希望への退路
「ニーナァァァ!!」
アルは叫びながら窓から光の射す廊下を駆けていた。
壁側には高そうな絵が立ち並んでいるが、一部にはここでの戦闘で破れたり、血を浴びてしまっていたりした。
しかし、こんな荒様にも関わらずクトゥルフの眷属の亡骸は愚か人間の死体すらも見当たらない。
(生きててくれ!)
しかし今のアルにそんな事を気にする余裕はなかった。とにかくニーナに生きていて欲しい、その思いで一杯だった。
と、その時だった。
「!!ッ」
目の前の角に差し当たり、何かの気配を感じてアルは足を止めた。腰に差したロングソードの柄に手を掛けながら、アルはその角を睨み付ける。
すると…
「ん、人?」
その角からは、甲冑姿の自警団の男が現れた。男は剣を腰にしまいながら甲冑の顔当てを上げる。
「君、ここは危ない!早く戻るんだ!」
アルは顔を振って答えた。
「仲間が残されてるんだ!早く行かないと……」
「でもここは危険だ!こっちからあの化け物が――」
突如男は口を止め、表情を固めた。そして開きっぱなしのその口からは血が溢れ出す。
恐る恐るアルは目を下に下げる。そこには男の腹を鎧ごと貫いた剣の切っ先がアルの目の前まで突き出していて、その血塗られた切っ先の先からは血が滴り落ちていた。
アルは、一歩、二歩とその場から下がる。男は立つ力を失いそのまま力無く床に倒れ込んだ。そして男が倒れたその先に、あの黒い塊を背負った怪物が笑みを浮かべる様な狂気に満ちた顔でアルを見ていた。
「あ……あぁ……」
倒れた男の体から血が溢れ、床を真紅に染め上げる。
恐怖に足が竦む。人が死んだ、今喋っていた奴が、簡単に死んでしまった。
(俺もこうなるのか……?)
こんなに呆気なく終わってしまうのだろうか? そう考えると、心の底から恐怖が込み上げて来る。しかし、
(ニーナが……。ニーナがこの先に居るかもしれないんだ!)
もとからこの化け物達と交戦するのは覚悟の上だ。ニーナの為にも、生きて帰る為にも、ここを越えなければならない。
「アァァァァ!!」
叫び声を上げ、アルは剣を振り上げ化け物に突っ込む。
そして上段に構えた剣を、化け物の左肩目掛けて振り下ろした。
剣は化け物の肩を腹まで切り裂き、黒い体液が切り口から噴き出す。
「ア″ァァ……」
だが何事もなかったかのように奇妙な唸り声を上げながら、化け物は右手に持ったロングソードを振り上げる。
浅い。人間なら即死の一撃が、全く効いている気配が無い。
「チッ……」
小さく舌打ちをしながら剣を引き抜き、アルはその場から後ろに下がった。
化け物の一撃が、ギリギリ、アルの目の前で空を切る。
(これで駄目なら徹底的にやるまでだ!)
アルはそのまま更に化け物から距離を置いた。
そして
「粉塵よ……」
アルは詠唱を開始した。
「我が切っ先に宿れ!」
肘を引き、切っ先を化け物に向け、突きを放つ体勢を取りアルは化け物に突っ込んだ。そしてその切っ先は化け物の首に突き刺さる。更に。
「弾けろ!!」
次の瞬間、轟音と共に化け物の首が光り、弾け飛んだ。
胸から上が消し飛んだ化け物の体は、そのまま力無く膝をつき倒れた。
「やった……」
アルは倒れたまま動かない眷属を見つめ続ける。眷属は一切動く様子はない。
「やった、やった!」
グッと拳を握り、生き延びた喜びを噛み締めていた。しかし
「ア″ァァ」
すぐ側であの唸り声がした。
まさか……?とアルは後ろを向く。
「……嘘だろ」
嫌な汗が全身からこみ上げた。今倒した眷属のすぐ先で別の眷属が、剣を振り上げながら立っている。
やられる。そう思うより先に、手が動いた
瞬時に剣を前に出して構える。防御の体勢に入った瞬間、化け物の剣が振り降ろされた。
「うわッ…!!」
アルはその衝撃に剣を手放し、吹き飛ばされ先程の自警団の男の横に倒れた。
「グッ……!」
すぐに起き上がろうと上体を起こす。だが剣が無い、武器が無い。
「!!」
眷属は既にアルを突き刺そうと切っ先を向けて来ていた。
駄目だ……ここで死ぬ……そう思い掛けた時だった。
突如、何かが割れる音が響き渡る。次の瞬間アルの視界はガラス片と砕けた窓枠で一杯になった。
そして砕けて光を乱反射するガラスの中、一人の人物が、アルの頭上を通り過ぎて行った。
ガラス片から両腕で顔を庇いながらも、アルはその姿をはっきりと確認した。
(アルト!?)
来るはずが無い……何かの見間違えだ。
そう思いながら、アルは落ちて来るガラス片を凌いだ。そして、もう一度その姿を確認した。
彼の足下には頭にナイフが刺さり、息絶えた眷属の亡骸が転がっていた。下から上に向かってアルはその姿を見上げる。
黒く青みがかった髪、そして眠たそうなその瞳がアルを見下ろしていた。
「運が良かったな」
間違い無い。それは正真正銘アルトだった。
(生きてたか……)
そう思いながらアルトは眷属からナイフを抜き、黒い体液の付着したそれを袖の中に戻す。
少しだけ心が軽くなった気がしたアルトだったが、今の状況で喜んでなど居られないと気を引き締める。何より、まだ目的は半分も満たしていない。
「来てくれたのか?」
そのつもりで来た……なんて調子の良い事は言えないアルト。一度見捨ててしまった事に少なからず罪悪感を感じ、何も口にする事が出来ない。
「また無視か?」
「……悪かったな」
ただアルに対する言葉がなかったアルト。 無視するつもりは全くなかった。
「助けに来てくれたんだよな?」
「……どうだかな」
アルはガラスを払い立ち上がる。すると何を思ったのか突然顔を赤くしながら照れ隠しの様に頬を指先て掻きながら言った。
「その……あれぐらいどうって事なかったけどよ、その……」
(何だ?)
不可解に思いながらも、アルトは黙って聞いた。
「ありがとう……って一応言っておいてやるよ」
「……………………」
しばらく黙り込んでからアルトは返す。
「気持ち悪い」
「なっ!?」
その言葉にアルは仰け反る。 が、すぐに言い返した。
「何だと!?一応礼を言ってやったんだぞ!感謝しろよ!!」
いつも通り騒ぎだすアル。この方がコイツらしい。
と、その時だった。
「ア"ァァ……」
唸り声に2人は反応し、廊下の突き当たりを見る。 そこに眷属の姿は無いものの、近くに居る事は確かだった。
「立ち話をしてる場合じゃないな」
アルトは振り返り、後ろの廊下を見た。
「来い!」
アルトは素早くその場から引こうとする。
「待てよ!!」
しかしアルの声に足を止め振り返る。訴えかける彼の瞳から、次に出る言葉は予測出来た。
「ニーナは!!」
アルトは直ぐにでもその場から引く為に、逃げ出す体制のまま答えた。
「そっちに居たとして、突っ込んで突破出来る訳無いだろ。それに逃げるつもりならそこの窓から外に出ればいい」
さっさと来い、とアルトは再び走り出す。
「ち、ちょっと待てって!!」
アルも足下に転がった自分の剣を拾いアルトの後を追い掛けた。
「なあ、そっちに行ってニーナが居るのか!?」
追い付いたアルが尋ねる。
「向こうには書庫があるだろ。俺はニーナに、お前が居る絵画展示場に行くように言ったんだ」
だが、と窓際の通路を左に曲がりアルトは続ける。
「俺は書庫のすぐ隣にある階段を上って絵画展示場に行った。だが、その道中にはニーナは居なかった。思い返して見ればニーナは階段を使わずに通路の方を進んでたんだ。あいつはそもそも絵画展示場の場所を知らなかったからな。つまりニーナは二階じゃなくて一階の、それも書庫よりもホール側に居る確率が高い事になる」
「あいつ等に追われて書庫に居る可能性はないのか?」
「居たとして、まず生き残れないだろ。向こう側は真っ直ぐ通路になってるから隠れる場所がない。途中に部屋が幾つかあるが、備品の盗難防止の為に鍵が掛けてある」
それに、ニーナの行った方向にはレンが向かった筈だ。もしかしたら保護されているのではないか、とアルトは淡い期待を抱いてもいた。
「それと、何でお前は窓から入って来たんだ?」
「その方が侵入が楽だったからだ。あいつ等、窓を割って入ったり出たりしないから窓側の侵入が楽だったんだ」
しかし、それは同時にある事を確かにする。 あの怪物が外から侵入して来ないという事は、つまり内側……この館内から湧いて出て来ている事になる。
何故美術館になど来たのだろう。 何か向こう側にとって有利になる事でもあるのだろうかと考えるも、何一つ利点が思い浮かばない。
「!!」
っと、その時だった。中央通路にさしかかった所で、2人は足を止める。丁度十字路になったその場所で正面と左右から怪物の群がゆっくりと向かって来ている。
「くそ……」
呟きながらアルトは後ろへ下がる。しかし
「ア"ァァァ……」
後ろからも奴らの鳴き声が聞こえた。
「挟まれたか……」
アルトは周りを見渡すがドアも無く逃げ込む場所はない。
「じゃあやることは一つだろ!!」
アルはそう言いながら剣を前に突き出す。
(手段は選んでられないな……)
アルトも逃げる事を諦め、袖からナイフを取り出した。
「行くぞ、着いて来い!」
そう言って、アルトは敵が合流する前に正面の通路へ向かって踏み込んだ。遅れてアルも着いて行く。一気に敵との距離を縮めたアルトはそのスピードを殺す事無く、怪物の懐まで潜り込むとそのまま眷属の顔面に左手のナイフを突き立てる。
眷属の顔からは黒い体液が溢れ出し、噴水の様に体液を出すがアルトは更に顔面へもう一度ナイフを突き刺した。
一番前に居た眷属はゆっくりと倒れるがその前にアルトは更に踏み込み、その後ろに続いていた眷属を鼻先から額に駆けてナイフで深々と切り裂いた。
「食らえ!!」
遅れて来たアルが怪物の顔面に剣の切っ先を突き刺す。同時に怪物の首から上が粉々に砕け散った。
その瞬間アルトは倒した眷属のすぐ隣に扉を見る。
「こっちだ!」
アルに合図しながらアルトは扉を開いた。
アルが先に部屋に飛び込み、その後にアルトも続いて部屋へ飛び込んでドアを閉める。
と、同時に閉めたドアに何本もの剣が突き刺さった。
アルトは今にも壊され、開きそうなドアを見ながらそのドアから離れる。
「どうするんだよ!!」
「他の出口を探せ!!」
自分で言いながらアルトも部屋を見渡した。部屋には、破れた絵や壊れた椅子やテーブルが散乱している。この部屋はあまり使われていないのか窓から光が射していなくても埃が宙を舞っているのがわかった。
と、アルトは今居る場所から部屋の左隅に扉がある事に気付く。
急いでアルトはその扉に近付いた。しかし、ガンッ!と扉を貫く音と共に銀色の光がアルトの右頬を掠めた。
「くっ……」
頬にチクリと痛みを感じながらアルトはそこから下がる。扉の向こうから、剣が突き刺さって来ていた。すると、二本、三本と扉に突き刺さる剣の数が増えて行く。
他の出口を探そうとアルトは後ろを向いた。
しかし後ろには焦る表情を浮かべたアル以外には壊れた美術品と無機質な白い壁しかない。
バンッ!と一際大きな音がした後何かが崩れ落ちる音が部屋中に響いた。音のした方を見れば扉が破壊されぞろぞろと眷属が入り込んで来る。と、同時にアルトの目の前のドアも、ノブが破壊されてドアが開く。そちら側からも押し寄せる様に怪物達が雪崩れ込んで来た。
アルトは急いでその場から下がり、アルの隣に立つ形で壁際まで下がる。
「……どうするんだよ」
いつもの威勢も感じられない程に小さな声でアルは聞いてくる。
「……どうにもならない」
逃げ場は完全に絶たれた。2人は怪物が押し寄せてくるのに合わせ後ろに下がるが、遂に壁を背にして立ち止まってしまった。
「くそ……ここまでなのかよ……!!」
半場諦めているのか、アルは無念と言いたげに顔をしかめる。
(こんな所で終わるのか……)
意外にも呆気ない。そんな事を思い、完全に諦めようとしたその時だった。
「うわっ!?」
「アル!!……!?」
突然アルが横で声を上げたと思うと、そこに彼の姿はなかった。
と、同時にアルトは見た。目に見える程濃い埃が壁に吸い込まれているのを。
(何かある?)
アルトは怪物達の方を向きながらも壁を伝い、埃が吸い込まれている所まで少しずつ移動した。
「?」
するとそこには壁がある筈が手は壁を通り抜けた。それどころか背にした壁から、ひんやりと冷たい空気を感じた。
(まさか!?)
なりふり構ってられなかった。眷属達はもう目と鼻の先。アルトは一か八か、どこに繋がっているかも分からない壁に向かって背中から飛び込んだ。
アルトは強く目を閉じる。
次に何が起こるかなんて予想出来ないという恐怖から、自然と体が勝手にそうさせた。地に足がつきしばらくしてからアルトは再び目を開く。
するとアルトの目の前には本当に目を開けているのか疑ってしまう程の暗闇が広がっていた。自分の手を出して目の前に翳せば確かに暗闇の中にその輪郭が薄く見える。
と、
「イテテテテ!!早く退けよっ!!」
悲鳴が足下から聞こえて来る。見ればそこにはアルが倒れていて、アルトは彼の手を踏んでいた。悪い、と一言告げながらアルトは足を退ける。
と、同時にアルトはある事に気が付いた。
アルの居る方には、薄くだが光があった。何処からか射すその光は幻想的に青くこの部屋を照らしている。
そのままアルから光の強くなる方へと目を向けた行く。
すると……
「ニーナ!!」
気付いてアルトが言う前に、アルが叫んだ。
部屋の一部に一際青い光が強い場所がある。
その強い光を浴びながら、ニーナはその光の下に倒れていた。その光の源は、彼女の丁度頭上にあり、その光が部屋を薄暗く照らしているのだと分かった。
「ニーナ……!!」
もう一度叫んでアルはニーナの方へ駆けて行く。
今は部屋の事ではなくニーナの様態だったと思い、アルトも二人の下へ行った。
「ニーナ……ニーナ!!」
ニーナの肩を抱き上げ訴えかける様にアルは彼女の名を叫んだ。
三人だけの薄暗い空間にしばらくアルの声が響いていると……
「…………うっ」
ゆっくりと閉じていた瞼が開き、薄い青色の瞳が覗いた。
「先輩……?」
薄く開いたその目で、ニーナはアルを見上げていた。
「ああ。どこも痛くないか?」
優しい口調でアルは尋ねる。
「はい。あの……先輩」
「どうした?」
青い光でよくは分かり辛いが、ニーナの顔が突然少し赤くなっていた。
「あの……離してもらえませんか?」
するとアルの方は完全に顔を真っ赤にさせながら、悪い!とニーナを離した。
この時、ああなる程とアルトは思った。
アルがニーナを助けたいとやけに必死になっていたのも、ニーナが絡むとむきになるのも、どうもそういう事だったらしい。
ニーナは自分の足で立ち上がり周りを見渡す。そうしてから、ニーナは二人を見て尋ねた。
「あの……もう一人ブリテンの生徒が居ませんでした?」
なんの事か分からず首を傾げて返すアル。対して思い当たる節のあるアルトはニーナに聞き返した。
「どんな生徒だ」
「銀色の髪の女の子で、背は私と同じぐらいです」
「……見ていない。少なくともこの場所には居ない」
「そう……ですか」
そう視線を落とすニーナ。
「なあ、その生徒がどうかしたのか?」
俯くニーナに対してアルが聞いた。
「途中まで一緒に逃げていたんです。ここは危険だから安全な場所まで行こうってあの子に言われて。そしたらあの黒い化け物に出会って……」
眷属の姿を思い出したのだろう。ニーナは両肩を抱いてその場に崩れ落ちる。そんなニーナを床に倒れる前にアルが支えた。しかし震えながらもニーナはその先を話す。
「私怖くて何も出来なくなって、そしたらあの子が目を瞑っていれば大丈夫だって。私は彼女に言われるまま目を閉じて、手を引かれていました。そして気が付いたら気を失っていて……」
間の抜けた話……とアルトは思いかけるが、状況が状況だけに無理もない。むしろここまで生き延びているのだから大したものだ。
「なあ、この場所ってあいつ等が来ないんだよな? ならここで待てば助けがくるんじゃねぇか?」
アルの問いにニーナは答えない。代わりの答えをアルトはアルに返す。
「残念だが、美術館の外周に魔術師が何人も配置されているのを見てきた。恐らく館ごと眷属を潰すつもりだろう。となると、あまり待ってくれそうにない」
「ふざけんな! まだ俺達が居るだろ!!」
「外には俺達三人以外の人間が何万と居るんだぞ」
アルトのその言葉にアルは怯む。そしてしばらく言葉を失い、歯を食い縛っていたアルだったが、「クソ!!」と声を上げてこの場所からの出口を探し始めた。
一息つき、アルトも出口を探そうとする。しかし辺りを見渡そうとしたアルトの目に、膝を抱えて踞るニーナが映る。
今度はため息を着いてからアルトはニーナに尋ねる。
「ニーナ、今度はなんだ」
ニーナは顔を上げる。珍しくニーナは涙を流していなかった。
「私、また何も出来なかったのかって思ってしまって……」
生気の無い無気力な表情で、ニーナは告げる。
「アルト先輩。私を置いていって下さい」
ずっと真っ直ぐ、壁の向こうを見るようにしながらニーナは続ける。
「こんな状況です、私は二人の足手まといにしかなりません。分かりきってるんです、私がもしここを出られたとしても、またあの化け物を前にして何も出来なくなるって。私はそんな自分が何よりも嫌いなんです。もうここで終わってもいい程に」
しばらく黙り込むアルト。アルの方も出口を探すのに夢中でニーナの様子には気付いていない様子だった。
「帰りたくないのか。生きていたいと思わないのか」
それを尋ねると、ニーナは俯く。しかし涙は流す事なくニーナは口を開く。
「先輩は“ハーフエルフ”って知ってますか?」
「いいや。正直、エルフ族の事もよく知らない」
「実は私ハーフエルフなんです。父親が人間で、母親がエルフ族で。ハーフエルフ族はエルフ族に“成り損ない”として忌み嫌われるんです。だから父親は、母が身籠ってすぐエルフの血を汚したとしてエルフ族に処刑されてしまいました。私はずっと周りからゴミと同じ扱いを受けて生きて来ました。でも母さんだけはそんな私を愛してくれた。一人の人として扱ってくれた。けれど、私にはそれが何よりも辛かった。周りからどんなに蔑まされるよりも、一日中殴られ蹴られるよりも、私のせいで悲しむ母さんを見ているのが辛かった。だったらいっそ、ここで死んだ方が良い……」
「そうかもな」
「そうですよ……」
意外にもアルトはニーナに肯定で返す。ニーナも励ましの言葉など期待していなかった為に、生返事だけをアルトに返した。
「俺もお前と同じ考えだった。お前を助けるより、アルを連れて逃げた方が良いと判断して一度二人でホールまで逃げ切ったんだ」
「えっ……?」
その言葉に流石のニーナも動揺した。
「だがアルがごねてな。勝手にお前を探しに館内に戻った。おまけにルイス先輩にまでお前とアルを探しに行けと言われてな。お陰様で今ここにいる」
「そんな……私のせいで」
ニーナは瞼に涙を浮かべる。が、いつものように泣き出す前にアルトは告げた。
「俺はお前を見捨てた人間だ。今更助けに来たなんて恩着せがましく言う気はないが、今俺達がここに居るのはアルのお陰だ。あいつの為にも、ここで死んだ方が良いなんて言わないでやってくれ」
ニーナの頬を涙が伝う。そのままニーナは顔を伏せて震える声で振り絞るように言った。
「すみません……私先輩達の気持ちも分からないで、勝手な事言って。本当に……本当にすみませんでした」
その言葉を聞いてやっと一段落ついたかとアルトは息をついてからニーナに告げる。
「俺には謝らなくていい。申し訳ないって思うならアルに伝えてくれ。それと……こんな事を言える立場じゃないが、お前を見付けた時少し安心した」
最後にそう告げてアルトも部屋を見て回る。暗闇に目が慣れて来て部屋を一望する。この部屋はニーナが居た光の強い場所を中心に、円形状に壁に囲まれた形になっていた。全周を壁が覆っていたが、ここに来た時同様恐らく何処かに抜け道がある。なればとアルトは壁に沿って手をつき、歩き出す。対するアルは壁をベタベタと触ってどうにか出口を探している様子だったが、それとは別にアルトは自ら部屋の出口を探す。
しばらくしてアルトは自分の手が壁を貫通する箇所を発見する。だが、それと同時にアルトは壁の向こう側から低い唸り声を耳にする。それは最初にこの部屋に入った入り口だろう。ここから出たのでは間違いなく眷属達に串刺しにされるだろう。
(こっちからは出られない。……クソ、この部屋はそもそも何処なんだ?)
「アルト!」
と、その時偶然その出口を見付けたのだろう。アルが手を振ってアルトに合図する。
アルトも地図を細かく畳んでからアルの方へと小走りに駆け寄る。
「アルト、この先に扉がある」
アルトはそれを聞いて壁を探る。すると本来壁がある先に手が伸びて行き、その先で何かに突き当たる。そのまま更にその壁を探って行くと、ドアノブに手がかった。しかしドアノブは捻っても開く事はない。恐らく地図にあった通り鍵が掛けてある。
「……この先は大通りだ」
「なら、ここから出れば窓まで辿り着けるって事か!?」
「ああ。確かにこの先には窓まで続く通路もある。その場合、大通りを書物庫側に戻るか、ホール手前の通路に入る必要がある。上手く行けばそのまま窓まで辿り着けるだろうが……」
当然眷属に道を塞がれている可能性もある。そうなると、最悪の場合ホールまで大通りから戻らなくてはならなくなる。ましてや、ここを出た瞬間眷属に囲まれているなんてのも十分に考えられる。だが……
「考えても仕方ない。ここから逃げるしかないんだ」
アルトの言葉にニーナとアルの二人は強く頷いて返す。
「じゃあ……行くぞ!」
その声と共にアルトは壁の向こうに垂直蹴りを放つ。壁の向こう側で木が砕ける音がし、アルトはしっかりと扉を破壊する手応えを感じると、直ぐ様壁の先へと躍り出た。
通路に出てすぐアルトは身構える。幸い眷属達は手の届く範囲にはいない。しかし、書物庫への通路の方では壁のように眷属達が群がっていた。残念ながら一番近い出口は塞がれてしまっている。
となれば残る出口はホール側のみとなる。
「走れ! ホール側だ!!」
後を追って壁から出てきた二人に告げ、アルトは走り出す。
目指すは目の前の通路の角。そこを越えれば皆でここから出られる。
「ヴァァァァ!」
くぐもった声と共に眷属が3体立ち塞がった。
「邪魔だ!!」
アルトは袖からナイフを抜き放つ。アルトのナイフは真ん中に居た眷属の眉間に命中するも倒れない。立て続けに今度は2本のナイフを抜き放つ。ナイフは全く同じ所に命中し、真ん中の眷属は力なく膝をつく。
アルトは続けてナイフを抜こうとするが、左袖の指が空を切る。ナイフの残量が少ない。
しかしアルトは右袖に残ったナイフを左端の眷属へと抜き放った。
ナイフは寸分違う事なく眉間へと突き刺さる。しかし眷属は止まらない。
アルトは腰の剣に手をかける。そのまま眷属との距離が肉薄する。
眷属は剣を上段に構えた。だがアルトの踏み込みの方が眷属よりも遥かに早い。
アルトは剣を鞘から抜き、両手で柄を握ってすれ違い様に眷属の腹を引き裂いた。
斬るというよりも叩き付けるように繰り出されたその斬撃は眷属を九の字に曲げて後方へと吹き飛ばす。
尚も、最後に残った眷属がアルトに向かって襲いかかろうとする。
しかしアルトは腹から内臓をさらけ出して吹き飛ぶ眷属の顔面から先程投げたナイフを強引に引き抜いた。
そのまま迫り来る眷属の顔面に引き抜いたナイフを叩き付ける様に突き刺す。
その衝撃で眷属は剣を手放して膝をつく。更にアルトはその眷属の脳天に両手で持った剣を振り下ろした。
鈍い音と共に眷属の頭は真っ二つになり、力なく後ろに崩れ落ちる。
道は開けた、後は角まで突き進むだけ。
アルトは振り返って二人を見る。二人はアルトに丁度追い付き、それに合わせて再びアルトも走り始めた。
ホールへ続く道に眷属の姿は見えない。そのままアルト達は角へと差し掛かろうとする。
(このまま行けば……!)
後は角を越えて窓まで突き進むだけ。後少し。
しかしその時だった。
「!!」
角を曲がった直後、目の前には剣を上段に構えた眷属の姿があった。回避はまだ間に合う。アルトは咄嗟に避けようと回避の体制に入る。が、
「ひっ!?」
すぐ背後でする短い悲鳴。マズイと思うのとアルトが剣を構えて強引に防御体勢に入るのは同時だった。
鈍い音と共に火花が散る。アルトの体は宙を浮き、そのままその後ろに居たニーナ共々吹き飛ばされる。
二人は吹き飛ばされた衝撃で床を転げ回る。
が、アルトはすぐに体勢を立て直して立ち上がる。すると追い討ちを掛けようとしていた眷属をつばぜり合いに持ち込み、アルが食い止めていた。
しかし相手は異形の生物。力で人間が対抗出来る訳が無い。アルの剣は直ぐ様押し返されて諸刃が眼前にまで迫っていた。が、次の瞬間には眷属は顔面に裂傷を負い、後ろへ仰け反る。眷属はそのまま後ろへと倒れていく。
アルトは倒れ行く眷属の向こうに更に二体の眷属が居るのを見る。
窓に続く通路は決して狭くはない。眷属二体程度なら相手取って簡単にすり抜けられる……はずだった。
アルトは気が付く、ニーナが立ち上がって来ない事に。振り返ればそこには倒れたまま気を失ったニーナが居た。そして、後ろの大群はもう目と鼻の先まで近づいている。もはや迷ってはいられない。
アルトは気絶したニーナを背負った。
「窓は駄目だ!ニーナを抱えたまま突破は出来ない!このままホールに向かうぞ!」
「クソ、結局一番遠い道かよ!」
二人は再び走り出す。アルトはニーナを背負った分走るのが遅くなるが、それでもアルには着いて行けた。
残り50メートルはある道のり。しかし目の前の道には不自然な程に眷属達が居ない。先程のように不意打ちがあるかもしれない。それでももうこの道しか無いのだから二人は信じて進む事しか出来ない。
息を切らして二人は駆ける。ホールまで残り20メートルという所。二人は大通りを抜け、ホールの前にある開けた吹き抜けの空間に出たと、その時だった。
吹き抜けの脇に、軽装の鎧姿の男が居るのにアルトは気が付く。
男が何やら壁に手を突っ込んでいる様子だった。最初は何をしているのか分からなかったアルト。だがハッとしてその行動の意味を理解した。
「待ってくれ!!」
アルトは叫ぶが間に合わない。男は壁のレバーを引く。すると、男のすぐ頭上にあった鉄格子が勢い良く降り始める。轟音と共に降下した鉄格子により、アルト達の退路は完全に塞がれてしまった。
「クソ! クソ! クソ!!」
アルは叫びながら鉄格子を叩く。この吹き抜けからホールを塞ぐ程巨大な鉄格子は、格子を金網で挟む形になっており、到底叩いた程度では当然びくともしない上、向こう側に手を伸ばす事すら出来ない。が、その音で軽装の男がアルト達に気が付いた。
「な!? まだ生存者が!?」
「開けてくれ! まだ間に合うだろ!!」
叫ぶアル。しかし男は苦虫を噛み潰したような顔をして踵を返す。
「すまない!」
「待てよ! おい! おい!!」
アルは何度も呼び掛けるが、男はその姿が見えなくなるまで一度たりとも振り返る事はなかった。
「クソオォォォォォォォォォ!!!」
膝をつき、床を叩き付けながらアルは悲痛な叫びを上げる。
一連の流れをアルトは黙って見ていた。そしてアルトには去って行った男の気持ちが良く分かった。それは自分がニーナにした行為と同じだったのだ。目の前に救えたかもしれない相手が居た、しかしそれでも確実に救える命を救う事を選んだのだ。その決断を下す苦しみを、アルトは知っていた。
アルトは振り返る。先程全力で走った為、眷属達との距離は大きく開いていた。しかしこの吹き抜けまでたどり着くのはそう遠くない。
アルトはそっとニーナを降ろす。ニーナは目を瞑ったまま動き出す気配が無い。
「どうしてだよ……後少しなのに、何でこんな事になるんだよ」
潤んだ声でアルが呟く。アルトは見てみぬふりをしたが、俯くアルの手元には幾つも雫が落ちていた。
「俺のせいで……。仲間を二人も巻き込んでおいて、終わるなんて……」
「勝手に決め付けるな」
丸くなっていたアルにアルトは告げる。
「まだ終わってなんかないだろ。出口はもうすぐそこなんだ」
アルトは振り返り、元来た道に剣を向ける。
「その鉄格子に穴を開けてそこのレバーを上げる」
「……そんなのどうやって?」
涙で濡らした顔を上げ、アルは尋ねる。
「俺が時間を稼ぐ。お前の魔術でその鉄格子に穴をあけろ」
「……出来なかったら?」
「俺はこんな所で死ぬ気はない。あの眷属達を突破して脱出する。お前はニーナを連れて着いて来い」
「そんなの出来る訳……」
「ああ、殆ど不可能だ。だからお前にかかってる。俺には魔術が使えない、お前には俺に出来ない事が出来るだろ」
一瞬だけアルトはアルを一瞥して告げる。
「信じてるぞ」
口にして、アルトは走り出す。その先には、数え切れない程の眷属達が居る。
アルは胸の内から熱い物が込み上げるのを感じていた。その背中は、いつかアルが見たものだった。例えどんな状況だろうと諦めない。立ち上がる限り、その意識が途絶えようとも目的の達成を諦めない不屈の闘志。アルが憧れた背中がそこにはあった。
「くっ!!」
気合いを入れてアルは立ち上がる。
(あいつが信じてくれたんだ……!)
アルは両手で剣を握り、集中する。
同時にアルの背では金属音と肉を引き裂く音が響き始めた。
▼▼▼
「ア"ァァァァ!!」
叫び声と共にアルトは剣を振り抜く。
アルトの一撃は目の前の眷属の肩口に入り、黒い体液が滲み出す。が、それは到底致命傷にはなり得ない。アルトの一撃をものともしない眷属は怯む事なくアルトへ剣を振り下ろす。
アルトは舌打ちをしながら一歩下がる。アルトは剣術の心得が無い。それこそ学園の教務でも習いはしたが、どうにも自分に剣術の才能が無いのを感じていた。だからアルトは剣の間合いを図れず、安定して致命傷を入れる事が出来なかった。それこそ力任せに剣を振るうだけでその攻撃の殆どが打撃と大して変わりがない。故にアルトは剣を使う事を好まないのだ。それに加え……
「ハァ!!」
掛け声と共にアルトは更に一撃を入れる。しかし、アルトは先程よりも更に手応えを失うのを手で感じた。
高い金属音で確信する。剣が折れた。そう、アルトの攻撃力に武器が耐えきれないのだ。アルトはそれを感じてから片刃で短く肉厚な剣を扱って居たのだが、それでも眷属の攻撃が常軌を異している為に刀身にガタが来ていたのだろう。
(まだだ!)
しかしそれでもアルトは諦めない。根元から折れた剣を目の前の眷属に投げつける。そのままアルトは眷属の顔面に向かって右拳を叩き付けた。
眷属はその顔を陥没させて後ろへと転がり落ちる。
だがその後ろから、ぞろぞろと波のように眷属が押し寄せる。
「来い!!」
両拳を打ち付け、アルトは叫ぶ。呼応するように眷属達はくぐもった声で剣を振り上げてアルトへと迫った。
▼▼▼
「“集いしは輝きの根源……”」
一方アルは詠唱し、剣に集中していた。生き残る為に、アルトの期待に応える為に、そして仲間を助ける為に。
溢れる思いに後押しされる様に、アルの中からマナが剣へと流れる。
「“紅蓮と顕現し、触れる物全てを灰塵と化せ!!”」
アルは剣にの切っ先を鉄格子へと向けて、突き出した。そして……
「弾けろぉっ!!!」
次の瞬間アルの目の前が輝きに覆われ、
爆音が吹き抜け全体を巡る。閃光が駆け抜け、アルの剣は砕け散り、術者のアルもその場から大きく吹き飛ばされた。
「?!」
眷属達と対峙していたアルトもその爆音を耳にし、そして爆風を受けて体勢を一瞬崩した。だが、その一瞬が致命的だった。
爆音に気を取られたアルトと違い、眷属達は一切反応しない。そのまま上段に構えた剣をアルト目掛けて振り下ろした。
しかし咄嗟の回避で後ろに跳び、アルトはそれを回避する。だが、回避した先には剣を横に構えた眷属が居た。
(しまっ──)
思考する間もなく、眷属の剣をアルトは胸に受ける。高い金属音と共に、アルトは大きく後ろに吹き飛ばされ、床を転げ回った。
数度床を転がった後、眷属は倒れ付して動かないアルトの周りを囲んでいく。
そして眷属達は皆一斉に、ゆっくりと手にした剣を持ち上げた。
▼▼▼
「うっ……」
自分の魔術で一瞬意識を手放していたアルだったが、すぐに起き上がり鉄格子を見る。
「……!!」
だがアルは目の前の光景に愕然とする。
鉄格子は魔術を放った場所が黒く煤けて金網が焼き切れていた。だが肝心の格子の部分は僅かに歪んだ程度で腕を通すのがやっとだった。
「何でだよ……」
目の前の光景をアルは認められない。アルは覚束ない足取りで鉄格子へと向かう。
「何でなんだよ!」
叫びながらアルはすがりつく様に鉄格子を握り締める。
「クソ……クソ!」
声に震えを抑える事が出来ない。アルは格子の向こうのレバーへと手を伸ばすが、格子からレバーまでは2メートル程の距離がある。到底届く距離ではない。
「うわぁぁぁぁぁぁ!!」
悲痛な叫びを上げ、アルは鉄格子を広げようとするが、先程の魔術の反動でアルの握力はもう残っていなかった。
と、その時金属音が吹き抜けに木霊した。
恐る恐るアルは後ろを見る。するとアルの目には床を転げ回るアルトの姿があった。
そのまま倒れて動かないアルトを眷属か囲んでいく。
「あ……あぁ」
アルは最早立っていられなかった。鉄格子を背にしたまま、膝の力が抜けてずるずるとその場に崩れ落ちていく。
そしてゆっくりと持ち上げられていく眷属達の剣。
耐えきれなくなり、アルは耳を塞いで目を閉じた。
しかしアルは暗闇の中でその音を聞いてしまう。無情に響くその幾重にも重なった金属音は、両腕に力を入れられないアルの両手を通り抜け、アルの耳へと入ってしまった。
▼▼▼
暗い。真っ暗な中、アルトは自分の全身に力が入らないのを感じていた。
死んだのだろうか? そう疑問に思うアルト。だがそう思ってすぐ、アルトは目の前に一人の人物が居るのに気付く。
見たことの無い女性だった。髪は黒く、小顔の丸い顔で、若干鋭い目付きをしている。会った事はないが、何故か何処かで会った気のする不思議な感覚をアルトは覚える。
【大丈夫】
ふと、脳内に直接語りかけるような声で女性は語りかける。
そして女性はアルトの頬へと手を伸ばした。
女性の手が自分に触れた瞬間、全身の感覚が戻るのをアルトは感じる。
【大丈夫。あなたは私が守るから】
女性がアルトから手を引く。何故だかそれを名残惜しく感じるアルトだったが、女性は告げる。
【目覚めて。あなたには約束があるでしょう?】
その言葉にアルトはハッとする。そして、完全に自分の体の感覚を取り戻してアルトは叫んだ。
「アインス!!」
剣が振り下ろされる寸前、眷属達の目の前からアルトの姿が消える。
アルトは眷属から5メートル程離れた位置に退避し、攻撃を受けた箇所を触れる。
そして成る程とアルトは納得した。アルトは自分が制服の下にナイフを仕込んだベストを着込んでいたのを思い出した。
制服は割けているが、その下のベストから先には刃が通っていない。
更にアルトは異変に気が付く。先程は咄嗟に両足の魔術を発動したのだが、その反動を全く感じていなかった。むしろ体の疲労が消えたかのように全身が軽い。
スッと息を吐き、アルトは集中する。
そんなアルトに再び眷属が迫り来る。一番前の一体が、アルトに対して剣を振り下ろす。
「ア"?」
だが、そこに残ったのはアルトの着ていた制服だけだった。首を傾げる眷属。しかしその眷属の眉間には深々とナイフが刺さっていた。眷属は首を傾げたまま、前のめりになって倒れ込む。
消えたアルトは自ら眷属達の中心に居た。そして……
「アインス!」
唸るように詠唱し、アルトは右こぶしを手近な一体に叩き込む。その眷属は顔面から夥しい量の体液を撒き散らしながらまさしく消えるように後ろへと吹き飛ぶ。
更にその勢いのまま、眷属達が将棋倒しに倒れていく。
眷属すらも即死の一撃を見舞ったアルトだが、その攻撃は自身へのダメージにもなっていた。
アルトの右手首は根元からブラリと垂れ下がり、人差し指から小指までの四指が有らぬ方向を向いていた。常人なら気を失う程の激痛を感じるだろう。しかしアルトはそのまま更に左拳を握った。そして
「アインス!」
先程同様の一撃を目の前の眷属に突き上げるように叩き込む。
アルトの一撃を腹部に受けた眷属は体が九の字に折れ曲がったまま20メートルはある吹き抜けの天井まで舞い上がり、そのまま落下先の眷属を巻き込んで絶命する。
「ア"アァ!!」
怒りにも似た声を上げながら眷属はアルトに襲いかかろうとする。しかし、アルトはぐちゃぐちゃに骨折した右手を一瞬振る。するとバキバキと音を立てながらアルトの右手は一瞬で完治した。
「アインス!」
完治した右手で襲いかかろうとした眷属に右フックを放つ。眷属は攻撃体勢に転ずる間もなく空中で三回転程し、着地と同時にゴロゴロと床に転げ落ちた。
圧倒的なアルトの攻撃に、周りの眷属達の勢いが止まる。
「どうした。来い」
両の拳を握りながらアルトは挑発する。アルトの挑発に乗る様に、再び眷属達は動き出した。
▼▼▼
夢を見ていた。それは遠い過去の夢。
少女はいつも泣いていた。同年代の少年少女達に囲まれながら、時に罵倒され、時に蹴られ、少女には涙を流す以外何も出来なかった。
「成り損ないの穢れた血め!」
心ないその言葉が、彼らの決まり文句になっていた。エルフ族は他よりも優れ、そして温厚な性格だと一般に言われている。しかし反面、自らよりも力を持つ者を酷く嫌う。エルフ族は劣等感に酷く敏感な種族だった。
加えて、一般にエルフ族と言われれば、それは人間の間では“ハイエルフ”と呼ばれる種を指す。しかし、実際にはエルフ族には二種あり、ハイエルフと“ドワーフ”と呼ばれる種が存在していた。
どちらもエルフ族に違いはない。だが、ハイエルフとドワーフは、身体能力こそ変わらないものの、魔術の適正に大きな差が生じている。故にドワーフ族は常にハイエルフ族に劣等感を感じ、その行き場の無い感情を自らよりも弱い存在にぶつけていた。
だからこそ、彼女はそんなドワーフ族の格好の的だったのだ。完全な人間でもなく、血を引いていようとも、その身体能力も魔術適正も一切受け継げないハーフエルフと呼ばれた彼女はいつでも半端な存在として全ての者に忌み嫌われていた。……一人を除いて。
「あなたは素敵な女の子よ。だからそんなに泣かないで」
そう言って、いつも少女の母親はボロボロになった彼女を抱き締めていた。
「みんなが私の事要らない子だって言うの。……私はナリゾコナイだって。お母さん、私産まれて来ちゃ駄目だったの?」
少女の問いにその母は、優しい笑顔のまま穏やかに言った。
「例え世界中のみんながあなたを嫌いでも、お母さんはあなたを愛しているわ」
笑顔でそう告げる母。しかし少女は知った。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
夜少女が寝静まった後、毎晩母が涙を流している事を。
少女は耳を塞いだ。そして目を瞑り、踞りながら涙を流した。しかし一度脳裏に刻んだその声は、耳を塞いでも防ぐ事は出来ない。
(ごめんね……ごめんねお母さん)
母はいつだって、少女の前では気丈に振る舞っていた。しかし本当は少女と同じようにずっと苦しみ続けていた。今までずっと母に支えられ続けて来た事を少女は知る。だが自分は何一つ母の力になれない。自分という呪われた存在が、全て大好きな母の悲しみになっているのだと思うと、この上ない悲しみとなって少女に募って行った。
そして16歳になる頃、少女は家を出た。いつか母を支えられるような人間になろうと決意した。
しかし、少女は変わる事が出来なかった。強く在りたいと思う程、自分が理想から遠退いて行くのを感じた。その度に自分がどうしようもない存在なのだと思い知らされた。だがそれでも、母のある言葉が少女を繋ぎ止めていた。
「ニーナ。諦めないで、頑張って。あなたが頑張る限り、私も頑張るから」
「うっ……」
呻き声を漏らしながらニーナは目覚める。
一瞬状況が全く見えなかった。だがニーナはだんだんと最後の状況を思い出しながら体を起こす。
案の定、自分が皆の足を引っ張ってしまったのをニーナは自覚する。やはり自分には生かされる価値など無いのだと。
「……ごめん」
ふとした声にニーナは顔を上げる。
視線の先には、先程見ていた夢の中の自分と酷似した姿のアルがいた。
耳を塞ぎ、踞り、譫言の様に謝罪の言葉を呟いていた。
ニーナは自分の胸が締め付けられるのを感じた。耐えきれなくなり、そのまま包み込むようにアルを抱き締める。
「私の方こそごめんなさい。私がいなければこんな事には……」
その言葉に、胸の中のアルが震えるのをニーナは感じた。
「違う……。俺がもっと強ければこんな事にはならなかった。ごめん……ごめん」
苦しみ上擦ったアルの声に、ニーナの胸は更に締め付けられる。母の時と変わらない。自分という存在がまたこんな状況を生んでしまっていた。やはり自分はあの時……そう考えが過った瞬間、ニーナの脳裏に先程の情景が浮かんだ。
【今俺達がここに居るのはアルのお陰だ。あいつの為にも、ここで死んだ方が良いなんて言わないでやってくれ】
その言葉でニーナはハッとした。そして目が覚めるように気が付いた。自分がずっとずっと間違い続けていた事に。
「ありがとうございます」
ふと、ニーナはアルに告げた。するとアルの震えが止まる。そんなアルにニーナは続けて告げる。
「アルト先輩から聞きました。アルさんが来てくれたから、私を見付ける事が出来たんだって。アルさんが来てくれたから、今も私はこうしてアルさんと話せるんです」
「だけど……」
「だけどは無しです。もう謝らないでください。アルさんが居てくれたから、アルさんがアルさんだから、私は生きる事が出来ているんです」
アルは泣き晴らした顔を上げる。そして……
「ありがとう……ありがとうニーナ」
「はい」
笑顔で返すニーナ。そしてアルを離し、立ち上がってから眷属の方を向く。
「今度は私の番です」
ニーナは胸元から指揮棒程度の長さのは杖を取り出して、突き出すように構えた。
「アルさん達が私を守ってくれた分、私も皆を守ります」
「待てニーナ……お前にもしもの事があったら」
「私にもやらせてください。私もアルさんやアルト先輩と並びたい。いつまでも、誰かに隠れていたくない」
「ニーナ……」
「それに……この胸にある言葉を伝えるまで、私は死にません」
スッと息を吐き、ニーナは集中する。
「……待っててお母さん」
一言呟いた後。ニーナは言葉を紡ぐ。
「“静寂に聞こえしは零へと至る警鐘。耳を傾け膝をつけ”」
ニーナのスカートが揺れ始める。そして辺りの温度が若干下がるのをアルは肌で感じる。
アルの先程の魔術は完全詠唱の魔術だったのだが、それでも大気の流れを変える程ではない。ニーナの魔術は、先程アルが放った物を越えていた。しかしアルは気が付く。ニーナはまだ杖に集中していた。まだ詠唱に更に詠唱を重ねようとしている。
「“我は全てを止める者。今零を越え、極致へと至る”」
ニーナの辺りから冷気が立ち込め始め、杖を横に構える。
「二重……詠唱」
アルは自らの体が震えるのを感じる。それは気温の急激な低下が招いたものではない。ニーナの力に圧倒されていた。あの名門と言われたバーミリオンの学園にすら、二重詠唱が出来る者などそうはいない。それは魔術師の一種の目標ともいえるものなのだから。
だがアルは更に驚愕する。
「“歩みを終え、綻び、微塵と成り果て無に帰れ”」
三重詠唱。
空気が煌めき、ニーナの辺りの周りが光輝く。
思わずアルは見とれてしまう。練り上げたマナで揺らぐニーナの髪、光を乱反射して輝く大気。アルは胸の内から込み上げる物を感じる。そして確信する。この魔術なら行ける。ニーナならやれる。
「アルさん!」
詠唱を終えてニーナが叫ぶ。アルはハッとして眷属達の方を見た。
そして三度驚く。死んでしまったと思ったアルトが未だ眷属達と対峙していた。
アルは理解した。今自分に出来る事を、自分にしか出来ない事を。
大きく息を吸いそして……
「アルトオオオォォォォォォォォォォォォ!!!!」
▼▼▼
「!?」
吹き抜けにアルの声が木霊す。突然の怒号にまた不意を突かれそうになるアルト。
しかし、今度は注意を反らす事なく一瞬だけアルの方を見る。
するとアルの側に詠唱を終えたニーナの姿を見た。
そして一瞬でその状況を判断したアルトは低く身を落とす。
「アインス!」
眷属達の中からアルトの姿が消える。
「やれ!」
一瞬で二人の元にたどり着き、アルトは告げる。
ニーナは頷き返した。
「凍てつけ!」
掛け声と共にニーナは杖を振るう。
次の瞬間アルト達の視界は真っ白に塗り固められた。光にも似たそれにアルトの目が眩む。
その白一色に塗り固められた世界に目が慣れて来ると、眷属達が消え去っていた。
その中には、よく見れば眷属達が手にしていた武器だけが床に散乱している。
「す……すげえ」
思わずといった様子でアルが呟く。
アルトも同様の感想を覚えた。あれだけ居た眷属が一体も存在していない。果ての見えぬ程に続く通路が、遥か向こうまで白くなっている。まるで世界を塗り替えたようだった。これが魔術。
「うっ……」
ニーナの体が大きく揺れる。
「ニーナ!」
そんなニーナをアルが寄り添って支えた。
「ありがとうございます、アルさん……」
ニーナは疲労が色濃く出ていた。もうあの魔術は撃てないだろう。それでもあれだけの魔術を放っておきながら意識を失わないのだから大したものだ。
「やったのか?」
ふとアルがアルトに問う。
「外に出るまでわからないだろ」
アルトはそう返してから口元を僅かに緩めて続けた。
「帰るぞ」
「ああ!」
「はい」
アルトに告げられ二人は先に歩むアルトに続く。
真っ白に塗り変えられた通路だったが、角を曲がればそこは先程通った通路と変わらなかった。
そのまま窓へと続く通路は、先程のように眷属が居るなんて事はない。恐らくその通路の先にもう眷属はいない。
なのでアルトは二人に先に進むよう告げた。二人はそれを了承して通路を先に進む。アルトも二人が窓側に続く奥の角に差し掛かる所で二人に続こうとした。と、その時だった。
「?」
ふとアルトは足を止める。アルトはその時何かを感じ取った。それは微かな物音だったが、先程の不意打ちもありアルトはそれを無視出来ない。
「どうしたんだ? 早く出ようぜ?」
そうアルが告げる。
「いや、先に行ってくれ。俺も続く」
そうアルトも警戒しつつアル達に続こうとした。しかしその時だった。
ドンッ!!と一際大きな音が奥から聞こえて来る。音と共に美術館を揺るがす程の振動が起き、アルトはバランスを崩してその場に倒れそうになるのをなんとか堪える。
アルやニーナも同様に揺れによって体を揺らす。
「なんだ!?」
狼狽えるアル。対してアルトは冷静に、恐らく美術館の攻撃が始まったのだと思った。だが立て続けに音が起き、その音が近付いて来ているのを感じて外からの攻撃ではないのに気付いて声を上げた。
「窓まで走れ!! 早く!!」
だが、それはアルトの声と同時に訪れた。突如通路の壁が砕け散り、粉塵が辺りを包む。
アルトは思わず両腕で顔を守った。やがて煙が晴れると、アルトの目の前には黒い何かが居た。
それは、アルトの今まで見たどんな生物よりも歪で、名状しがたい生物だった。
全長5メートルはある細長い胴体に長い手足。恐らく頭であろうそれに目はなく、鋭利に尖った長い牙がズラリと前に向かって無数に並んでいる。
「ヴオォォォォォォォォォォォォ!!!!」
巨大なその生物は、アルト達の鼓膜を破壊せんとばかりの絶叫を上げた。
[解説]エルフ
エルフ族は身体能力や魔術適正で人を遥かに凌駕し、その恵まれた環境からエルフ族は全ての種族は我々が保護し、統制すべきという思考を持っている。その為エルフ族は他の種族に対し基本的に温厚で社交的である。 しかしその思考は支配欲から来るもので、自らより劣った種族に柔和な反面、劣等感を感じる事に酷く敏感で自らより優れた種族に対してその種を絶やそうとする危険な思考を持ち合わせている。
またエルフ族は属にエルフと称されるハイエルフと、魔術の適正が低いドワーフと呼ばれる二種に別けられている。ハイエルフは魔眼や飛行能力など高い魔術適正を有しているが、ドワーフは身体能力以外人間とさして変わらない。故にドワーフは常にハイエルフに劣等感を感じ、本来温厚である筈のエルフ族ではあるが、基本的に気性が荒くならくれものになる者が多い。
[解説]ハーフエルフ
人とエルフの間に希に生まれる子供。エルフの血を引くものの、エルフが本来受ける恩恵は一切受ける事はない。加えてエルフ族はその生殖能力の低さもあり、血の繋がりを強く意識しているため人間と子供を作る事を酷く嫌う。そのためハーフエルフは親子共に全てのエルフ族に嫌悪の対象とされてしまう傾向が強い。
[多重詠唱]
通常、魔術は詠唱が長くなる程その影響力が大きくなる。しかし魔術のコントロールに長けた者は詠唱を短くする事が出来、またその詠唱を二重三重に重ねる事で魔術の規模を本来長時間を要する完全詠唱の魔術を短時間で放つ事が可能となる。しかし詠唱を多重に重ねるには並大抵ならぬ魔術精度と、常人ならざる集中力、更にそれに耐えうる精神力を必要とし、ごく僅かな人間にしか体得出来ない魔術の秘技となっている。