アルトの戦い
そして翌日。
朝日が闘技場一面を照らし、集まった生徒たちのざわめきが空へ舞い上がっていた。ここは模擬戦のたびに使われる訓練用の闘技場だ。
雲ひとつない快晴。絶好の模擬戦日和、普通ならそう思えるはずだが。
(……最悪だ)
アルトは制服の襟を引っ張り、不快そうに眉を寄せた。昨日の訓練でずぶ濡れになった制服は結局乾かず、そのまま湿気を含んだ状態で身につけている。
ただでさえ追い詰められた状況で迎える模擬戦だというのに、身体に張りつくこの不快感が苛立ちに拍車をかけていた。
「よう、アルト!」
背後から呼びかけられ、アルトは振り返った。そこにはいつも通り余裕の笑みを浮かべたディオが立っている。
さすが優等生。模擬戦当日だというのに焦りの色はみじんもない。
「今日も朝から眠そうだな?」
「眠くない」
短く返した声には、無意識に苛立ちが滲んでいた。
「あー、悪い悪い。今日は冗談はナシだったか」
ディオは手をひらひらと振って一歩だけ下がる。
アルトは息を吐き、わずかに肩を落とした。
「……悪い。今日は余裕がないんだ」
「はは、まあそう言うなって。お互い頑張ろうぜ?」
「ああ」
「全員、揃ってるかー?」
だるそうな声とともに現れたのは、担任であり教官でもあるラウドだった。
「まあ揃ってるとは思うが、一応点呼とるぞー」
気の抜けた調子で名簿を開き、出席を取り始める。
「教官、今日もあのテンションか……。なら、いつも通りにいけるかもな」
「……だといいが」
アルトはぼそりと返す。過去の模擬戦では、ラウドが適度に手加減してくれていたからこそ勝ててきた。しかし今日は――胸の奥に拭えない不安があった。
「レ――」
「はい!」
名前を呼ばれる前に返事をしたアルトに、ラウドはわずかに目を細めて睨みつけたが、それ以上は何も言わなかった。
ただ、名簿に目を落としたその口元が、不気味に歪んでいた。
(……嫌な予感しかしない)
名簿確認が終わると、ラウドは全体に向き直り声を張る。
「よし。模擬戦を開始する。名簿一番のやつは広場へ。それ以外は観客席へ行け」
言われるまま、生徒たちは闘技場の周囲に設けられた観客席へ移動していく。地面より二、三メートルほど高い位置にある安全地帯だ。
「ぐあっ!」
鈍い叫びとともに砂煙が舞い上がった。十五番目の生徒が、ラウド教官の放った魔術によって地面を転がる。
「くっ……」
必死に立ち上がろうとするも、その額に冷たい切っ先が突きつけられた。
「終了だ」
ラウドは淡々と告げる。
「立ち回りがまだ甘い。もっと相手との間合いを意識しろ。実戦なら魔術を使われた時点で終わりだ。慎重になりすぎて主導権を渡すな」
剣先を下ろし、生徒に下がるよう促す。生徒は吹き飛ばされたときに落とした剣を拾い上げ、悔しさを押し隠すように一礼して闘技場を後にした。
この模擬戦は五段階で評価される。最高評価が5。平均的な成績は3から4。2以下は不合格に近いとされる。
まれに「評価0」という話も聞くが、それは試験を放棄した者にしか与えられない――最近になってようやく知った事実だ。
「次、ディオ・ルーバニア」
名が呼ばれると、闘技場の入り口からディオが姿を現した。
クラスでも一、二を争う実力者。その名は伊達ではなく、生徒たちのざわめきが自然と止む。皆の視線が、期待を込めて二人の戦いへと注がれた。
「さて――どれくらい成長したか、楽しみだな」
ラウド教官がディオに視線を向ける。その声音に、先ほどまでの気の抜けた雰囲気はもうない。
静まり返った闘技場に、二人の気配だけが張り詰めていく。
「本気出さないでくださいよ、教官?」
ディオは口元に笑みを浮かべつつ、腰のロングソードを抜いた。学園から支給されている標準武装――細い接合部を持つ長身の剣が陽光を反射する。
「それは、お前の出来次第だ」
ラウドは短く答えると、無言で剣を構えた。二人の間に、不穏な静寂が流れ込む。
まだ開始の号令すらかかっていないというのに、場の緊張はすでに臨界点に達しようとしていた。
「――試験開始!」
ラウドの号令と同時に、二人は地を蹴った。
金属が激しくぶつかり合う甲高い音が闘技場に響く。火花が散り、剣圧が空気を震わせる。
だが、力の差は歴然だった。ディオは一合ごとに押し込まれ、後方へと下がらされる。
「来いよ」
挑発めいた声が飛ぶ。しかしディオは動じない。剣を構え直し、慎重に摺り足で間合いを探りながら、ラウドを中心に弧を描くように動き始めた。
するとラウドもディオに向かって攻める事は無く、剣を前に構えたままディオと向き合い回り込ませない。
ラウドはディオに隙を見せなかった。
が、この戦い方はディオが得意とするものだ。拮抗状態を維持し、ジリジリと相手を精神的に追い詰める。そして狡猾に相手の攻撃を待ち、勝ち筋を見出だす。
だがそれを知っていようとも、ラウドは気にせず動き出し、ディオへと剣を振り下ろす。
対するディオはラウドの踏み込みに合わせて半歩下がり、剣を横に構えて振り上げた。
するとラウドの踏み込みは僅かに浅くなり、結果ラウドの剣は剣先でディオの剣の腹に当たる。
ディオはラウドの剣閃を自ら持つ剣の切先の方へと受け流し、そのまま剣を背中に回す様な形で剣を構えた。が、
「甘い!」
ラウドは振り抜いた勢いのまま、体重を乗せた肩でディオを押し潰そうと突進する。
だがディオはわずかに笑みを浮かべ、さらに半歩下がった。突進は空を切る。
「――《我、命ずる!》」
剣を振り下ろすと同時に、ディオが詠唱を開始する。
ラウドは即座に剣を立てて受け止め、紙一重で攻撃を防ぎながら後方へ飛び退いた。
「《我は形無き刃――》」
ラウドも続いて詠唱に入る。だが遅い。
「《紫電よ、来たれ!》」
詠唱が完了した瞬間、ディオの剣に紫電が奔った。空気が裂け、雷の光が刃を走る。
パチンッ――鋭い破裂音とともに、閃光が闘技場を白で塗りつぶす。
観客席の誰もが反射的に目を閉じた。遅れて衝撃波が襲い、砂塵が吹き飛ぶ。
数秒後、風が止み、光が収まる。世界が静けさを取り戻した。
そこには――
「うお……目がチカチカする……」
光が収まった先にいたのは無傷のラウドだった。
ディオだけではない。観客席の生徒たちも息を呑む。ディオの渾身の雷撃は、ラウドに届いてすらいなかった。
ディオの剣は、まるで見えない壁に阻まれたかのように空中で止まっている。
「その顔はなんだ? 俺が黒焦げになって倒れている姿でも見たかったか?」
平然とした様子でラウドが言う。挑発とも冗談ともつかない口調だ。
ディオはわずかに苦笑し、「いいえ」とだけ答えて剣を下ろした。
「それにしてもよくやった。状況判断も冷静だったし、剣の扱いも悪くない。まだ荒いところはあるが……現時点では十分に実力を示した。評価は満点だ」
その言葉にディオの表情がはっきりと明るくなった。
「試験終了。戻っていいぞ」
「ありがとうございます!」
はっきりとした声で礼を述べ、ディオは闘技場を下がった。
「おう、アルト! 先に満点もらってきたぞ!」
観客席へ戻ってきたディオが、いつもの調子で声をかけてくる。
「……良かったな」
アルトは視線を動かさずに短く返した。まだ結果の出ていない自分としては、素直に祝福する気にもなれない。
「冗談だって。気にするな。お前だって必ず満点もらえるさ」
「……だといいがな」
言葉とは裏腹に、アルトの胸は落ち着かなかった。緊張で思考が狭くなり、闘技場で続く試合にも集中できない。
ラウドと別の生徒の戦いが続いているはずなのに、視界の端で揺れるその光景はどこか遠くに見えた。
「なんだ? 怒ってるのか?」
ディオの問いに、アルトは首を横に振った。
「……違う。緊張してるんだ」
去年はこんなことはなかった。もっと冷静に構えられていたし、試験前にここまで心が波立つこともなかった。
ではなぜ今は――こんなにも胸がざわついているのか。
嫌な予感があるからか? 確かにそれはある。だが、それだけでは説明できない何かが胸の底に重く沈んでいる。
理由ははっきりしない。ただ、一つだけ分かっている。このまま戦うのは、良くない。
「珍しいな。お前でも緊張なんてするんだ」
半ば冗談めかしたディオの言葉に、アルトは短く頷いた。
「まあ、お前のことだ。いざ戦いになれば忘れるさ」
その言葉に返す余裕もなく、アルトは無言のまま視線を落とす。次の瞬間――
ガンッ!
鋭い金属音が闘技場に響いた。剣が弾かれ、地面を転がる。
「試験終了。……まあ七十点ってところだな」
ラウドが剣を下ろしながら告げる。そしてそのまま、観客席にいるアルトを真っ直ぐに見据えた。
――次はお前だ。
言葉はなくとも、視線がそう告げていた。
そしてさらに数十分が過ぎ――ラウドと目が合ってから六人の試験が終わった。
次は、アルトの番だった。
「頑張ってこいよ」
背後からディオの声が飛ぶ。しかしアルトの耳には届かない。鼓動の音がすべてをかき消していた。
階段を降りながら、アルトは考えていた。――なぜ自分は、ここまで追い詰められたように感じているのか。
嫌な予感は確かにある。だが、それだけではない。もっと別の感情が、この胸のざわつきの根底にある気がする。
考えれば考えるほど分からなくなる。振り払おうとしても意識はそこへ引き戻され、緊張と苛立ちばかりが募っていく。
(……このままじゃ集中して戦えない)
心の中でつぶやきながら階段を降りきり、突き当たりを曲がる。そこから先は屋根が途切れ、眩しい光の差す通路の先に闘技場が広がって見えた。
まだ試験の真っ最中、そう思っていた。
闘技場の入口から、一人の少女がふらふらと歩いてくるのが見えた。大粒の涙を手の甲で拭いながら、俯いたままこちらへ向かってくる。
涙は止まらないらしく、何度拭っても次々と零れ落ちていた。すすり泣きというにはあまりに苦しげで、抑えた嗚咽が喉の奥から漏れている。
少女はアルトに気づかぬまま、すれ違いざまに肩を震わせながら通り過ぎた。
きっと酷い結果だったのだろう。
ラウドは情けをかけるタイプではない。おそらく遠回しな言い方などせず、はっきりと退学を告げたに違いない。
(俺も、下手をすれば――)
脳裏に最悪の結末がよぎる。だが、頭を振って振り払った。そんなわけにはいかない。負けるわけにはいかない。
「アルト、何をしている! 早く来い!」
ラウドの声が飛ぶ。
アルトはその場で一度、深く息を吸い、吐いた。乱れた心を整えるように。
(……絶対に負けない)
その言葉を胸の底で噛み締めながら、闘技場の土を踏み締めた。
「遅いぞ。何をしていた」
「……すみません」
ラウドはあきれたように息をつき――それでも口元に、意味ありげな笑みを浮かべていた。
(……さっきから何なんだ、その不気味な笑みは)
「喜べ、アルト。今回はお前のためにスペシャルゲストを呼んである」
「は?」
耳慣れない言葉に、アルトは思わず首を傾げた。
ラウドは返答も待たず、闘技場の入口に向かって片手を上げる。
「おーい、入ってこい」
気の抜けた声で呼びかけると、その暗がりから一つの影が現れた。
やがて光の下に姿を現したその人物は――巨大だった。おそらく身長は一九〇センチを超える。鍛え上げられた体躯は重圧をまとい、鋭い眼光は見る者を射抜くように冷たい。茶髪を無造作に撫でつけたオールバックは、その威圧感をさらに強調していた。
「喜べ、アルト。今回はお前のためにスペシャルゲストを呼んである」
「は?」
耳慣れない言葉に、アルトは思わず首を傾げた。
ラウドは返答も待たず、闘技場の入口に向かって片手を上げる。
「おーい、入ってこい」
気の抜けた声で呼びかけると、その暗がりから一つの影が現れた。
やがて光の下に姿を現したその人物は――巨大だった。おそらく身長は一九〇センチを超える。鍛え上げられた体躯は重圧をまとい、鋭い眼光は見る者を射抜くように冷たい。茶髪を無造作に撫でつけたオールバックは、その威圧感をさらに強調していた。
「随分と待たされました。そこにいるのが、俺の相手で間違いないんですよね?」
低い声だった。獣が唸るような圧のある声、一方その口調には丁寧さが感じられた。
(……相手? 俺の?)
アルトは眉をひそめる。模擬戦に“特別ゲスト”など聞いていない。
その時、観客席の方からざわめきが走った。
「……おい、あれって……」
誰かの小さな声が、静まりつつあった闘技場に染み込むように広がっていく。
「“スティル・フィルハート”じゃないか?」
スティル・フィルハート。その名を、アルトは聞いたことがあった。いや、この学園にいる者なら誰でも一度は耳にしているはずだ。
学園内でも“最強”の名を冠するにふさわしい魔術師の一人。 そしてフィルハートの名は、隣国を統べる王家を示す。
つまり彼は、スティル・フィルハートは王族。フィルハート王家の第一王子。
「やる気なさそうな顔だろ?」
ラウドが肩をすくめながら言う。
スティルは一礼し、低くよく通る声で答えた。
「わざわざ許可証まで提示したと伺いましたが……本当に私が戦う相手はこの生徒で間違いないのですか?」
「不服か?」
「いえ。ただ私が出向くほどの相手なのかと、少々疑問に思っただけです」
「まあ、見た目はただの腑抜けにしか見えないだろうな」
ラウドは軽く笑いながら肩をすくめた。しかし、その声色には続きがあると言わんばかりの含みがあった。
「だが内面まで腑抜けかどうかは、実際に確かめてみるんだな。そのままの態度で戦ってみろ。開始早々、度肝を抜かれるぞ」
「私が負けると?」
スティルが眉ひとつ動かさず問う。
「いいや。十中八九、お前が勝つだろうよ」
ラウドは即答する。
「だが重要なのはそこじゃない。問題はあいつが“お前相手にどこまでやれるか”だ」
「私が負けると?」
「いいや。十中八九、お前が勝つだろう」
ラウドは迷いなく言い切る。
「だが問題はそこじゃない。──アイツが、お前相手にどこまでやれるかだ」
「もし仮に、私が圧勝した場合は?」
スティルの声は低く落ちた。ラウドはその問いに、愉快そうに口の端を吊り上げて応える。
「そうなるなら俺が相手をした」
闘技場の空気がわずかに震えた。
それは、この場にいる生徒たちの誰もが予想しなかった展開だった。スティルと戦うだけでも異常事態だというのに、その先をラウドは見据えている。
これは通常の試験と違う。
アルトは遅れてそのことに気づく。いや、最初から感じていた違和感がようやく形を成し始めた。
ラウドは今日、最初から何か仕掛けるつもりだった。
だからこそ、妙な笑みを浮かべていたのだ。
そして今、それが現実になろうとしている。
「アルト、準備は良いな?」
ラウドが問うと、アルトは闘技場の中央へ歩み出たまま視線を逸らさずに答えた。
「……ちょっと待ってくださいよ。俺の相手、あのスティル・フィルハートなんですか?」
「ああ。棄権するか?」
その問いかけは淡々としていた。しかし、そこに込められた意図は重い。ラウドはただ選択を促したのではない、覚悟を確認したのだ。
アルトの瞼がわずかに伏せられ、次の瞬間にはその眼差しが鋭く細められる。
「……いいえ。やります」
短く、迷いのない返答だった。その声音には虚勢も怯えも滲まない。ただ事実を受け入れ、前へ進む者の確かな意志が宿っていた。
ラウドは満足げに頷く。
「スティル、お前も準備出来てるか?」
名を呼ばれた青年は、無言で頷いた。その双眸は獲物を捉えた猛禽のように静かに光り、動くべき瞬間を待っている。
「よし。両者、抜刀」
ラウドの指示に従い、スティルは腰のロングソードをゆっくりと抜いた。その動作に無駄は一切なく、鍛え抜かれた肉体と技量を隠そうともしない洗練があった。
一方でアルトは剣に手をかけなかった。代わりに静かに息を吐き、腰を落として低い構えを取る。
(……構えない?)
スティルの眉がわずかに動く。確かにアルトの腰には剣がある。だが抜かない。それは剣士としての基本を踏み外した愚行にも見えるが彼の目はそうは告げていなかった。
警戒が、自然と深まる。
わずかな体の傾き、靴底が砂を噛む音、視線の揺らぎ、それらすべてを観察する者へと、アルトは変貌していた。ただの無謀ではない。戦う意思の具現。それがこの構えだった。
間合いは十数メートル。砂埃の匂いを運ぶ風が、静けさの中で二人の間を撫でて抜けた。
ラウドが右腕を高く掲げる。
その場に立つ誰もが息を呑む。緊張は張り詰め、研ぎ澄まされた糸のように細く鋭く、今にも切れそうなほどだった。
「用意――」
その声は落ち着いていたが、確かな熱を孕んでいた。アルトは微かに膝を揺らし、右足を半歩後ろへ引く。爆発的な踏み出しの起点。
対するスティルもまた、重心をわずかに下げ、剣の切っ先を揺らさずアルトへと向けた。
互いの視線が交差する。
そして、ラウドの腕が振り下ろされた。
「始め!!」
開始の合図と同時に、低く構えていたアルトの体が地面を蹴り、一気に駆け出した。砂を裂く鋭い踏み込み。十数メートルあった距離が一瞬で縮まる。
(速いな……。だが!)
スティルも即座に反応し、構えた剣を振り上げ、迎え撃つように振り下ろした。その一撃は重く鋭く、無駄のない完璧な軌道を描いてアルトへと迫る。
音さえも置き去りにするその剣閃に常人であれば反応すらできずに斬り伏せられるだろう。だがその剣速を前に、アルトは止まらなかった。速度を殺さず、そのまま真正面から踏み込む。
(この程度か……こいつは?)
勝利を確信し、スティルは剣を振り下ろす。しかし――
(待て……)
アルトは剣の軌道に対して無反応ではなかった。寸前、身体をわずかに逸らし、振り下ろされた剣を紙一重で外す。さらにその動きに合わせるように、いつの間にか右手に握っていたナイフを振りかぶった。
(しまった!)
スティルは慌てて大きく飛び退き、距離を取ろうとする。
(まあ、やっぱりそうなるよな……)
観客席のラウドは静かに呟く。それは、スティルが最もやってはならない選択を取ったことを理解していたからだった。
「!?」
スティルの瞳がわずかに揺れる。彼の後退に合わせ、アルトも同時に踏み込んでいた。まるでその動きを知っていたかのような追撃。
距離は一気に詰まり、ほとんど身体が触れ合うほどの至近距離となる。
スティルは剣を構え直そうとする。しかし、この距離では剣は長すぎる。まともに扱えない。
焦りを抑え、スティルは素早く思考を切り替える。
(この距離では剣が振れない。なら……)
地面に足が着いた瞬間、スティルは肩を突き出し、体重を乗せた突進に切り替えた。
が、その動きすらもアルトは読んでいた。踏み込んできた瞬間、アルトは同時に後方へ跳び退く。しかし、それもまたスティルの想定の範囲内だった。
スティルは突進の勢いを殺さず、腰の位置に構えていた剣を横薙ぎに振り抜く。一撃で決めにきた渾身の斬撃。速度も、威力も段違い。鍛え抜かれた王族の剣筋――一国の第一王子として積み重ねてきたものの重みが宿る一撃を放とうとする。
だがその直前、スティルの視界に映ったものがあった。
(!!)
閃く影――アルトのナイフだ。
いつ放たれたのか、スティルでさえ見切れなかった。アルトは斬撃の発生と同時に、わずかな肘の弾きだけでナイフを投げていた。
一瞬の判断、最小の動き――踏み込み、回避、攻撃、そのすべてを同時に成立させる異質な戦い方。
スティルは体勢を崩しながらも、紙一重でナイフを避けた。ナイフはその頬をかすめ、血を一筋走らせて砂へと突き刺さる。
「ぐっ!」
次の瞬間、スティルは片膝をつき、剣を一文字に構えていた。目の前で振り下ろされたナイフの一撃を受け止めたのだ。
甲高い金属音が闘技場に鳴り響き、押し込む力が砂を削る。だが拮抗したのは一瞬だけだった。体重差、筋力差は圧倒的。アルトはスティルの剣圧に弾かれ、後方へと吹き飛ばされた。
「はぁ……」
スティルはわずかに息を吐く。体勢を立て直すその動きには、先ほどまでにはなかった警戒が宿っていた。
(何だコイツの戦い方は……)
それは命を賭けた戦術だった。技でも戦術でもなく、本能に近い危険な戦い方。しかしそこには確かな意志があった。
スティルは内心でその戦い方を言い表す。
(捨て身……いや、まるで自分の命を試しているかのようだ。なるほど……)
スティルはわずかに視線を横へ流し、脇に立つラウドを見る。
(だからラウド教官は、俺にこの男を当てたのか)
ようやく納得したように小さく息を吐く。
(とはいえ、本気でやらなければ勝てないか……)
初手で負けなかったのは、運の要素も大きかった。侮ったつもりはない。だが、予想を上回る相手だったことは事実。
スティルは立ち上がり、改めてロングソードを構える。
(ここで仕留める……!)
静かに息を吸い込み、詠唱を開始した。
「我が身は――」
その一言を耳にした瞬間、アルトの体が動く。
アルトはわずかにタイミングをずらし、左右の手に持つ二本のナイフを同時に投擲した。狙いは正確にスティルの急所へと向かう。
「アインス!」
続けざまに短い詠唱。アルトの足元が一瞬だけ光をまとい――次の瞬間、その姿が掻き消えた。
観客席から小さなざわめきが起こる。
(旧式強化魔法――!)
スティルはすぐに理解する。その魔術は数百年前に使われていた普及型強化魔術。しかしその不安定さから現在では廃れ、実戦で使われることはまずない。
だが――不意に使われれば、防ぐことは難しい。
視界の正面には二つの影。先に投げられたナイフが迫ってくる。ならば――
(背後!)
スティルは詠唱の続きよりも迎撃を優先し、反射的に振り返りながら剣を振り上げた。そこには、予想通りナイフを構えたアルトの姿が迫っていた。
(終わりだ!)
スティルはタイミングを合わせ、剣を振り下ろす。回避は不可能。斬撃は先に届く。勝負は決した――誰もがそう思った。
だが次の瞬間、スティルは愕然とする。
振り下ろした剣は強すぎる遠心に乗っており、途中で止めることができない。その刃の先にあるのはアルトの頭部。
しかし――斬撃は届かなかった。
アルトは振り下ろされた剣の側面を、手甲の甲で弾いた。
その動きはあまりにも鮮やかで、一瞬何が起きたのか理解できなかった。
手の甲で弾かれたスティルの剣は軌道を逸れ、砂地へと深く突き立つ。
(……惜しいな、お前は)
スティルの口元に、わずかに笑みが浮かぶ。
「――鉄壁の城塞」
スティルが詠唱を終えると同時に、闘技場全体に高く鋭い金属音が響き渡った。
会場は静寂に包まれた。響いていた剣戟の余韻さえ掻き消えるほどの静けさ。
アルトはナイフを構えたまま、動きを止めていた。その視線は手の中の武器に向けられている。
右手を開くと、そこには――柄だけを残して折れたナイフがあった。刃は根元からへし折れ、使い物にならない。
その光景を確認し、ラウドが声を上げる。
「そこまで!!」
鋭い号令と共に、張り詰めていた緊張の糸が切れた。スティルはすっと姿勢を正し、ゆっくりと剣を納める。
アルトも武器を下ろし、呼吸を整えるように短く息を吐いた。
スティルはアルトから静かに視線を外し、闘技場の端に立つラウドへ歩み寄った。
「どうだ。随分と肝を冷やしただろ?」
上機嫌な様子で笑うラウドに、スティルは小さく息を吐きながら言う。
「事前に幾らか話をしても良かったのでは? 危うく殺されかけ、殺しかけましたよ」
「それじゃお前の圧勝だっただろ? 現に無事勝てただろ」
「良く言う……」
スティルはやや呆れたように返しながらも、どこか納得したように肩を落とした。そしてふと振り返る。
視線の先には、落ちた二本のナイフを拾い上げようとしているアルトの姿があった。
あのナイフはティルが背中に受ける覚悟を決めたもの。しかし結果的に、その刃は届かなかった。ギリギリのところでラウドが魔術で落としたのだろう。
本気で応酬を続けていれば自分も無事では済まなかったと、スティルはそう理解していた。
その時、アルトが闘技場の中央から歩き出し、スティルとラウドの前に立つ。そして一礼し、それ以上何も言わずに通り過ぎようとしたが。
「アルト!」
ラウドの声がそれを制した。
アルトは立ち止まる。
「医務室に行け。治療したら、もう寮に戻っていろ。ここにはもう戻らなくていい」
その言葉に、アルトは自分の左腕へ視線を落とした。袖口から血が伝い、手の甲を滴って地面へ落ちていた。おそらく剣を逸らした際に受けた傷だ。
アルトは静かに一度だけ頷き、そのまま闘技場を去っていった。
アルトの背が通路の奥に消えていくのを見送りながら、スティルは隣に立つラウドへ問いかけた。
「あの生徒、魔術が使えないのですか?」
「鋭いねぇ。流石、王子様は人を見る目が肥えてる」
ラウドは軽く笑って肩をすくめた。
「茶化さないでください。魔術が使えないのに、よく在学なんて出来ますね」
この学園は魔術戦技学園――魔術の実戦運用を主とする教育機関だ。ただ剣術が得意なだけの者は、本来なら練兵所へ進むのが自然。魔術が使えない者がこの学園にいることなど、本来あり得ない。
スティルの疑問はもっともだった。
「まあ、いろいろと苦労したが、一応『模擬戦で教官相手に一本取れます』って主張したら何とか通ったんだ。が、それが今回通用しなくてな。それで……」
「私を対戦相手にしたと?」
「はは、悪いな。負けてくれりゃ尚良かったんだが」
スティルは小さくため息をついた。
アルトは闘技場を出て廊下を歩いていた。窓から差し込む光が淡く床を照らす。その光の中を進みながら、自分の左腕を押さえる。
(勝てなかった……)
遅れて痛みが現れ始めた腕は鈍く痺れ、動かすたびに熱を持つ。幸い、致命傷ではない。だが、今さら怪我の程度などどうでも良かった。
(クソ……!)
拳を握り締める。歯を食いしばる。
全力を出した。それでも、まるで通用しなかった。
魔術を使われた瞬間、自分は何一つ抵抗できなくなった。
力の差、才能の差、世界に存在する理不尽それらが一気に押し寄せてくる。
(なんで俺はこんなに弱い……。どうして……)
悔しさは怒りより重い。胸の奥で沸騰しながらも、どこにもぶつけられない。ただ自分の無力さだけが突きつけられる。
階段に差しかかったところで、急に膝から力が抜け、アルトは前のめりに崩れ落ちた。
「ッ!」
咄嗟に手をつき、体を支える。幸い、階段の角に頭を打ちつけずに済んだ。
旧式強化魔術の反動が、今になって襲いかかったのだ。
(情けない……)
アルトは歯を食いしばったまま、荒い息を吐いた。
(ここまでして届かないのか……)
拳を握る。悔しさは増すばかりだった。
その時、ふと窓から差し込む光が翳った。
誰かの影。アルトは顔を上げる。
「やっぱりこうなってたか……」
見下ろしていたのはディオだった。
アルトは何も言わずに視線を伏せる。
「お前、魔術の反動で動けないんじゃないかと思ってな。安心しろ、ちゃんと許可は取って来たから」
「……少し休めば動ける」
素っ気なく返すアルトに、ディオは一度だけ息を吐き、当たり前のように手を差し出した。
「それでも、無いよりゃ良いだろ?」
アルトはしばしその手を見つめるが、掴むことはなかった。代わりに壁へ手をつき、震える足でゆっくりと立ち上がる。
そして、そのまま医務室へと歩き出す。
「たく、素直じゃないな……」
ディオは肩をすくめながらも、その背中を追った。
[解説]触媒
魔術を発動する際、転換したマナを仲介する為の道具。ローレシア魔法戦技学園では肉弾戦の兼ね合いもあり、基本的に剣の触媒が推奨されている。
しかし魔術の発動や出力のコントロールなどは専用の杖など、小さい物程一度に放出するマナの密度、魔術の威力を上げやすい。逆に触媒が大きくなる程魔術を発現しづらく、威力が低下する。
[解説]詠唱
魔術を発動する際に必ず必要になるもの。これなくして魔術は発動しない。基本的に詠唱は幾つかの単語を繋ぎ合わせたもので、自らの魔術を最大出力で扱う為に詠唱を最後まで唱える事を完全詠唱という。また完全詠唱の長さは、強化型、放出型、召喚型の3種ある魔術の種類で大きく異なり、また個人差も大きい。
魔術のコントロールに精通している者はこの詠唱を完全に唱えずとも効力のある発動する事が出来る。が、詠唱を短くするとその分魔術の規模も下がる。ローレシアの近代魔術戦闘ではいかに早く魔術を発動するかが勝敗を握っているため、魔術のコントロール精度に長けた者程戦場で優位と言える。




