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WHEEL OF FORTUNE~仮初の境界線~  作者: 鴇天ユキ
第二章 仮初の境界線
12/14

仮初の境界線

 アルトがクレアと戦った翌朝。いつもは一日で治るアルトの怪我が治っていなかった。


 治療を受けた際に、クレアの能力の影響で怪我の治りが遅くなるという話をそれとなく聞いていたアルトだったが、普段と違う事がこうも不便なものなのかと思いながら自室のベットに腰かけていた。


 昨晩痛みで一睡も出来ずにそのままの格好で居たアルトの左腕は、三角巾で肩から吊るされている。左腕は複雑骨折しており、完治までには3ヶ月を要するという話だった。


 他にも肋骨の骨折やら全身の打撲やら怪我をしていたアルトだが、ブリテンの時よりも軽傷だと言われて俄に信じられない。ましてその時の怪我は一日で治ってしまったのだから尚更だ。


 最早ため息すらも出ない気分の中、そろそろ朝食の時間だろうか、と気持ちを切り替えようとするアルトは窓の外に目をやる。


 朝日が昇って随分経つように感じてしまうが、それは長い夜を過ごしていたからであった。それでも脳裏の奥底に刻んだ時計の音がアルトに正確な時間を伝え続けている。


 無音の中自分の内からする時計の音に耳を傾けていると昔を思い出しそうで嫌になってしまう。今の状況はアルトがこの学園に来てからずっと願っていたものだったはずなのにだ。


【どうして戦うのですか】


 かつての言葉が何度も脳裏に過る。だがアルトはその問いに対してルイスに答えた解答を返す事が出来なかった。


【どうして生きているのですか化物!】


 別の場所から答えを得ようとすれば、怯えて叫ぶクレアの姿が思い浮かぶ。そして最後に見たルイスの目も、クレアに似て怯えたものだった。いいや、二人だけではない。今まで気にして来なかっただけで、アルトのクラスメイト達は皆同じ目でアルトを見ていた。


(俺は生きてちゃいけないのか……?)


 今まで戦う為に生きていた。自分の生きる意味はそこにあって、唯一自分に価値を感じられるのがそれしかなかったから。だがそれが他人を脅かし、怯えられる存在でしかないというのなら……自分はクトゥルフの眷属と変わりない。ただの人間の脅威だ。


(お前も……同じ気持ちだったのか?)


 湖で最後に会った時、彼女に言ってしまった言葉を振り返る。アルトとしては何とも無しに彼女の言葉に反論しただけの気持ちでいた。だからその言葉の意味も深くは気にしていなかったのだ。


 だが彼女はディオの言う通り魔族だ。人間とは比べ物にならない程の力を秘めており、古くから人はその存在を忌避して来た存在だ。そんな彼女はアルトと接している間、自分が魔族であるかのような振る舞いは見せていなかったから、アルトもそこまで気にしていないと思っていた。だがあの時の彼女は……


 と、その時コンコンとドアを叩く音がする。


 普段ならそのまま立て続けに誰かしら部屋に入って来るが、その様子が無いところからいつもとは違う者が訪ねて来たのだとアルトは分かった。


「どうぞ」


 アルトが応えると、「失礼します」という言葉と共に扉が開かれる。


 早朝アルトの部屋へやって来たのはニーナとパンとサラダボールを持ったアルだった。


 部屋に入るなり、二人の顔が暗いのにアルトは気が付く。


「あ、その……元気そうで良かった」


 気まずくならないようにアルが無理やり切り出す。続くようにニーナが口を開いた。


「アルト先輩、大怪我したって聞いて……」


 そこでニーナは口をつぐむ。しかしそれに続くのは、大丈夫ですか? という言葉だろう事がアルトにはすぐ分かった。それを口に出来なかったのは、どう見てもアルトの様子は大丈夫そうには見えなかったからだろうことも。


「大丈夫だ」


 代わるようにアルトは応える。


「少なくとも、ブリテンの時程の怪我じゃないらしい」


 淡々と答えるアルト。その言葉に絶句した二人はしばらく黙り込む。それぞれ何を考えているかアルトには分からなかったが、それよりも気になる事があり今度はアルトが尋ねる。


「ルイス先輩は?」


 アルトの問いに二人は答え辛そうに顔を曇らせる。きっと二人はルイスから自分の事を聞いたのだろう事は簡単に察する事が出来たが、そのルイスが居ない事に違和感を覚える。もっとも、本当は何となく来ない理由を察する事が出来たが。


「その、ルイス先輩はアルトに会わせる顔が無いって来なかった」


 そう答えるアル。アルの性格からしてそれは嘘ではないのだろうが、まだ伝えていない……伝え辛い何かがあったのだろう。


「でもルイス先輩はアルト先輩のこと凄く心配してました」


「そうか……」


 疑う訳ではない。だがしかし、この場に居ないというのはそういう事だ。自分は今、避けられている。


「お前あれ……」


 と、突然アルが呟く。驚きに目を見開くアルに、同じく両手で口を覆うニーナ。


 二人の視線の先をアルトが追う。


 三人の視線の先にあったのはバラバラに砕けた大剣の刀身とその柄、唯一新品同様の巨大な鞘だった。


 その有り様がアルトの戦いの壮絶さを語るに余りあり、二人は言葉を失ってしまっていた。


「せっかく貰ったのに悪かった。俺は物を大事に出来ないらしい」


 アルトのその言葉にすぐ応えない二人。申し訳なさにアルトは顔を下げたまま二人の顔を見られなくなる。


「相手の事は聞いてます。けど、あの剣があんなふうになるなんて……」


「逆にそんな相手に良く生きて帰って来れたな」


「…………………………」


 何も返せないアルト。


「まあヴァルバロイ程の相手じゃなかっただろうしな」


 そう笑い飛ばそうとするアル。それに対して徐にアルトは口を開く。


「化物と言われた。俺はあいつからしたらヴァルバロイと同じらしい」


 再び絶句する二人を他所にアルトは続ける。


「おまけにお前等に会う前、再試験を受けていて相手を殺しかけた。俺は人を殺しかけておきながら、のうのうとお前等に会いに行ったんだ。こんな事になるなら、俺はあそこで死ぬべきだったな」


「そんな事言わないでください!」


 アルトの言葉にニーナが声を上げる。アルトとアルはそれに驚いて呆気に取られるが、涙を浮かべたニーナはそのまま部屋の外へと飛び出して行った。


 言葉も無いままに立ち尽くすアル。


「追いかけてやれ」


 そんなアルに声を掛けるアルト。しかし、眉をひそめてアルは返してくる。


「お前、もう少し自分の事考えろよ」


 そんな言葉を告げてから、アルは部屋の隅にある机にサラダボールとパンを置いて何も告げずに部屋を出て行った。


(俺はお前のようにはなれないさ)


 胸の内でそう返すアルト。


 するとその直後に再び扉が開かれる。


 アルが何か言い残したのかと扉に目を向けるアルトだが、ノックも無しに入って来たのは意外な人物だった。


「経過はどうかしら?」


 そう口にして部屋に来たのは救急箱を持ったセレだ。


「一睡も出来ませんでした」


 冷静にそう返すアルト。訪問は意外だが目的ははっきりしている。治療と事情聴取だ。


「でしょうね。痛みの方は?」


「大分マシになりました」


「そう」


 短いやり取りをしながらセレはアルトの前に膝をつき、救急箱を置く。


 そのまま「看せて」と告げてアルトの包帯と添え木を取りながら口を動かした。


「さっきのはクラスメイト?」


「いいえ、ギルドのメンバーです」


「そう。ならあれがあなたがブリテンから助けた仲間なのね」


「調べたんですか」


「ええ。上の方じゃあなたはかなりの有名人になってるから仔細まですぐ情報が入ったわ。確かにあなたは他に例を見ない参考人、何から何まで例外まみれでその情報を求める人は少なくなかった訳ね。だからそれが精神衛生上どんな悪影響があったとしてもお構い無しに質問責めにされた」


 そこまで言い終えた所で、アルトの傷だらけの腕が露になる。


 無数にある縫合の跡は骨が皮膚を突き破って出来たものだった。その裂傷は1日で消えるものではなく、アルトの左腕はまるでひび割れているかのようにズタズタになっていた。


「やはり治ってないわね」


「……………………」


「今までならこの程度一日で治っていたでしょうに。やっぱりクレアちゃんのせいかしらね」


「治らないんですか?」


「通常なら全治3ヶ月といったところかしらね。とはいえ、あなたの体質なのか魔術妨害ありきでも傷の治りが早いから、実際の所は分からないわ」


「……………………」


 それに対してアルトは、喜ぶべきか悲しむべきか分からなくなってしまった。やはり自分は通常の人間とは違うらしい。それこそ、もしかしたらクトゥルフの眷属になり始めている兆候なのかもしれないとさえ思えた。


「喜びなさいよ」


「……素直に喜べませんよ。俺の体は一体どうなってるんですか」


「それを今まで疑問に思わなかったのかしら? 去年にはあれだけ大怪我しては、一日で完治させておいて気持ち悪いのは私も同じよ」


 それを言われてアルトは黙り込む。今までだって多少は疑問に思っていた。だが、それでもブリテンや昨日のような命の危機を何度も乗り越えるような体験をすれば、多少傷の治りが早いなんて理屈が通る訳がない。


 まるでこれでは自分が人間ではないような……


(俺は何になりたいんだ……)


 新たな疑問に行き着く。まただ、とアルトは感じる。またこうして思考の迷路へと迷い込んで行く。


「聞いてる?」


「いえ、すみません」


 素直なアルトの回答にセレはため息をついて頭を抱える。


「相当来てるわね……。私が来て正解だった」


 そう言ってセレはスッとアルトの頭へと手を伸ばす。


 思わずアルトはそれを後ろに引いて避けてしまう。


「何で避けるの」


「何をする気ですか?」


 怪訝な目を向けるアルト。腕程でなくとも頭も傷を負って包帯まみれだというのに、下手に触られたくない。


「診察よ。あなたそもそもカウンセリングに私の所に来たのでしょう?」


「そうでしたけど、何故触れる必要が?」


「そこからなのね……」


 とセレは手を引いて頭を抱えて眉間に皺を寄せる。


「錬成術を使った医療についてあなたは詳しい方?」


「……いいえ。座学でもそういった医療を扱える人間は少なく、そもそもそれが可能であっても人体に錬成術を直接使うのは大戦以降禁忌になっていたのでは?」


 そもそも魔族を産み出す走りになったのがその人体に錬成術を使う技術であり、それまで錬成術を人体に、ましてや医療目的で使う人間など居なかったという歴史がある。


 そんな歴史の浅いものが、更には禁止されているものがメジャーになる訳もなかった。


「私はその例外なのよ。私の錬成術は他人の脳を読み取るだけで組織を組み替えたりする訳ではないから人体錬成にはならない訳。正確には脳の信号を診るのだけど……まあ詳しい事を言っても分からないでしょう?」


「それは本当に大丈夫なんですか?」


 そもそもアルトは錬成術の事すら詳しくない。そんなアルトの反応に「失礼ね」と眉間に皺を寄せるセレだが、「まあいいわ」とそのまま続けた。


「あなたみたいに危惧する人間も少なくないけど、そもそも錬成術で物を分解したり組み替えたりするのはかなり難しい事なのよ。その点私は物の配列をただ覗くだけで、その配列を映像としてフィードバック出来る訳。私の記憶を読む能力というのはそういう仕組みよ」


 言われても納得しかねるアルト。そもそも何を言っているのか全く理解出来なかった。


 しかし、これ以上ごねるとセレの機嫌がきっと悪くなると察したアルトは、覚悟を決めて「分かりました」と答えるが……


「これ、世界で私だけが持つ唯一の能力でいて、更に私は生徒達にも美人で優しいと人気なのだけど、何故あなたは知らないのかしら?」


 それを自分で言うのかと思わず口に出しそうになるアルト。またもやセレの機嫌を損ねてしまう。そもそもアルトには優しくされた記憶が無い。


 などと思っていた時、アルトの隙を見てスッとセレがアルトの額に触れる。触れられてから慌てて頭を引くアルトだったが、セレは更に不機嫌そうに目を鋭くして口を開く。


「私があなたに優しくしないのは、あなたが私を好きじゃないからよ。私を好まない人間に私が好意を向ける必要があるのかしら?」


 二つの意味で信じられないと思うアルトだが、セレの魔術の力の程を知る。本当に相手の記憶を読み取れると同時に、確かに危険が無い事が分かった。


「安全なのは分かったので、カウンセリングをしてください」


 無理やりに話題を変えるアルトにまだ何か言いたげなセレだったが、一拍置いてから「分かったわ」と告げる。


 そのまま再びアルトの額に優しく手を添えて口を開く。


「じゃあ始めるわよ」


 そう告げた後、しばらく沈黙が訪れる。だが程なくしてセレが表情を歪めてアルトの額から手を離し、その手を自分の口に当てて丸くなる。


「どうしたんですか!?」


 尋常ではないセレの反応にアルトはベッドを立とうとするがセレは空いた手でそれを制した。


 そのままセレは青い顔をそのままに、口を覆った手を離して机の方へとふらふらと進み、椅子を引きながら崩れるようにそこへかけた。


「信じられないわ……」


 机に突っ伏しながらセレは口を開く。


「あなたは精神汚染を受けてる」


 その言葉に再び気を落としそうになるアルト。だがその前にセレは続ける。 


「けどそれを上回る強烈なPTSDで克服している。こんな対抗方法があるなんて思ってなかったわ。とは言っても、正気でいられるのが信じられない精神状態には違いないけど」


「じゃあ俺は……」


「良かったわね……とは言いきれないけど、クトゥルフの精神汚染は完全に治まってるわ。まあ、治ったなんて例はかつて無いから再発の危険が無いとも言い切れないのだけれど」


 我ながら皮肉に思ってしまうアルト。今でも自分を苦しめる過去のトラウマが、クトゥルフの狂気から身を守ったなんて事が起きるとは。


 と、ようやく落ち着いたのか「ふぅ……」と息をつきながらセレは椅子から立ち上がり、アルトの方を向き直って座り直す。それでも、まだその顔に血の気は完全に戻りきっていないがセレは体を真っ直ぐに立て直してアルトに告げる。


「けど、実際あなたのそのトラウマは問題ね。今まで何人もカウンセリングして来て、その手の耐性は一応ついていたつもりでいたけれど、たった一日の記憶でここまで追い込まれたのは初めてよ。あなたの体質なんかより、その精神力の方がよっぽど化け物じみてるわ」


「……どうですかね」


 真っ直ぐと見つめるセレから視線を外して、無事な右手を見つめながらアルトは続ける。


「逆に俺はそれしか感じる事が出来ないんです。切り離したくて仕方ない記憶なのに、今もこうして生きてるのはそのトラウマから来る感情だったとは思っていませんでした」


「…………それで?」


 記憶を覗いたのだから、言いたい事は大体分かっているであろうセレがその先をアルトに促す。


「俺はそのトラウマから逃れる為にずっと戦う事だけ考えて……ずっと戦いに身を投じて居られたらと思っていました。だからこの学園に来たのに、ここはどう足掻いても他人と関わらざるを得ない。そして人と関わる毎に俺が他人とズレていると思わされる……。みんな生きる目標があって、それに向かって強くなって行く中で、俺だけが何も見出だせずに過去に縛られ続け、挙げ句にどれだけロクでもない人間なのかを思い知らされる。ずっとずっと、自分が何の為に生きているか分からないんです」


「それはあなただけでは無いわ」


 最初から答えが決まっているようにセレが言う。


「あなた以外の誰だってそうよ。あなたに見えていないだけで、皆生きている理由なんてないの。それに気が付かないように皆縋る何かを求めているのよ。ある者は自分を変えようと望み、ある者は無力な自分から目を反らす為、ある者は憧れを目指し、そしてある者は過去から逃れる術を探している。目標がそれぞれで多種多様なれど生きる理由があるのなら、その目的は一極であると思わないかしら?」


「その理屈で言うなら、人間は死なない言い訳の為に生きてる事になります」


「そうね。ふふ、あなたの言う通りね」


 笑いを漏らし口元に笑みを浮かべながらセレは言う。


「あなたがロクでもない人間なのは確かね。じゃあ、そんなロクでもないあなたなりに、死なない言い訳が見付かる事を祈っているわ」


 そうセレは椅子から立ち上がり出口へと歩み出す。そのまま部屋を後にするかと思われたが、扉の目の前で立ち止まり最後に告げた。


「もしかしたら案外近くにあるかもしれないわよ?」


 そう言い残して一瞥もすることなくセレは部屋を出て行った。


「はぁ……」


 思わず息をついてしまうアルト。漸く去ったかと緊張の糸が切れる。と、同時に今まで悩んでいたのが馬鹿馬鹿しく思えてしまっていた。


 すると、腹の音が鳴り久しく感じていなかった空腹感を強烈に感じ始める。


 怪我があったにしろ、こんな空腹にも気が付かなかったのかと尚更に思い悩む自分に呆れながらも、アルトは立ち上がってアルが持ってきた皿に手を着けた。









──────


 高く聳える展望台から見下ろす、赤い屋根の街並み、その先には視界の全てを埋めるように湖が広がっている。


 朝食を終えた後、アルトは食器を返すついでに展望台へと来てきた。


 最近は部屋にこもりきりでここになかなか来なかったアルトだが、久しく見ていなかったそこに何か感動を覚えると思っていたが……なんの事はなくいつも通りだった。


「はぁ……」


 ここに来ればいつもため息をついていたが、それは殆どが安堵のため息であったのだとアルトは悟る。ここは学園で数少ない一人になれる場所なのだ。今となれば分かるが、何か考え事があればここに来ていた。この景色を見ている間は、静かに物事を整理出来たのだ。


 だからこそ、ここはアルトのお気に入りの場所だったのだが、最近はここに足を運ぶ事が出来ずにいた。


 思い返してみれば、ここを出てから一度たりとも安息の時間が無かった。


(そういえば……明後日始業式だな)


 と、気が付けば休暇も終わりである。


 改めて大きくため息をついてアルトは手すりに凭れる。


 まだまだ全身に痛みは残るものの、それ以上に全く休めなかった事の衝撃がアルトの胸にのし掛かる。本当に、今まで何をしていたんだと頭を抱えてしまう。


【そんな事言わないでください!】


 だがふとニーナの言葉が脳裏を過る。そのまま徐に美術館での事を振り返る。今まで思い返せばヴァルバロイの事しか思い出せなかったのが、それ以外の事を思い出す事が出来た。


 すると思い出したのはニーナをアルと一緒に見付けた時にかけた言葉だった。ニーナがあの時言った言葉は、自分があの時言ったものと同じものだったのだ。


「アルト!?」


 と、その時だった。聞き馴染みのある声が背中でしてアルトは振り返る。


「ルイス先輩?」


 何故ここに? と尋ねる前にルイスは捲し立てるように続けた。


「絶対安静な筈だろ!? なんで出歩いてんるんだ! 怪我も全然治ってないのに、こんな所までどうやって来たんだ!」


 いつもは見ないルイスの一面に呆気圧されるアルトだが、言われっぱなしは気に入らないと口を出す。


「歩くくらいは平気です。それよりなんでここに居るって知ってるんですか?」


「それは……君の事を探してて、部屋に行っても居ないからディオに君の行方を聞いたんだ。そしたら、アルトなら展望台に居るんじゃないかって言ってたから」


(あいつ……)


 思わずその名前を聞いてアルトは顔を伏せてしまう。今更ディオに対して恨みも怒りも持たないアルトだが、それに代わって後悔ややるせなさが溢れ出した。何より、この瞬間までディオの事を忘れてしまっていた事に自責の念を感じてしまう。


「けど、まさかと思ってたけど本当に居るとは思ってなかったよ。おかげで彼女にもご足労かけてしまうし」


 彼女? とアルトは小首を傾げる。


 すると、ルイスの背中から小さな影が現れる。


 出てくるなり鋭い目付きを向ける小人の正体はクレアだ。しかしクレアはアルトと同じく左手を三角巾で吊るしていた。


 思い返してみれば、アルトはクレアに一矢報いようと咄嗟にナイフを奪って投げたのを思い出す。それはこんな目付きにもなるなと思いながらも、アルトはやはり未だに彼女の事を完全には許せていなかった。


 そうして沸々と怒りが込み上げると共に、アルトの表情が険しくなる。


 するとクレアは怯えたように再びルイスの陰へと隠れてしまう。


「?」


 昨日とは打って変わるクレアの姿にアルトは首を傾げる。


「クレア様、隠れてないでちゃんと言わないと」


 そう言ってルイスが半身を翻してクレアが隠れるのを阻止する。


 すると、バツが悪そうに下を向きながら渋々と言った様子でクレアはルイスの前に出た。


「その……あなたのやった事を許すつもりはありません。あなたは私のお父様から戴いた私の家族を、友達を傷付けました。とても愚かな行為です。極刑に値します」


 そんな恨みごとをわざわざ言いに来たのかとうんざりするアルトだが、そこにルイスが割って入る。


「違うでしょう? もっと別の事を言いに来たんじゃないですか?」


 そう言われてバツの悪い顔になり、口ごもるクレア。アルトから顔を反らし、呟くように口を開く。


「……怪我をさせて、ごめんなさい」


 あまりに意外な言葉にアルトは呆気に取られてしまう。まさにあの恨み辛みからそんな言葉が飛び出すなどと予想できない。


 が、アルトは一息ついてから顔を反らしたままのクレアの前まで静かに歩み、膝をついてから口を開く。


「俺も怪我をさせる気は無かった。今回は痛み分けにしないか」


 そうアルトが告げると、クレアは視線を目の前のアルトに戻す。


「ひっ!?」


 しかし短い悲鳴を上げたクレアが見たのは、眉間に皺を寄せ、鋭い目付きのアルトだった。


「次はその程度の怪我で済むと思うなよ」


 アルトがそう告げると、クレアは三歩後退りした後すぐに振り返り、脇目も振らずに走り去った。


「ふふん」


 その姿を見て満足げに鼻を鳴らすアルト。これはお釣りが出たかもしれないと満足感に満たされていた。


「何やってるんだよアルト!」


「こっちは死にかけてるのに、これだけで済むなら良いでしょう?」


「そうじゃなくて、君にかかった呪いを解除してもらうつもりだったんだ!」


 思わず言葉を失うアルト。最初の様子からしてクレアが自分の事を恐れているのをアルトは見抜いて脅したのだが、それが帰って余計な事態を引き起こす事になるなど思ってもみなかった。


 これではもう、しばらくは顔を合わせようともしないだろう。


「くそっ!」


 ならばここで逃がしてなるものかとアルトは体を低くする。しかし力んだその瞬間全身に激痛が走り、呻き声すら上げられずにアルトはその場に膝をついた。


「アルト!」


 慌ててルイスが駆け寄る。


 それを察してアルトは無理に立ち上がって見せた。


「大丈夫です」


 そう告げてアルトはルイスを止めようとするも、ルイスはそのままアルトに寄り添う。


「大丈夫なんかじゃない。流石の僕にも君が無理をしてると分かるよ。部屋に戻ろう」


 そう言って半分強引に動き出すルイスに、抗う事すら出来ずに展望台を後にする。


 もう少し居たかったという名残惜しさを残しながら、下り階段の暗がりへと戻される。


 そしてゆっくりと一段ずつ階段を降りながらルイスは徐に口を開く。


「昨日はごめん」


 唐突な謝罪の言葉にアルトはすぐに回答出来なかった。返す言葉が何も浮かばなかったのだ。肯定すべきか、自分も謝るべきか、それとも今までのように否定して突き放すか、そのどの返答も、この場において適当ではないと思えてしまうのだ。


 それでも、ルイスはそれ以上何も続けなかった。それがアルトには、ルイスが何か回答を求めているように思えてしまう。


 そのまま、ゆっくりと階段を降りて行く。ルイスは最初のように強引にアルトを引くのではなく、アルトが階段を降りるのに合わせてゆっくりと階段を降りていた。


 そのルイスの優しさがより何も答えないアルトに気まずさを煽り、耐えきれずにアルトは口を開く。


「あの先輩、俺も……」


「良いんだよアルト」


 アルトの言葉を遮りルイスは言う。


「無理に何か返そうとしなくたって良いんだよ。君がそういうの得意じゃないのは分かってる」


「……すみません」


 何もかもお見通しなのだなとアルトは気を落としてしまう。


「僕が謝ってるんだから謝らないで欲しいな」


 ははは、と苦笑いを浮かべるルイス。


「ですが」


「あの時君が怖いと思った」


 再び遮るようにルイスが告げる。


「あんな到底勝てない相手に向かって行って、死ぬのなんて怖くないような戦い方をして、まるで君が人じゃないように見えて怖かった。そんな君だからヴァルバロイにも勝てたし、アル達も助けられたと分かっていながら今更都合が良すぎる」


 その言葉にアルトは何も答えられなかった。正直そう思われていた方が気持ちが楽なのかもしれないと考えてしまう。


「だから、開き直ってもっと都合の良い考え方をしようと思ったんだ。本当は、君が死んでしまうんじゃないかと怖くて仕方なかった。僕達の知っているアルトが、僕達が無理をさせ過ぎて壊れてしまったと思って怖かった。僕はそんな君に向き合う事が出来なかったんだ」


 それを聞いてアルトは思ってしまう。それは都合が良いのではなく、ルイスの本心なのだと。そう思う自分もまた都合が良い事を考えてしまっていると分かっていながらも、そう願ってしまう。


「都合が良すぎます、そんなの」


 自分に言い聞かせるようにそう口にするアルト。


 ルイスは苦笑いを浮かべつつも、その笑顔は徐々に柔らかいものへと変わって行った。







──────


 ルイスに支えられながらアルトは部屋の前へとたどり着く。


 展望台の階段を降りた辺りでもう自力で歩けたのだが、ルイスはアルトの肩を持って支え続けていた。


「先輩、もう良いですから離れてください」


「ああ、強引な事をして悪かった」


 全くだ、と思いながらもようやくルイスが離れて安堵するアルト。


 そのまま扉を開けようドアノブに手を伸ばして気が付く。ドアが完全に締まり切って居ない状態で閉じている。


 と、何やら部屋の中から声がしてアルトは締まり切っていない扉を手で押す。


「アルト! どこ行ってたんだ!」


「先輩出歩いちゃ駄目ですよ!」


 そう声を上げるのはニーナとアルの二人だった。


 先程見た反応だと思いながらも、自室に入って「何で居るんだ」と尋ねるアルト。


「僕が昨日の内に二人に頼んでおいたんだよ」


 そう答えたのは後から部屋に入って来たルイスだった。


「二人には君の大剣の破片を集めて貰ったんだ」


 そう告げられアルトは部屋の隅に目を向ける。すると、バラ撒かれるように無造作に置いてあった大剣がなるべく元の形に近い形で置いてあった。


「集めてどうするんですか?」


「直すのさ」


 アルトの問いに当然のように答えて見せるルイス。


「お前、まさかルイス先輩の魔術知らないのか?」


 そんなアルの問に即答する前にアルトは首を傾げて考える。


 というのも、アルトはルイスが魔術を使えるなどと知らなかった。むしろ、自分と同じで魔術が使えないからこの班に居るのだとずっとアルトは考えていたのだ。


「知らない」


 だが僅かに考えてみたものの、即答しようとした応えと同じものがアルトの口から出る。知らないものは知らないのだから仕方ない。


「無理ないよ。アルはともかく、アルトの前で僕は魔術を使った事はないからね」


 苦笑いを浮かべてそうルイスは部屋の奥へと入って行き、砕けた大剣の脇に膝をついた。


 すると大きく残った大剣の柄に指を振れて目を瞑る。次の瞬間、破片が独りでに大剣の柄に吸い付き、ひびすら残さずに元に戻って行く。


「これは……」


「錬成術だよ」


 驚くアルトにアルが応える。


「お前知らなかったのか? 先輩は最上級生の特待生枠で入学した一人だったんだ。戦いは点で駄目だけど、錬成術はこの世界でもトップクラスらしいぞ?」


「それは言い過ぎだよアル」


 そうルイスが応える頃には大剣は元の姿に戻っていた。


「僕は単に物の構造が分かるってだけだよ。人の体を治したり出来る昔の錬成術師やセレ医務官のように他人の記憶を読み取ったりなんてのは出来ない。僕からしたらああいう技術の方が遥かに凄いよ」


 そう謙遜して見せるも、その実力が抜きん出ているのはアルトでも分かった。そもそも前日にクレアという化け物と戦って特待生枠の実力を痛い程知っているだけに、まさかそんな枠の人間が身近に居るなどと思っても見なかった。


 同時に、アルトが錬成術を知らない事に懐疑的だったセレの態度にも納得が行く。そしてそんなセレでさえも物を造り変えるのは簡単ではないと語った通り、実際にそれはとんでもない才能なのだと分かる。


 そして同時にある事を知り、思わずアルトは顔を伏せてしまう。


「どうしたんだ?」


「俺は何も知らなかった。……知ろうとして来なかった。お前等の事を何一つ」


 怪我をすれば駆け付けてくる仲間が居たことも、自分の言葉を重く受け止めていた仲間が居る事も、特待生が近くに居る事すらも知らなかった。それで良いと、その方が良いとずっと思っていた。そしてそれは、自分を慕う人間を傷付ける事になる。


 そして、だがそれでも、と誰かに縋りたくないと思ってしまうのは自分の弱さだと気が付いてしまった。それを打ち明けられないのも自分の弱さで、他人を傷付ける以上に自分が傷付くのが怖いのだ。


 こんなにも慕ってくれる仲間が居るのに……。


「今更だろそんなの。お前そういう奴だろ?」


「そうだな。そうだったな」


 そう生返事で返すアルトに、すぐさまアルは「違うだろ?」と続けた。


「その方が、お前は気楽で居られるんだろ? だったらそのままで良いだろ」


 思わずアルトは顔を上げてアルの顔を見る。当然のような顔をしたアルは、ふざけるでも照れるでもなく真っ直ぐアルトを見ていた。


 そう思っていたのか? そう思って今まで距離を置くような事をして来ていたのか?


 そこでアルトは思い返して気が付く。人と繋がるのが億劫になるこんな学園生活で、それでも自分がギルドにだけは顔を出したのは、この学園の中で唯一、居心地の悪さを感じない場所がギルドだったからだと。うるさいアルに、存在感の無いルイス、泣き虫のニーナが居て、それを無視する自分が居る。それでも着かず離れずのままで居られるこの場所が自分が好きだったのだ。


 いつでも切れる繋がりの中で、それでもその繋がりを断たずに居たのは、自分にとって都合が良くて、そんな場所を皆が作っていてくれていたからだった。いつでも切れる仮初めの境界線の上が自分の居場所で、そこに安心を得られるのだと、皆は遥か前から知っていたのだ。


「ごめんちょっと良いかな?」


 と、ルイスが三人に声をかける。


 するとルイスが鞘に納まった大剣を持ち上げようとしていた。


「これ壁に立て掛けたいんだけど、重くて僕一人じゃ無理だ」


 すぐさまニーナとアルの二人がルイスの元に駆け付けて、「せーの!」と掛け声をかけてから大剣を持ち上げようとする。


 だが唸り声を上げても大剣が持ち上がる気配が無い。だが、ふと大剣は軽々と持ち上がる。


「くっ!」


 傷の痛みに苦悶の声を漏らしながらアルトは三人を余所に大剣を壁に立て掛ける。


「駄目だよアルト無茶しちゃ!」


 すぐさま叱責を浴びせるルイスに対し、アルトも即応える。


「これぐらいやらせてください。というか、そんなんでどうやってこれをここに持って来れたんですか」


「錬成術で六分割にしてそれを三人で往復しながら持って来たんだ」


 そんな物をよく人に渡そうと思ったなと内心アルトは呆れてしまう。同時に通りであの時あんなに驚いていたのかと合点が行った。


 そっと撫でるようにアルトは大剣の柄に触れる。


「こんなに重かったんだな」


 この体になって初めて分かる。確かに人に持てるような物ではないと。


 だがそんな物でも自分なら扱えると三人は思っている。つまりこの重さは三人の期待そのものなのだ。


「悪かったな」


 徐に口を開きながらアルトは三人の方へと向き直って告げる。


「俺はもう大丈夫だ。昨日みたいに変な物も見えないし、精神汚染ももう無いと診断もされた。俺もやっと帰って来れた。……ありがとう」


 最後の言葉で三人の顔色が変わる。それこそ目の前にクトゥルフの眷属が居るかの顔のようになりながら、三人がアルトの体を強引に引っ張り出す。


「アルトやっぱり休んだ方が良いよ」


「お前ちゃんと俺の持って来た朝食食べたか? それとも変な物でも入ってたか?」


「先輩もう一度よく診て貰った方が良いですよ」


 そう言われながらアルトはベッドへと誘導されて腰を降ろす。


「じゃあしっかり休むんだよアルト」


「飯も持って来てやる。ちゃんと見張ってるからな?」


「これ以上無理しちゃ駄目ですよ先輩」


 三者三様の言葉を述べて、三人は部屋を後にする。


 過保護な連中だと思いながら、やはり二度と感謝の言葉は述べてやらないとアルトは胸に誓う。


 しかしながらアルトは実感する。こうやって三人は自分の居場所を維持してくれていたのだと。こうやって支えられていたのだと。


 気付こうとして来なかった。気付かないようにして来た。


 弱い自分を守る為に、弱い自分に向き合わないように。


(悪いな三人とも……)


 胸の内で三人に謝りながらアルトは再び立ち上がる。


 自分はまだ帰って来れていないのをアルトは思い出した。


 ずっとやり残していた事を片付けなければと。












────


 昼下がり。風の吹いていない湖は鏡のように快晴を写し出し、水平線の果てまで続いている。


 その縁に彼女は居た。何処までも澄んだ青の中で、腰程の高さの岸壁に腰掛けた彼女は今までに無い程に神秘的に見えてしまい、アルトは思わず言葉をかけらない。


「良くまた来れたね」


 しかし今までに無い冷たい言葉がその背から放たれた。


 別の意味で言葉を失いかけるアルトだが、詰まらずに言い返す。


「お前の方こそ。もう居ないと思ってた」


 アルトの言葉に彼女は黙り込んでしまう。


「悪かった」


 何も言わない彼女にアルトは一言そう告げる。


「……………………」


 しかし彼女からの返事は返って来ない。それでもアルトは彼女の返事を待つ事にした。


「何が悪かったのかな?」


 しばらくの沈黙の後、そんな冷たい彼女の返事が返って来る。


「全部だ。約束もろくに守れなかったし、お前に怪我をさせる程の石を投げた。そしてお前を化物呼ばわりした」


「分かってないくせに……」


 遠目に見ても分かる程に彼女の肩が震える。


「何も分かってないくせに適当に謝らないでよ!!!」


 慎とした湖に彼女の叫び声がこだます。


 声が何重に重なるように、その言葉がアルトの胸に重くのし掛かる。


「私は人と戦う為に産まれて来た! 何百何千という人を殺す為だけに産まれて来て、ずっと人に怯えられながら生き続けて来たの! そんな私の気持ちが君に分かる訳が無い!!!」


 悲痛に響く彼女の声に呼応するように、森に風が吹き、水面を揺らす。


 その風が通り過ぎるのを待ち、アルトは口を開く。


「そうだな、魔族に生まれた奴の気持ちは分からない。けどな……」


 アルトは彼女の背へと歩みを進める。


「来ないでよ!!」


 そう振り返りながら彼女はアルトに檄を飛ばす。だが涙を流し、怒りに歪んだ彼女の表情は一瞬で驚愕の表情に変わる。


 彼女の目に映るのは全身に血の滲む包帯を巻いたアルトの姿だった。


「どうしたのその怪我?」


「昨日やられたんだ。人を化物呼ばわりして、本気で殺しに来た奴が居てな。そんな事より隣良いか? 立ってるのが辛い」


 アルトの言葉に二つ返事で彼女は応え、了承を得て彼女の隣に腰掛ける。


「大丈夫なの?」


「大丈夫じゃない。本来絶対安静で動いて良い体じゃない」


「寝てなきゃ駄目だよ!」


「同じ事を仲間に何度も言われた。今日はお前のそれで三回目だ」


 ははは、と乾いた笑いを漏らしながら彼女が何か言う前に続けて告げた。


「だから魔族で居る気持ちは分からないが、化物と呼ばれる気持ちは分かる。俺自身言われるまでこんな体なのを疑問にすら思ってなかった。化物と呼ばれて、それを自覚出来て、初めてお前に酷い事を言ったと気が付いた」


 そう告げると、彼女は顔を伏せる。


「でも君は人間だよ。私と違うかな」


 その言葉にアルトは何も返さなかった。ただ遠くを見つめて自分の気持ちと向き合うようにしながら言葉を探す。


「もう一つ。約束をちゃんと守らなかった。ここに来た時少し怪我をしてたが、本当は今よりずっと酷い怪我を負ってた」


「え!?」


 再び彼女の視線がアルトへ向く。


「任務中にクトゥルフの眷属に襲われた。地獄みたいな場所から仲間を助けるのに必死でな。何とか全員で帰ったが、俺は精神汚染を受けて自分が何処まで人間なのか分からなくなった。その上死にかけるような怪我が一日で治って、尚更自分が疑わしくなった」


 そう口にしながらアルトは自分の右手に視線を向ける。


 あの時の事を思い出しながら右手を見つめるが、もう幻覚が見える事はなかった。


 ふと視線を落とした時に涙を流す彼女の視線にアルトは気が付く。


「ごめんなさい私、そんな事も知らずに君に当たって……」


「いいさ。俺だって相応の事をした」


「でも、でも……」


「ならお前の事を聞かせてくれ」


「え?」


「俺ばかり自分の事を話すのは公平じゃないだろ」


 そうアルトが告げると、彼女は遠くを見つめ。


 先程と立場が逆になり、彼女が徐に口を動かす。


「私、本当は鱗の色が違うから他のマーメイドに嫌われてた訳じゃない。私は人と戦いたくなくて、戦いから逃げたから仲間外れにされてた。本当は私みたいに戦いたくない子だって居たのに、それを差し置いて私だけが逃げてたから、私は魔族の内に入る事が出来なかった。それは人間も同じで、魔族に恐怖心を持った人が私を受け入れてくれることもなかった。だからこの世界に私の居場所は何処にもなかった」


 再び彼女の相貌から涙が溢れ出る。


「本当は何処かに行きたかった。君に嫌われたらもう前と同じで、私の居れる場所なんか無いって思ってたけど、私に行ける場所なんてもう何処にもなかった」


 しばらく彼女は嗚咽を漏らしながら涙を流す。そんな姿に目を向けられなかったアルトは再び視線を湖の向こうに向ける。


「俺もそうだったのかもな」


「え?」


 自分の言葉に彼女が耳を傾けるのを確認しながらアルトは続きを話す。


「俺は親が居ないんだ。すぐそこの街が俺の育った場所だが、俺は自分の境遇に納得出来ない苛立ちを周りにぶつけてた。そうしてる間は俺は自分と向き合わずに済んだ。そんな事を続けている内に、俺は街で誰もが知る悪人になってな、俺の居場所は街になかった。それはこの学園に来てからも同じだ。俺に居場所なんてなくて、この学園は居心地が悪かった。とは言ってもお前はそんな俺の何倍もの時間をそうして過ごして来たんだろ?」


「同じなんじゃないかな、私達。あのね、君が帰って来る前にディオ君がここに来たの。私君が帰って来たんだと思ってたけど違ってて最初は驚いたかな。でも君は全然帰って来ないし、何よりずっと一人で寂しかったからディオ君でも良いと思って君を忘れようとした。でも毎日話してて思ったかな、ディオ君いつも周りの仲間や色々知らない人の話をしてて、私とは全然違う世界の人なんだって。そう思うと寂しくて仕方なくなったかな。君の事都合良く忘れようとしたのに、君に会いたくて仕方なくなった。そんな都合の良い自分が許せなくて、でも当たる人も居なくて、それで君に会った時に……」


 彼女はそこから先を話せなくなってしまっていた。


 そんな彼女の横顔をアルトは見つめる。そんな視線に気付かず彼女は再び口を開く。


「君に化物と言われて、凄く悲しかった。けど君に石を投げられて冷静になってから、私がどれだけ我が儘なのか分かった。勝手に君に約束して、勝手に君を忘れようとして、そしてまた勝手に君に期待して、会ってみたら君に今まで貯めた全てをぶつけて……。化物呼ばわりされても、石を投げられても仕方ないって納得しちゃった。それなのに……」


 涙を流す瞳で彼女はアルトと顔を合わせる。


「それなのに私、また君が来る事に期待してた……」


 アルトは彼女のその言葉に何も応えなかった。


 ただスッと右手を出して、彼女の前髪を払うようにして額を確かめる。すると彼女の額には傷一つ無く、元通りに治っていた。


 それを確認すると、アルトはその右手を彼女の頬に降ろす。


「痕にならなくて良かった」


「これでも怪我には強い方かな」


「だが、お前が人間なら間違いなく殺してた。あんな勢いで投げるつもりじゃなかった。言い訳になるが、ブリテンの一件以来力の加減が分からないんだ」


 アルトは彼女の頬から手を離そうとする。しかしそんなアルトの手に彼女は自分の手を添えて抑える。


 そのまま何も言わなくなってしまう彼女にアルトは続けて言う。


「ずっと、ずっと戦場で戦いながら死ねたらと思ってた。そうすれば何も悩まず、何も考えずに終われると、ずっとそう思いながら戦いに身を置いて来た。けどブリテンで、真っ先に思い浮かんだのが仲間だった。仲間を逃がした後も俺だけが取り残されて、それで終われば良かったはずなのに、ずっとお前の約束が頭を過って死ぬ事なんて考えられなかった。お前は勝手な約束なつもりで居たみたいだが、そんな約束が俺を何度も繋ぎ止めてくれたんだ。何度も死に目を見てもお前が見えた、何度諦めかけてもお前の声が聞こえた。俺は……」


 ふと視界が霞むのをアルトは感じる。すると体の力が抜けてアルトは彼女の頬から手を離し、地面に手をつく。


「大丈夫!?」


 彼女が慌てて見せる。


 しかしアルトはどうにか体を立て直して俯きながら口を開く。


「無理をし過ぎた。いや……」


 何となくアルトは、彼女と話していて肩の荷が降りるのを感じていた。ようやくずっと言いたかった事が言える。そう思った瞬間に張り詰めていたものが解け、全身の力が抜けるのを感じてしまっていた。


 言葉を続けたいアルトの意思に反して体の力はどんどん抜けて行く。


 耐えきれなくなって遂にアルトは彼女の尾に倒れ込んでしまう。


 それでも体に残った全ての力を振り絞り、アルトは体を仰向けにした。


 視界の隅が暗転していくのを感じながらも、アルトは自分の顔を覗き込む彼女の顔を見つめる。


「俺はそんな……自分勝手なお前のお陰でここに帰って来れた。俺はそんな自分勝手な……お前が好きだ」


 体を起こす事に力を使い果たし、アルトの目が閉じる。


 しかし閉じた瞼に落ちる彼女の涙を感じる事で、まだ自分に意識があるのを感じる事が出来た。


 まだ終われない。


 最後、ずっと、本当にずっと言えずに居た言葉をアルトは口にする。


「ただいま」


 瞼に落ちる涙がいっそう増す。そして……


「おかえり」


 その言葉を聞いて、アルトは口元に僅かな笑みを浮かべる。


 そのままアルトは深い眠りへと落ちて行く。


「私も大好きだよ」


 そんな彼女の言葉はもうアルトの耳には届いていなかった。


 ただ微笑んだまま、安らかに寝息をたてるだけのアルトの頭に彼女が手を置く。


 紺碧の空へ優しく風が通り抜け、水面を撫でる。


 夏の終わりを告げる陽の光は、淡い光となって二人を照らしていた。



「たく本当に、全然人の言うこと聞かねぇな」


 二人から離れた森の影で、アルがそんな言葉を口にする。


「でも凄く安らかな顔で寝てますよ」


「それはそうだよ。帰って来てからずっと気を詰めていたんだから」


 残った二人も寝息を立てるアルトを見て口々にそんな事を言う。


 しかし彼らは皆、ようやく安堵の表情を浮かべるアルトを見てそれぞれが笑顔を浮かべていた。


 ようやく見せた彼の人間らしい姿を見て、三人はアルトが元通りのアルトに戻ったのを悟る。


「やっと本当に帰って来れたんだね」


 ふと口を突いたルイスのそんな言葉を最後に、三人は二人の姿を見守り続けた。

[解説]精神汚染の対処

クトゥルフに精神汚染された場合、一般的にそれまで解決法は無いとされて来た。それは精神汚染がその文字通り精神的な心因性疾患ではなく、脳疾患に近い作用をする為であり、またその疾患を発症した者に感応する事で伝染した事例もあった事から対処法は無いとされて来た。が、軽度の脳疾患レベルの統合失調症や心的外傷後ストレス障害等を発症する事で精神汚染は上書きが可能であり、以後再度のクトゥルフとの接触が無い限り再発する事は無い。



[解説]セレの錬成術

錬成術の物質に干渉する事象の応用で他者の脳信号を読み取る魔術。読み取った信号を自身の脳に再現する事で干渉した者の記憶を直接見る事が出来る。やろうと思えばその記憶を擬似体験出来、また人格すら変える事が可能であり、それは同様に他者にも出来る。しかしそれらは人体錬成の禁忌に触れ、また自身の人格への影響も考え、セレは記憶の閲覧に留めている。


[解説]ルイスの錬成術

オーソドックスな錬成術はあくまで万物の構成を知り、部分的に変えるに留まる。あくまで化学反応なのどを間接的に起こして錬成するのに対し、ルイスのそれは工程を無視して物質を全く別の形に変える事が可能。学園入学当初で既に錬成術の完成形と言える技量を持ち、それによって特待生として招き入れられているため、実技試験を免除されている。

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