつ、アルはその場に膝を折る。そして床に平伏すようにして叫ぶ。
「お願いだ! あいつを助けてくれ!!!」
アルの声がホールに響き渡る。沈黙が辺りを制した。騒然としていたホールにしばしの間時間が止まったかのように皆が静まり返る。
「駄目だ」
しかし男は無情にも一言でアルを切り捨てる。アルは拳を握り、歯を食い縛る。そしてその目に涙を浮かべ、喉の奥で声にならない唸りを上げた。途方の無い無力感、止めどない悔しさに、涙が溢れて止まらなかった。もっと自分に力があれば、アルトを助ける事が出来たのに。もっと自分に正しい判断を下せる頭があれば、アルトが再び館内に戻ることも無かったのに。
「待ってください」
その時、凛とした声がアルの前を通り過ぎた。アルは顔を上げる。するとそこにはバーミリオンの制服を着た女子生徒がアルと男を隔てるように立っていた。ニーナではない。突如その場に現れた第三の人物だ。
「私が行きましょう」
「止めておけ。いかに君と言えども、未知の相手をするのは危険だ」
「相手が未知ならば、私がその相手に遅れを取るかどうかもまた未知です。そして何より、この生徒を見捨てるのは私の生き方に反します。行かせてください」
「…………………………」
男は長く黙り込んだ。だがやがて……
「君は優秀な魔術師だ。だが、一度言ったら聞かないのが悪い所だ」
「それが私の性です。私がここで折れてしまっては、この者を救える者は居なくなってしまう。弱きを守り強きを挫く。それが私が志す騎士道なので」
「全く……。人はそれを騎士道とは言わん。君のそれは周りから見たらただのひねくれ者だ」
はぁと男は大きくため息をつき、首を振る。しかし改まってから男は告げた。
「ホールの怪我人を運び出すまでが制限時間だ。全員がここを出た後、この美術館に火を放つ。それ以上は待てない」
「了解!」
勢い良く返事をした後、女子生徒は美術館へと駆け出した。それを見送った後、男は俯くアルに告げる。
「良かったな」
ただの一言。その一言がアルの胸に大きくのしかかった。
(クソ……俺は、俺はまた!!)
アルは歯を食い縛り、両の拳を強く握る。噛み締めた口から、悲鳴にも似た唸りを上げながら。アルはしばらく顔を上げる事が出来なかった。
▼▼▼
湖の畔で腰掛ける二人の人影。その時アルトは彼女にある事を告げていた。
「えっ!? 明日から君来れないの!?」
それはブリテンへ出発する前日の事だった。アルトは彼女の元へと訪れ、向こう4週間は会えない事を伝える為に湖に来た。
「嘘つき!」
そう声を上げて彼女は頬を膨らませながら指を指す。
「君毎日来るって言ってた!」
「はぁ……」
そんな事は約束していないとアルトは思う。だがこれからも来ると言った手前、それを否定するのもばつが悪いとも同時に思った。
「今までだって何日か来なかった事もあっただろ。それに去年も同じように研修があって来れなかったはずだ」
「むー……」
と彼女はアルトの弁明に納得行かない様子だった。
「別に二度と会えなくなる訳じゃないんだからいいだろ」
「やだ! 私毎日君に会いたい!」
「あまり我が儘言うと二度と来ないぞ」
いい加減苛立つアルトは彼女にそう言い放つ。すると彼女も引き下がる事無く頬を膨らませて怒り出した。
「なんでそうやってすぐ怒るかな!?」
「お前の聞き分けが悪いからだ」
「君だって言い方があるんじゃないかな!?」
「言い方を変えたって会えない事には変わらないだろ」
「そういう事じゃなくて、いってきますとか、必ず帰ってくるとかいろいろ……あーもうっ!!」
彼女は湖に飛び込む。その時水面をわざと尾鰭で叩き付け、大量の水をアルトに浴びせた。
「この!!」
アルトもそれに怒って立ち上がり、彼女に拳骨でもしようかと思うも、水に入った彼女を捕らえるなど到底出来る事ではなかった。
水面で顔だけを見せる彼女は水を浴びせても満足していないらしく、その表情は依然として険しい。
「私怒ったから! 次会う時まで許さないから!!」
「お前なぁ……」
文句の一つでも垂れようとするも、彼女の猛追がそれを許さない。水中で彼女は身を翻し、水を掻いて再びアルトに大量の水を浴びせる。
「次会った時絶対に謝って! それと…………」
▼▼▼
「くっ!!」
全身に痛みを感じてアルトは目覚める。しかし目を醒ましても目の前は暗闇に包まれていた。同時にアルトはうつ伏せの状態で身動き出来ない事に気付く。それでもアルトは手足に強引に力を入れる。すると頭上から光が射し、ガラガラと音が鳴った。
アルトがそのまま立ち上がると、大きな音を立ててアルトにのし掛かっていた物が横に転がり落ちる。ちょうど1メートル程の大きさのその瓦礫は、崩れた天井の一部だった。
(生きてるのか……!?)
アルトは辺りを見回す。周囲360度、瓦礫や木材で埋め尽くされていた。そしてそのまま顔を上に上げると、天井を越えて青空が見える。恐らく床が抜けた影響で上の階全体が崩れ落ちたようだった。そんな中で良く生き延びれたものだとアルトは自分の悪運に半場呆れる。ともかく全身は痛みはするものの、何処かが折れていたり、動かないということもなかった。
そのままアルトは瓦礫の中を出口に向かって歩き出す。
「!?」
そんな中、アルトは出口付近で例の物と出くわす。瓦礫の中で頭だけを出したそれは、ヴァルバロイに違いなかった。ヴァルバロイが埋もれる瓦礫の隙間からは眷属と同じ黒い体液が流れ出し、ぐったりと横たわったまま動かない。
アルトはヴァルバロイに警戒しながら出口へと向かおうとする。
ヴァルバロイは動き出す事無く、アルトは一階の通路へと戻る。ヴァルバロイの生死は判定出来ないが、今更下手な事をして追い回されるのはもう御免だった。アルトはヴァルバロイに背を向けてホール側へと走り出す。
一階の通路を真っ直ぐ進む。武器展示室の下が何の部屋だったかは分からないが、そこがたどり着く場所は知っていた。通路の突き当たりは書庫になっており、その先はメイン通路になっている。アルトはその通路を、もと来た窓へと続く通路へと向かって走る。
だが、その道中でアルトは気付く。メイン通路の丁度半場辺りで、フルプレートメイルを着こんだ誰かが倒れていた。
アルトは走る勢いを徐々に落としながら、倒れ付すその人物に声をかける。
「大丈夫ですか!?」
近付いてアルトは更に気が付くが、フルプレートメイルの背には鋭利な物で貫かれた形跡があった。だが流血の跡が無い為、もしかしたら助かるのではとアルトは駆け寄ろうとする。しかし……
「ヴゥゥ……」
くぐもったその声にアルトは思わず動きを止める。フルプレートメイルの男は、ゆったりとした動作で立ち上がった。フルプレートメイルの男は被ったアーメットヘルムの顔当てを失っており、そこから覗く顔はまだ人の形ではあったものの、黒く爛れたその肌と、白目を向いたその目は既に人の物ではなかった。
ふとアルトは思い出す。ニーナとアルを連れて窓から外に逃げた時、本来“あった”物がそこにはなかった。アルトは再び館内に侵入する際、偶然アルを救出する事になった。しかしその時アルトは一足間に合わず、衛兵の一人が通路に倒れていたはずなのだが、再び窓際の通路を通った際にその姿を見なくなっていたのだ。
そしてアルトは気付く。窓際の通路の奥から、わらわらと人が歩んで来る事に。そのどれもがゆっくりとした足取りで、肩を大きく揺らしている。そしてアルトは見る。歩み寄るその人々は、皆目の前のフルプレートメイルの衛兵のように黒く爛れた化け物へと変わり果てている事に。
(こうなったらやるしか……!)
そう意気込み、アルトは身構えて踏み込もうとした。しかし……
「シ"……デ…………」
衛兵だった者が何かを発する。
「ゴ……ロ"ジ…………デ…………グ」
(まさか……!?)
アルトは気が付く。恐らくもう体は自由に動かないのだろう、しかしまだ衛兵は生きていた。
アルトは自分の手が震えるのを感じた。対して衛兵は手を伸ばしてアルトへと迫る。
「無理だ……」
だが、生きている人間に止めを刺すなどアルトには出来なかった。そのままアルトは何も出来ず、拳を降ろす。徐々に衛兵が近付き、その手がアルトに触れようとする正にその直前だった。
「ア"……ア"ァァァァァァ!!!」
衛兵は叫びを上げながらその場に崩れ落ちる。アルトは叫びながら丸くなる衛兵を見て身を引いた。
すると次の瞬間、プレートメイルがボコボコと盛り上がり始める。アルトは全身に冷や汗をかき、嫌な予感を感じた。
アルトは衛兵を横切って走り始める。そのまま窓際へ続く通路へと抜けようとするも、その先からは眷属と化した衛兵や、従業員などが向かって来ていて到底すり抜ける事は出来なかった。更に、ホール側の窓側通路からも同様に眷属が溢れて来る。
「ヴォォォォォォォォォォ!!!」
その時、聞き慣れた咆哮を背に受けてアルトは走りながら振り返る。
そこには元々フルプレートメイルだったものが散乱していた。散らばる鉄屑の中心にその姿はある。先程あれ程追い回された異形。ヴァルバロイの姿がそこにあった。
「クソ!!」
叫びながらアルトは前を向いて走る。窓側の通路は眷属とヴァルバロイに挟まれる。アルトに残された選択はホールに向かう事だけだった。
「ヴゥゥ……」
唸りを上げてヴァルバロイは動き出す。変異してすぐだからか、ヴァルバロイは先程の個体と違ってその手足に鋭い爪を持っていない。しかしその巨体を蜥蜴のように這わせて近付く姿は、変異してすぐだろうと変わる事はなかった。
アルトはどうにかホールに逃げ延びるも、もうそこから逃げる道はない。そのまま鉄格子へと向かうが、当然そこから抜け道などもない。
「ヴォォォ……」
すぐ耳元で呻くその声にアルトは耳を傾ける。恐る恐るアルトは振り返った。するともう目と鼻の先にあの異形の怪物が居る。
ハッとしてアルトは身を構える。次の瞬間、突然右からの衝撃を感じたと思うともうアルトの体は動かなかった。遅れて全身に痛みが襲いかかる。アルトは鉄格子から、その右手20メートル先にある壁へと叩き付けられていた。
動かない体ながらも、なんとか首だけを上げてアルトは見る。ヴァルバロイがもう目の前に迫り、その手を上げていた。
(クソ、こんな所で……!!)
アルトは自分に強く念じる。ヴァルバロイの動きはやけにゆっくりと動いている様にアルトには映る。同時にアルトは先程味わった感覚を再び感じる。全身からスッと痛みが消えて体が自由になった。だが、アルトが動けるようになるのと、ヴァルバロイが手を振り下ろすのは同時だった。もう間に合わない。アルトは一瞬だけ体を動かすも、来る衝撃に身を固めて強く目を閉じた。
だがその刹那だった。
閃光が窓際通路を駆け抜ける。次の瞬間、通路を徘徊していた眷属達がピタリと動きを止める。そしてその胴体がズルリと傾いて地面に落ちる。それと全く同時にヴァルバロイも動きを止める。
「!?」
だが突然動かなくなったヴァルバロイよりも大きな変化がアルトの目の前で起きた。
突然、本当に突然アルトの視界をなにかが遮る。
揺れるポニーテール、緋色に輝く剣。その向こうで崩れるヴァルバロイ。後ろ姿でも、見慣れた黒い制服とチェックのスカートでそれがバーミリオンの生徒だと分かった。
「なんとか間に合ったか」
そう口にして女子生徒は振り返る。鋭い目付きのその人物は、アルトにそっと手を差し伸べる。アルトはその手を素直に取って立ち上がった。
「こんな状況で良く生き延びていた」
「………………………………」
アルトは言葉が出ない。アルトのその視線の先には、一度倒れてもう二度と動く事の無いヴァルバロイの亡骸があった。亡骸と判別出来たのには理由がある。ヴァルバロイの首が胴体から離れていた。そしてついでと言わんばかりに、先程持ち上げられていた腕も二の腕辺りから切り落とされていた。
あれだけ死ぬ思いをさせられた相手にも関わらず、目の前の女子生徒は難なくそれを仕留めて見せた。ヴァルバロイの首回りは目測でも優に6メートルはある。それを容易く両断したあの剣。そして何より、目に映る事すら叶わない強化魔術。どれもが異次元過ぎる。
「ああ、すまない。最初に名乗るべきだったな。私はヘレーネ・ガバリエル、君と同じバーミリオンの生徒で、三年生だ」
「俺はアルト。二年です」
短くそう返すアルトに、「ほう」とヘレーネが口元に笑みを浮かべる。
「一度聞いたことがある名だ。本名ではないのだろう?」
その言葉に一瞬苛立ちを覚えるアルトだったが、それ以前に何故その事を知っているのだろうかと疑問に思う。一体誰だとあらゆる者を疑うが、思い当たる人物が浮かぶ前にヘレーネは続けた。
「おっと、長話をしている場合ではないな。早くここを出よう」
その言葉にアルトは安堵のため息をつく。しかし一方でアルトは何か胸騒ぎを感じていた。
助けは来た、敵はもういない、出口はもうすぐそこにある。だがまだ嫌な予感があった。
「さて……」と口にしてヘレーネが魔術を解く。
だがその直後だった。
突然轟音と共にヘレーネの後方の壁が砕け散る。崩れる瓦礫の先には、右手を振り上げたヴァルバロイの姿があった。その口には槍の柄が刺さり、全身からは黒い血が流れている。間違いなくアルトを追っていた最初のヴァルバロイだった。
アルトが危険を叫ぶ間もなくヴァルバロイは右手を振り下ろす。
ヘレーネは振り返りながら剣を構える。駄目だ、そうアルトは諦めかけた。脳裏に切り裂かれて宙を舞う自分の姿が浮かぶ。
だが次の瞬間宙を舞ったのはヴァルバロイの手首だった。ヘレーネは剣を振り切った体勢になっている。素の状態で尚底知れないその能力にアルトは絶句する。ヴァルバロイでも到底相手に出来ない。
が、その考えは一瞬で塗り替えられた。ヴァルバロイは切り落とされた手首をものともせずに返す刀を振っていた。残った左手がすぐ横に迫る。
「……抜かった」
そう告げてヘレーネは振り返り様にアルトを蹴り飛ばす。
一瞬の事で理解の追い付かないまま後方に飛ばされるアルトの視界の中でヘレーネにヴァルバロイの手が到達する。
恐らくアルトを狙ったであろう爪が命中する事はなかったが、大木の様な腕がヘレーネを薙ぎ払う。
次の瞬間ヘレーネはアルトの視界から消え去った。吹き飛ばされたヘレーネはそのまま通路側へと飛んで行き、廊下を転げ回った後ピクリとも動かなくなった。
「グルルル……」
ヴァルバロイが獣の様に唸る。意志疎通の出来る相手ではないが、その唸りからは怒りが滲み出ていた。
「クソ……」
絶対絶命の窮地に、アルトは弱々しく呟いた。
▼▼▼
「ヴォォォォォォォォォォ!!」
突如ホールに響く咆哮に、その場にいた皆が身を固めた。
アルもその一人であり、打ちひしがれて俯いていた顔を上げて通路へと向ける。
負傷者の搬送を急いでいた兵士達も同様に、その手を止めて通路へと顔を向けた。
「まさか、こちらに向かっているのか!?」
一瞬の静寂を破るのは青いマントの男だった。
「直ちに負傷者を搬出しろ! 手を貸すのは自力歩行出来ない者だけだ! 僅かでも動ける者は死ぬ気でここから這い出すんだ! 今すぐこの建物を放棄する!!」
その言葉に全身に包帯を巻いた人、まだ処置の終わっていない人々が一斉に動き出す。その中には、文字通り這って外に出ようとする者の姿まであった。兵士達は意識を失って自力で外に出れない人を抱えて外へ向かう。もともと何名かは搬出しているため、全員がこの場から出るのにそう時間はかからない。
「何してる、お前も早くここから出ろ!」
男がそう声を上げる。最初は自分に言っているのだとアルは声の先を見る。だが男の言葉はもう一人へと向けられていた。
「いいえ。僕はここに残ります」
男と真っ直ぐに向かうのは、ルイスだった。
「馬鹿を言うな! 退避しろ! 命令だ!!」
表情の伺えないフルフェイスのヘルムから発せられる怒声は広いホール全体に響き渡る。ルイスは一瞬怯むが、負けじと言い返した。
「引けません! 僕も負傷者の一人です! 僕がここに居る限り、この館への攻撃はしない約束です! そもそも、この館をヴァルバロイごと焼いたとして、それであれを食い止められるとは言い切れない!」
男はルイスの胸ぐらを掴み、至近距離で告げる。
「理屈など言ってる場合か!? 外には数万の命がある! 暮らしがある!! お前にこの重みが分かるか!?」
「理屈なんかじゃない!!」
ルイスは男の手を払い退ける。
「あなたに守る物があるように、僕らにだって仲間が居る!! あなたが彼を切り捨てようとしている様に、僕らも数万の命を危険に晒してでも救いたい仲間が居るんだ! 数字の大小じゃない、価値の有無でもない……! 僕達が救いたい物に、重みの違いなんてものがあっていいはずがない!!!」
ルイスの言葉にアルはハッとする。そうだ。自分のせいで誰かが犠牲になっても、それでも守らなければならないものがあったはずなのだ。
間違えもする、取り返しのつかない事だっていくらでもする。それでも、一度助けようと思った命なら、途中で引っ込みなんて着かないのだ。それこそ、今まで失って来た物が無意味になる。
アルはふとニーナを見る。ニーナもまた、兵士と口論になっていた。ルイスと同じく、ニーナもここに残ると頑なに折れなかった。
他人を巻き込んでも、その結果失ってしまった命がその過程にあっても、ニーナを助けた事は決して無意味ではなかった。ならこの先も同じだ。例えどんな犠牲を払っても、この気持ちだけは消してはならない。
(アルト……!)
アルは立ち上がり、走り出す。何人かの兵士がそれに気付いて止めようとするが間に合わない。
「待て!!」
兵士の一人が叫ぶがアルは止まらずに通路へ続く扉の先へと消えて行く。
「失礼します!」
ルイスも同様に走り出し、アルの後を追った。
「止めろ!!!」
男は兵士達に激を飛ばす。しかし兵士達が扉に差し掛かろうとした時、ニーナが両手を広げて扉の前に立ちはだかった。
「そこを退け!」
ニーナは首を振って応える。
「退けません! やっと出来た私の居場所……もう二度と失いたくないから!」
ニーナは杖を構えて集中する。
「静寂に聞こえしは零へと至る警鐘……」
目を瞑り詠唱するニーナ。しかし彼女は近くにいた兵士に取り押さえられてしまう。悲鳴を上げることもなくニーナはそのまま気を失ってしまう。もともとニーナに魔術を使う程のマナは残っていなかった。ブラフで詠唱をしたものの、無理に魔術を使用しようとした影響で意識を失ってしまったのだ。
「余計な真似を……」
だがそれは、二人がアルトの元に辿り着くには充分な時間稼ぎだった。
▼▼▼
「アルトォォォォォォォォ!!!」
突如名を呼ばれてアルトは思わず声の先を見てしまう。明らかに隙を見せたアルトだが、ヴァルバロイも同様の反応を示して声の方にゆっくりと首をもたげる。
「アルト!」
鉄格子の向こうにアルが居る。アルトはヴァルバロイに注意を払いつつ声を告げる。
「来るな! 俺達にどうにか出来る相手じゃない!」
「ふざけんな!!」
負けじと叫びながら鉄格子を掴むアル。唸り声を上げ、ヴァルバロイは今にも飛び掛かろうとしていた。
「一人でなんでも抱えてんじゃねえ!! 俺が、俺達が居るだろ!! もっと頼れよ! 助けを求めろよ! じゃねえと俺は……俺は何も出来てねぇだろ!! 何もやってねぇだろ!!」
涙を流しながら叫ぶアル。そこに……
「アルト!!!」
アルの向こうで叫ぶその声はルイスのものだった。
「すまないアルト。君にばかり任せて、こんな役回りまでさせてしまった。このままじゃ君に申し訳が立たないんだ!」
アルの横でルイスも声を上げる。
「ヴォォォォォォォォォォ!!!」
二人の声を遮るようにヴァルバロイも咆哮を上げた。アルとルイスの二人はその叫びに気圧されてしまう。
ヴァルバロイの首が再びアルトの方を向く。二人への見せしめにするとでも言わんばかりに、ヴァルバロイはゆっくりとアルトとの間合いを詰め始めた。
だが、そこで自分に渇を入れてアルが動き出す。
「来いアルト!」
叫びながらアルは鉄格子のレバーを引き上げる。
ガタンと大きな音を立て、ゆっくりと鉄格子が上がって行く。
アルトもここしかないと判断する。
「アインス!」
詠唱し、アルトは一瞬でヴァルバロイの脇を通ろうとする。
通路を背にしたアルトと鉄格子の距離は20メートル程。アルトはその距離を瞬き一つで埋めにかかる。だがアルトの進路を巨大な何かが遮る。
それはヴァルバロイの左手であり、アルトにそれを判別するだけの時間は与えられなかった。それでもそれを避けなければならないとアルトは理解していた。
勢いをそのままに、アルトはスライディングするように体を落とす。待ち構えられたヴァルバロイの左手はそのまま空を切り、アルトはその下をくぐり抜けた。アルトは鉄格子の前に到達しようとしていたが……。
「そこまでだ!」
青いマントの男がアルをはね除けてレバーを降ろす。アルトの腰程の高さまで上がっていた鉄格子が、アルトの目の前で完成に降りる。見れば二人が鎧を着こんだ兵士達に取り押さえられ、連れて行かれようとしていた。
「クソ、クソ!!」
取り押さえられながらアルは叫ぶ。
「くっ!」
しかしルイスは兵士の隙を突いて鉄格子まで駆け寄る。そして急いで腰の剣を抜き、その場に置いて告げた。
「アルト、次に会う時はこの館の外だ。約束だよ!」
笑顔で告げるルイス。だがそんなルイスも兵士に取り押さえられて連行されて行く。今度こそ逃げられないまま、ルイスは連れて行かれる。
「君のお陰で何人もの命が助かった。感謝する」
そう告げて青いマントの男もその場から消えて行く。
その時ハッとしてアルトは振り返る。
既にヴァルバロイの左手が目の前まで迫っていた。逃げられず、アルトは両手両足を使い、迫り来るヴァルバロイの爪を防いだ。
「グ……!」
ヴァルバロイの関節に手足をつっかえ棒代わりに入れたアルト。爪はギリギリアルトを捉えきれていない。というのも、ヴァルバロイは鉄格子ごとアルトを掴む形になっているため、人間との体格差があっても握り潰すに至れていなかった。
だがヴァルバロイは次に肘を僅かに引く。すると握るのを諦めアルトを手のひらを使って鉄格子へと叩き付けた。
諸にその攻撃を受けたアルトは自分の中で骨が砕ける音を幾つか数えた。同時に喉の奥から血が溢れ、口元を伝う。意識が暗転し、目の前が暗くなりつつあった。アルトは最後に、ヴァルバロイの鋭く並んだ牙を見ながら意識を手放そうとしていた。
【……約束だよ!】
消え入る意識の中でルイスの声がした。同時にアルトは何か引っ掛かりを感じた。それは以前。ここに来るずっと前に、同じ約束をしていた気がしていた。
【次に会ったら絶対に謝って! それと……】
ああ、そういえばとアルトは思い出す。それはここに来る前に彼女が一方的に押し付けた約束だった。
【それと怪我とかしないで! 絶対、絶対無事に返って来て!】
涙を流して彼女は叫ぶ。
【約束だから!】
(どいつもこいつも……勝手な約束を)
アルトは徐々に意識が戻るのを感じた。暗転した世界に色が戻る。
(俺がこんな所で……!)
迫り来るヴァルバロイの牙。それは既にアルトの目と鼻の先まで来ていた。
だがアルトは、迫り来るヴァルバロイに向かって鉄格子を背にした状態で垂直蹴りを繰り出した。するとアルトの足の裏の先には先程アルトが突き刺したパルチザンの柄があり、ヴァルバロイの口に再び深く突き刺さった。
「ギャァァァァァァァァァァァァァァァ!!!」
耳をつんざくような悲鳴を上げてヴァルバロイは仰け反る。
「ガハッ!」
アルトもその場で吐血しながらも、鉄格子を背にして崩れ落ちるのを防ぐ。
そのままアルトは振り返る。そこには、最初ここに辿り着いた時にアルが魔術を放った跡があった。鉄格子を破壊出来なくとも、金網を破り、鉄格子を歪めたそこには手を通す事が出来た。そしてその先にはルイスの残した剣がある。
(お前は充分やってくれたよ……)
胸の内でアルを労いつつアルトは鉄格子の奥の剣を手に取った。そしてアルトは剣を握り、鉄格子の向こうにあるレバーを剣先を使って上に上げた。
ガタンと音を立てて鉄格子が上がる。そのままゆっくりと上がって行く鉄格子をアルトはくぐり抜けて振り返った。
痛みにもがき苦しむヴァルバロイ。だがやがて逃げようとするアルトに気が付き、アルトへと向かって突進する。
四足揃わずともその速度は衰えない。対するアルトはその場から動かなかった。ただ立ったまま、迫り来るヴァルバロイに対して立ち尽くす。
「ヴォォォォォォォォォォ!!!!」
叫び、迫るヴァルバロイ。そのままヴァルバロイはアルトの直ぐ目の前まで近付き、その牙でアルトを貫きにかかった。
だがアルトは自分の真横に剣を振り下ろす。すると勢い良く鉄格子がヴァルバロイの頭に向かって落ちた。グシャリと嫌な音を立ててヴァルバロイは鉄格子に挟まれる。
「俺が逃げると思ったか?」
動けないヴァルバロイにアルトは告げる。ヴァルバロイは応える様に、途切れ途切れの唸りを上げた。
「悪いが頭に来てるのはお前だけじゃないんだ。今度はこっちの番だ」
アルトはゆっくりとヴァルバロイの横へと抜け、無防備な横っ腹へ向けて剣の切っ先を構えた。そしてそのまま剣をヴァルバロイの横っ腹へと突き立てる。
「アインス!!!」
叫ぶ様に詠唱し、アルトは剣を足の方へと斬り進めて行く。獣の様な唸り声を上げてアルトは一気に剣を斬り抜こうとする。だが剣は途中で耐えきれなくなり、根元からボキンと折れてしまった。
ヴァルバロイの腹部から黒い液体と、臓物のような物が流れ出る。
「ヴォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォ……」
長い長い断末魔をヴァルバロイは上げる。苦しみに伸ばしたヴァルバロイの腕が音を立てて地に落ちる。それきりヴァルバロイは全く動かなくなった。
今度こそ完全に殺しきったヴァルバロイを横目に柄だけになった剣を投げ捨てると、アルトは通路の方へと歩み出す。
アルトの歩むその先で、一人の人物が座り込んでいた。
「見事だ……」
その側まで近付くなりヘレーネは立ち膝状態でアルトに告げる。
「あなたこそ。……よく生きてましたね」
「ギリギリで魔術を発動させた。とはいえこの様だ。君が居なければ死んでいた。助けに来ておいてこの様ではな」
ははは……とヘレーネは乾いた笑い声を上げる。余裕そうではないが、それでも命に別状はなさそうだった。
そんなヘレーネに安堵の息をついてからアルトは手を差し伸べる。
「面目無いな」
今度は笑わずにヘレーネは告げる。そのままアルトの手を借りて立ち上がった。
「お互い様ですよ。俺だってあなたが来なきゃ死んでた」
「そうか。なら互いに相手へ貸しを作った事にしよう」
「そうしてください」
そんな軽いやり取りをしながら、アルトとヘレーナはヴァルバロイが開けた穴から、館外から出る。
薄暗い室内から、陽の下に照らされて目を細めるアルト。やがて目が慣れて来ると、辺りに誰も居ない事にアルトは気が付く。
恐らくアルやニーナ、それと先程の兵士達でこの場から市民を避難させたのだろう。
避難は完了した。もう中に逃げ遅れた人間は居ない。そう認識し、安心した時だった。
「おい!!」
ヘレーナが声を上げる。だがアルトにはもうどうする事も出来ない。気が付けばアルトは地面に背中から倒れ込み、青々とした空を見上げていた。雲一つ無い快晴がどんどんと暗くなって行き、アルトはそのまま意識を失った。
[解説]ヴァルバロイ
クトゥルフの血を生きたまま体内に入れてしまった、眷属の中でも特異な種。実際にクトゥルフの血を生きたままの人間が受けると強烈な拒絶反応により、高熱と激痛を全身に伴う。大抵の場合は生きていようとその段階で死に至るため、ヴァルバロイになる個体は非常に希である。
またヴァルバロイに決まった姿は無く、変異元の手足に欠損などがあるとその姿も大きく異なる。そのため極少数の目撃証言があっても整合性が取れない、更には目撃者が極限状態からの生還で殆ど発狂状態であるなど確証が無い事からほぼ噂程度の存在でしかなかった。