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WHEEL OF FORTUNE~仮初の境界線~  作者: 鴇天ユキ
第二章 仮初の境界線
10/14

精神汚染

 彼女やディオと喧嘩をして三日が経った。その三日間、アルトはずっと自室にこもっていた。


 ブリテンの騒動があってから漸くゆっくりとした時間を取ることが出来ていた反面、アルトのその胸の内はずっと穏やかなものではない。


 ブリテンでの一件で仲間というものを認識させられた気でいたアルトだったが、そんなものは先のディオ達とのやり取りで吹き飛んでしまっていた。思い返して見れば、やはりニーナを助けに戻ったのは誤りだったとすら思ってしまう程に。


【お前はそもそも独りだっただろうが!!】


 この三日間何度も何度もそんなディオのその言葉が繰り返しアルトの脳裏を過っていた。


(言われるまでもない)


 そしてその度アルトは胸の内でそう返した。


 自分はそうあろうとずっと在り続けた。他者に縋らずに生きる事が正しいのだと、頼り信頼を得ようとする事が間違いなのだと。そしてまた、僅かでも他人に期待した自分が間違えたのだと思っていた。


(何で何度も間違える。どうして何度も頼ろうとする)


 そしてアルトはこの三日間ずっと、その答えを探していた。


 だがある程度までアルトの中で答えは出ていた。過ちだと分かっていてもまだ無意識に他人に頼ろうとしてしまうのは自分が弱いからだとアルトは考えていた。弱くなければ他人に縋る事など無い、弱いから足りない分を他人に補ってもらおうとしてしまうのだと。ならば強くなれば良い。ずっとそう願い続けた。強くなれば他人に頼らなくて良いのだ。


 しかしアルトに答えを出せないのはそこではない。


 何故それを理解していても、強く念じていても間違ってしまうその理由が全く理解出来なかった。そこに、自分では気が付けない誘惑でもあるのだろうか。それとも……


 何度考えても、何時間考えてもその答えだけが導き出せなかった。


 やはり人に関わるとろくな事にならない。だがここに居る限り否が応にも他人と関わらなければならない。そこに言葉に出来ない煩わしさを感じてしまい、より他人と関わる事に嫌気を差すという負の連鎖が、アルトの考えをより思考の沼へと引き摺り込んで行くのだった。


 とその時だった。


 トントンと二度ドアが叩かれる。


 思考の底無し沼から救われた反面、また人に接しなければならないのかと億劫な気持ちになりながらアルトはベッドから起き上がり、ドアへと向かう。


 そのまま返事もせずに開いたドアの先にあったのは、思わずまたかと言いたくなってしまいそうになってしまう程に嫌気の差す顔だった。


「おお珍しい。大体訪ねるときは留守のお前が部屋に居るなんてな。今日はついてる」


「何しに来たんです」


 語気が強く、思わず苛立ちを隠しきれずにアルトは尋ねてしまう。扉の先に居たのはラウドだった。よもやブリテンでの報告やら事情聴取やらがまだあるのかとため息すら漏れてしまいそうになる。


「そう邪険にすんな。悪い話を持って来た訳じゃないんだからよ」



 まあ、いい話でも無いんだがなと続けて若干苦笑いを浮かべるラウド。何にしても避けられない面倒事なんだろうなとアルトは察してしまう。


「まあとりあえず帯剣して着いて来い。移動しながら説明する」


「剣は折れたのでありません」


 と返すアルト。訓練用の剣を無闇に折るという学園の経理からの苦情により、また組手禁止という後押しもあってアルトは二年目の中等教育を受ける前後程から訓練用の剣を支給されなくなっていた。更にブリテンの騒動で剣を折ってしまっているアルトの手元に現在剣はない。


 おまけにナイフも全て失っており、それは今までディオが発注していたのもあってアルトは文字通り丸腰の状態だった。


「あーそうだったな。まあなら話は早い。そのまま着いて来い」


 アルトはそれに素直に従い、部屋を後にして先を進むラウドの後に続く。


「で、話というのは」


「ああ。お前、この学園から出る前に俺が言ってた事覚えてるか?」


 何か叱責される違反や、ラウドの言い付けでも破っただろうかとアルトは勘ぐる。


 だが思い当たる節が見当たらずにアルトは考え込んでしまっていた。


 するとなかなか答えにたどり着けないアルトに痺れを切らしたラウドが、寮を抜け、上り階段に差し掛かりながら告げる。


「お前は任務が達成出来なかったら退学って事になってただろ?」


「あぁ」と思わず声に出してしまうアルト。その事を忘れてしまっていた。しかし思い出してすぐアルトは疑問に思う。


「あの状況でどう任務を達成しろと? それも、眷属達は愚かヴァルバロイ相手に帰還してまだ成績が足りないという事ですか?」


「言いたい事は分かる。お前は皆より一足先にクトゥルフの眷属相手に実力を証明して見せた。ハッキリ言って実力だけで言うなら今すぐこの学園を卒業して実戦配備できる程にな。だが実力と実績ってのは必ずしも比例するもんじゃあない訳だ」


「その実力をつける為に我々は教務を受けてるんじゃ? その実力を実績とするのではないですか」


「ああ、少し違う」


 やがて階段を登りきり、また長く続く廊下へと入りながらラウドは続けた。


「実力だけを宛にするならわざわざ生徒の育成なんかしない。単に実力者が必要なら少し強い傭兵を雇えば済む話だからな。お前さんは傭兵じゃなくて軍人になるんだ、求められてるのは何でも打ち倒す力じゃなくて、どんな命令もこなせる柔軟性とそれを拒否しない忠誠心なんだよ。その点お前はどうだ。持ち点を実力試験だけで補ってる奴が柔軟性があると言えるか? その上お前は今や持ち点が退学になる最低基準を下回ってるんだ、文句言えるか?」


「…………………………」


 何も言えなくなってしまうアルト。


「と、今回の件を上申したら上に言われた」


 ははは、と乾いた笑いを漏らすラウド。


「まあお前の実績以上に俺の実力が足りなくて面目ない限りだ。俺だってお前の実力は認めてる。なんならヴァルバロイと遭遇して、まともなまま帰還したなんて例はかつて無いんだ、それだけで既に並の魔術師は愚かドールの基準すら越えてる。けどそんだけじゃ立ち行かないのが軍隊ってもんなんだ」


 ラウドは通路の途中にある階段を降りる。その行く先は一つしかなく、ラウドの話に耳を傾けながらも着いていくアルトはその時点で嫌な予感を感じていた。


「お偉いさんは頭が固くて融通が利かず、要求以上のアドリブは求めてないんだ。要は突き付けた問いにイエスだけで答える人間しか求めてない訳よ。ホント、上があんなじゃなきゃ俺もここの教官なんか引き受けなかったのにな。……いやそんな話はどうでもいいか」


 本当にどうでもいいと思いアルトは尋ねた。


「それで、なんで俺を呼び出したんですか」


「ああ、そうだった。つまりお前には再試験を受けてもらう」


「再試験?」


「そう。特別措置で前列の無い話だ、拒否は出来ないと思えよ」


 そう言い、ラウドは降りきった階段の先にある巨大な両扉に差し掛かる。そして躊躇う事なくラウドが開いた扉の先は試験なんかで使う闘技場があった。


「そして再試験は当然前回と同じ内容の試験だ。上は今度こそ勝てば在学を認めるとハッキリ言った」


 そしてその闘技場の中心には遠目から見ても分かる程の巨漢の姿があった。この話の筋からしてもその人物の正体は察する事が出来るが、そうでなくとも一目見ればそれが誰かはこの学園の人物なら知っている。


 スティル・フィルハート。末席の自分と対極に位置する存在。


「ブリテンでの一件を聞いた」


 アルトが目の前に立つなり、早速スティルは口を開く。


「クトゥルフの眷属と戦ったという割にお前は変わり無いな。まあ無事で何よりだ」


「こう見えて何度も死にかけてますがね」


 軽口のように告げるアルトであるがそれは事実であった。それを証明する怪我が今はどれも治ってしまっているのが口惜しく感じる。


「という事で、今回もまたスティルと戦ってもらう。負けたら退学。もう何の言い訳も効かない」


「かと言って負けてやるつもりは無いがな」


 と口を挟むスティルはある事に気が付く。


「武器を持っていないようですが?」


 そんな疑問をスティルはラウドに向ける。すると「あー」と声を漏らしながらラウドはバツが悪そうに応えた。


「こいつブリテンで武器全部失くしたんだ。おまけに訓練用の剣は何本も折ってるから、学園側から剣の支給も止められてな」


「なるほど……」


 それを聞いてスティルは腰の剣を抜く。そしてそれを徐にアルトへと投げた。


「何のつもりで?」


 片手で受け取りながらアルトは尋ねる。


「ハンデだ。負けてやるつもりは無いが、手の内を知って、尚且つ一度勝った相手にそのまま戦っても意味がない」


 そう告げるスティルは拳を構えて見せる。どうやらスティルは素手で戦うつもりのようだった。


 だがそんなスティルへアルトは剣を投げ返す。


「何だ、折角のチャンスを不意にするのか? それとも、丸腰で勝てると俺を舐めてるのか?」


 スティルはアルトの行動に若干の憤を見せる。そんなアルトの行動を見て「あちゃー」と片手で顔を覆い天を仰ぐラウド。そんなラウドを見送りつつアルトはスティルに告げた。


「生憎剣は得意ではないので。それに、舐めているのは先輩も同じではありませんか?」


 そう告げてアルトは両腕を胸の前に合わせながら両拳を自分の顎の前で構えて、小さく丸まるような特異な構えを取る。


「ほう、眷属相手に帰還して気がでかくなったか?」


 そうアルトに返しながらスティルは剣を腰に戻す。対して既に臨戦体勢のアルトはそれに応えようとはせずに構え続けていた。


 もうこうなったらアルトは何も言うことを聞かなくなってしまうのを知っていたラウドは思わずため息をついてから二人に告げた。


「話は済んだな? ならさっさと始めるぞ」


 そう言ってラウドは両者の間に入った。


「両者構え」


 そこからラウドは垂直に立てた手を掲げる。


 スティルは剣を抜かず、先程のように右手を顎に添えて左手を鳩尾の辺りまで降ろして構えた。


「始め!──!?」


 ラウドが手を振り下ろした瞬間だった。


 十メートルは離れていたアルトが、ラウドが引く間もなくスティルの懐へと潜り込んでいた。


 いつもの詠唱はしていない、素の身体能力でアルトの動きは人間の動体視力を凌駕していた。そして驚愕するラウド同様、スティルもその動きに驚きの表情を浮かべている。


 それ故だろう。体勢を低くしたアルトがそのまま下から左拳でボディブロウを放って来ると本能的にスティルは判断する。スティルからは死角になっている左手を警戒していればそれは尚の事だった。


 だが、外から見ていたラウドは慌てて下がりながらそれを見ていた。


 ボディブロウは囮だ。アルトは左手へと注意を向けて屈むような体勢になりながら大きく弧を描くような縦軌道で右拳を放っていた。


(しま──)


 最早思考すら追い付かない。スティルがそれを視界に捉える頃にはもう眼前まで迫っていた。


(もらった!)


 対してアルトはその手応えに勝利を確信していた。だがその瞬間だった。


 アルトの脳裏にふと、頭から血を流す彼女の姿が過る。


 そしてその瞬間アルトは全身から冷や汗が吹き出すのを感じ、思わずその場から大きく飛び退いてしまう。


 その一連までがあまりに一瞬だった。皆が皆、それぞれ別々のものに驚愕しながら無音がその場を制した。


(何で……)


 アルトは胸の奥から吹き出す罪悪感に似た感情に歯を食い縛る。


(何で今になって……!)


 今は試験に集中すべきだ。そう自分に言い聞かせる。だが脳裏に焼き付けられた彼女の姿が拭いきれなかった。


「舐めているのか貴様っ!!!」


 すると突如、スティルの怒号が闘技場にこだます。ラウドはその怒声に肩を跳ね、アルトもハッとさせられる。


「まさか試験に付き合ってやっているにも関わらずここまで愚弄して来るとはな。良いだろう、ならば本気でやってやる!」


 そう告げてスティルは剣の柄に手を掛ける。それを見てラウドは声を上げようとするが間に合わない。


「我は鉄壁の城塞也!」


 詠唱を終えてからスティルはアルトへと駆け出す。


 それを見て迎撃に出ようとするアルト。だが拳が振り抜けなかったの同様、躊躇いがその足を動かす事を許さない。


「待て!」


 遅れて声をあげるラウドだがもう遅い。


 スティルは既にアルトの目の前に迫って拳を構えていた。低く構えたスティルの左拳はほぼノーモーションで一閃し、アルトに向かう。


 遅れて動いたアルトは、その間合いからは回避出来ない事を悟る。顔を覆うように両腕を持ち上げ、更に体を丸めて防御の姿勢を取った。


 次の瞬間パキッ!と乾いた音が辺りに響いた。


「くっ!」


 苦痛に声を上げてアルトは実感する。速さ重視で威力に劣るはずのスティルの突きは、それを防いだアルトの右腕の骨を容易に折って見せた。


 骨折によって神経を絶たれたアルトの右腕は、本人の意思を無視して下がっていく。しかし腕を下げた向こうでアルトが目にしたのは、左拳を打ち下ろすように構えて二撃目を放たんとするスティルの姿だった。


 距離を取ろうと動こうとするアルト。しかし……


「アインス」


 スティルが詠唱する。瞬時にアルトは理解する。


 動けない。アルトの意図したタイミングではないその詠唱は、無理に動けばコントロールも利かずに全身の筋肉を断裂し、自らに再起不能なダメージを与える事を意味した。つまりこの瞬間、アルトは指一本動かす事が出来ないのだ。


 付け焼き刃の魔術を身に宿したせいで、それが最大の弱点として露呈してしまった。


(何で俺は……)


 スティルの左拳はそんなアルトの思考すら許さない。


 スティルの振り抜いた左フックは、アルトのこめかみを捉えた。再び乾いた音を辺りに響かせながらアルトはゆっくりと体が横に流れるのを感じた。


 全身に力が入らない。そのまま視界が暗転していく。


 消え行く視界の中、その暗闇の中には未だ血を流す彼女の姿があった。


(また負けるのか……?)


 暗闇の中ふとアルトは思う。その思考を最後に、アルトは意識がだんだんと離れて行くのを感じた。そして同時に、遠くから等間隔に何かの音が聞こえていていた。






 カチ、カチ、と音が響く。それは時を刻む音。


 質素な石造りの大部屋には、そこに鎮座する長テーブルと、その先にある時計のみが置かれていた。


「怒りが納まりませんか?」


 テーブルの席についていたアルトに、男性が声をかける。


 朧気ながらアルトは思い出す。それは、アルトが一人になってしまった時に拾ってくれた恩師の一人の声だった。


「なら、あの時を刻む音に耳を傾けなさい。嫌な事を思い出さないように、あの音だけに集中しましょう」


 そう男は提案する。その時自分が何と返したかは覚えていないアルト。男は部屋を離れ、再びアルトのみが部屋に残される。


 その時自分が何に怒りを感じていたのか。それにはすぐ察しがつくアルト。


【レン……】


 優しく自分を呼ぶその声。瞬間、アルトの心臓が細かく脈打ち、全身から熱が湧き出すのを感じる。


【レン】


 再び思い出す呼び声。止めどなく沸き起こる怒りにアルトは押し潰されて壊れそうになる。だがこの怒りは、決して消すことなど出来ないものだとも分かっていた。これは自分が生きている限り、永遠に付きまとう呪いなのだと。


 ならばこんなものに潰されてたまるかとアルトは時計の音に耳を傾ける。一刻を刻む音にアルトは集中していく、だがアルトを呼ぶ声はまだ聞こえた。


 まだだ、まだ足りない。アルトは一秒の時を刻むその間に十の拍を数える。それでも、それでも声はまだアルトの耳に残っていた。


 更にもっと、もっと集中しろと自らに念じるアルト。そしてアルトが耳にしたのは、1の時を刻む為に動く歯車の音だった。カチ、カチ、と一定のリズムで刻むその音はアルトから音を奪う。本当の無音の中をアルトは過ごす。そしてその無音の中にただただ意識を向け、あの声が聞こえて来るのを防いだ。


 だがその時だった。カチッと一際大きな音を時計は立てる。すると次の瞬間秒針の音を搔き消す鐘の音が響き、アルトは元の世界へと戻される。そして再び止めどない怒りが吹き出すのを感じながら、アルトの視界に光が溢れた。









 横に流れる体を踏ん張りながら、アルトは倒れるのを防いだ。


 そして沸き起こる怒りに任せ、スティルの空いた脇腹へと拳を振り抜く。


 コォン!!と大岩同士をぶつけたような音が場内に轟く。同時にアルトは察する。左拳が砕けた事を。


 だがそんな事は構わずに右拳を握るアルト。難なく拳を握れる事で骨折が完治しているのを確認しながら右拳を、前に構えられたスティルの腕をごと腹部へと叩き込む。


 先程とは違い、何重にも重なった乾いた音が木霊す。右拳がバラバラになったのを感じながら、再度アルトは左拳を握る。


 そのまま今度は縦の軌道で、下からアルトの左拳がスティルの鳩尾に突き刺さる。


 先程のどれとも違う鈍い音が響いた。確かな手応えを感じながらアルトは気が付く。


 スティルが動かない。動く気配がない。あれ程の技術を持ったスティルが、魔術を発動したからと簡単に攻撃を許す訳がないとアルトは疑問に思う。しかし攻撃を加えたスティルは、確かな手応えこそあったものの倒れる気配も無い。


 アルトは次の一撃を繰り出そうと右拳を固める。握れる事で骨折の完治を感じながら、それを振り抜こうとした時だった。


(!?)


 動かない。右に構えた拳を振り抜こうとした途端、その拳は何か壁にぶつかったように前に進もうとしなかった。


 ならばと再び左拳を構えるアルト。


 しかしそこでまたある事に気が付く。


 ゆっくり、ゆっくりとスティルの体が前に傾くのが見えた。


 顔を上げれば、スティルのその目はもうどこも見てはおらず、その口から赤い筋がゆっくりと垂れる。


 それを見送ると同時にアルトはもう一つ気が付く。目の前に銀に輝く何かが向かって来る。鋭く輝くそれは剣の刃だとすぐに認識出来た。


 容易に回避は可能だが、状況が理解出来ないアルトは一旦そこから飛び退く選択をする。そして全容が確認出来るようになった時、いつになく険しい表情のラウドと、傾きながら一切動かないスティルが目に入った。


 次第に時計の音が遠くなって行くのをアルトは感じる。


「馬鹿野郎!!」


 完全に時計の音が聞こえなくなると、次いで聞こえて来たのはラウドの怒声だった。


「ここまでやれと誰が言った!」


 ハッとして漸く事態を把握するアルト。


 スティルは既に意識がなく、そこに追撃を加えたようとした自分を無理やりにでも引き剥がそうとしたラウドが、魔術を用いて自分を止めにかかったのだ。しかしそれでも止まらないアルトに真剣で一撃入れて無理やり引き下がらせたのだった。


 アルトを下がらせたラウドは直ぐ様剣を鞘に納めて前のめりに倒れたスティルを起こす。スティルの意識は完全に切れており、すぐに目を覚ます様子はなかった。


「もういい。今回の組手の結果はお前の勝ちだ。部屋に戻れ」


 そう告げてラウドはスティルの肩を担いでその場を後にする。


 ただ一人、闘技場に残されたアルトは自らの手を見た。


 間違いなく二度、いや三度の骨折を負ったアルトの拳は奇妙な程に綺麗なままだった。だが一瞬、アルトにはドス黒い血にまみれた手に見える。


 慌てて目を反らすアルトだが、反らした先でも目に浮かぶのは額から流れる彼女の血だった。未だブリテンでの悪夢からは抜け出せず、その上今の現実でさえもがアルトを苦しめる。


 それでも強くなったのは実感出来た。だが自分の目指した強さとはこんなものだったのだろうかとアルトは思ってしまう。


 皆強いからこそ目標があって、強くなれば自分もそれが見えると思っていた。強い人間ならもっと色々なものが見えて、世界が開ける気がしていた。しかし勝利したというのにアルトは自分の手の内からまた何かが流れ落ちるのを感じてしまう。これ以上何も喪いたくないから強くなろうとしたのに、もっと大きなものを抱えようとして強くあろうとしたのに。


(違う……俺は)


 何にもすがりたくない。誰にも頼りたくない。そう自分に言い聞かせて来た。いや、今だってそう自らに言い聞かせている。だがそれが、自分が本当に求めるものと食い違う事をアルトは感じはじめていた。


 ようやく僅かな力を手にして見えて来たのは、実は間違いなのではないかと。


(違う、違う! そんなはず無い! 俺は! 俺は!!)


 気が付けばアルトはその場に膝をついて地面に踞っていた。


 認めたくない。今までの自分が間違いだったと、これまで自分が積み上げて来たものが無駄だったなんて思いたくない。


 だがそう思わずにはいられない無力感が、アルトの膝を降り、立ち上がる事を許さない。


そしてふとアルトは気が付く。足元にドス黒い血が流れていることに。


 顔をあげたこの先には、黒い肉の塊があった。黒い塊の先には、前へと連なる牙が生えている。ヴァルバロイ。あの地獄にいた生物の姿がそこにはあった。こんな所に居るはずも無いのに、アルトにはその姿が見えていた。


 まだあの地獄から抜け出せずに居る。


「アァァァァァァァァァァァ!!」


 耐えきれずアルトは叫びだす。


 我ながら無駄な事を。そう冷静に吐き捨てる自分が傍らにいながらも、それがアルトの無力感を拭う事などなかった。


「アルト!」


 だがその時ふと声がした。思わずアルトは声のした方を見る。


 すると訓練場の入り口に、久しぶりに目にする顔があった。


「ルイス……先輩?」


 久しぶりに聞いたその声の先にはルイスの姿があった。アルトは慌てて立ち上がる。


「どうしたんだ!? 何かあったのかい?」


「いえ……いえ、何でもありません」


 気が付けば身の回りの景色が元に戻っていた。


「なんでこんな所に?」


 アルトが問うと、ルイスはまだ安心出来ない様子でアルトに寄り添う。


「大丈夫かい? 君こそなんでこんな所に?」


 寄り添おうと伸ばしたルイスの手をアルトは弾く。


「大丈夫ですから」


「そ、そっか。ロイド教官がスティル君を担いで来てたから何かあったのかと、駆け付けて来たんだけど、そこで君が叫び出したから焦ったよ。まさか学園にまで奴らが来たのかって」


「いえ、やったのは俺です」


「え!? 君が!?」


 ここに来た時のように派手に驚いて見せる。


「凄いじゃないか! 彼学園のトップの成績だったんだよ!」


「殺しかけました」


 その言葉にルイスは言葉を失ってしまう。


 沈黙が場を制する。


 絶句するルイスをよそに、アルトはその場を去ろうとする。


「待ってくれ」


 そんなアルトの肩を掴んでルイスが告げる。


「実は君を探していたんだ。どんな事があったかは解らないけど、僕らは君にお礼がしたいんだ」


「礼?」


「ついて来てくれるかい?」


 有無も言わさずルイスはアルトを連れて戦士ギルドの集合場所であるギルド会館へと向かう。そしてそんな傍ら、再び(またか)と思ってもいた。








「アルト!」


「アルト先輩!」


 ギルド会館に着くなり、ニーナとアルの二人に出迎えられる。


 いつもと同じ戦士ギルドの集会所へとアルトはたどり着く。しかし一方でいつもとの違いもあり、普段召集でもなければ人の集まらないこの石造りの空間には、今や自分たち四人しか居ない。喧騒の無いこの場所は、あまりに空虚で寂しいという印象を改めてアルトは感じていた。


「じゃあ二人とも!」


 と、アルトの前にルイスは躍り出て三人が並ぶ。


「「「せーの!」」」


 声を合わせた三人が、バッと身を引いたその先には、白い布で巻かれた何かがあった。


 全長は1メートル半ありそうなそれは、大振りの花束に見えたが、布で被われていて何だか分からない。


「………………………………」


 どう反応して良いのか分からないアルト。無言で三人を見つめていると、三人の表情が段々と崩れて行く。


「なんだノリの悪い奴だな!」


 痺れを切らして最初に発言したのはやはりアルだった。


「だから言っただろう? アルトは何プレゼントされたってきっと無反応だって」


 まあまあと嗜めるルイス。するとその間を割ってニーナが話し出す。


「私達、アルト先輩にお礼がしたかったんです。みんなブリテンで先輩に助けられたから、何か出来ないかって考えて、ささやかですけどプレゼントを用意しました!」


「プレゼント?」


「さあ、開いてよアルト!」


 意気揚々と語るルイス。ニーナも笑顔を浮かべたまま再び道を開ける。一度何かあれば黙っていないあのアルすらも笑みを浮かべている事に不気味さを覚えるアルト。


 もしや騙されているのでは? と疑ってしまうアルトだが、開けない事には話が進まないとアルトは机に向かい、白い布を解く。


 妙に重いなと思いながらアルトは丁寧に布を解く、その時だった。


「!!」


 

 布から黒い物が覗き、アルトは大きくテーブルから飛び退いた。


 その三人の期待とは全く反した反応に、思わず皆声を上げてしまう。


「アルト!?」


「先輩!?」


「どうしたんだアルト!!」


 先程も異変を察していたルイスが直ぐ様駆け寄ろうとする。


「来るな!!」


 だがそれに対してアルトは声を上げて制する。


 動悸が起き、呼吸が荒くなる。そして全身から汗滲み出すのをアルトは感じる。


 アルトの目は白い布に向けられていた。その布の中から覗いていたのは、異形の怪物、ヴァルバロイの腕だった。


 次第に視界が歪むのをアルトは感じる。


「どうしちまったんだ!」


 アルが声を上げる。そんなアルに目を向けると、肌が真っ黒く爛れて目は白く濁っていた。


 ハッしてアルトは三人を見比べる。


 すると三人共アル同様の姿になっていた。


 気が動転しそうになるアルト。だがふと気が付く、これは現実ではないと。


 顔に手を宛て、アルトは大きく頭を左右に振る。そして顔を上げると視界は元に戻っており、ヴァルバロイの腕は消え、ルイス達三人も元に戻っていた。


「アルト……大丈夫かい?」


 先程のアルトの姿を見ていて異変に気付いていたルイスが優しく問う。


 動悸が収まるのを感じながらアルトは答えた。


「何で三人は大丈夫なんだ」


 まだ興奮が治まり切らないアルトは逆に三人に尋ねた。そして、答えを求めずに続けた。


「俺が、俺だけがまだあの地獄から帰って来れてない。お前らはどんな気分で今俺の前に立ってるんだ」


 言ってからアルトは気が付く。三人の表情が暗くなるのを。そして、それを見て自分が酷く後悔した事も。


 そしてその後には決まって血を流す彼女の姿が脳裏に過るのだ。幻視の後には決まってそれが続いていた。


 薄々アルト自身気が付いていた。あの一連の事件が自身にとってのトラウマとなっている事に。


「……こんなつもりじゃなかった」


 やがて落ち着きを取り戻しつつ、アルトは続けた。


「あの時はきっとそれが正しいと思ってた。けれど戻って来れば嫌な事ばかりだ。到底、俺がした事が正しかったとは思えない」


 自分の時間が出来る程に、一人の時間が続く程にあの瞬間へと立ち戻される。本当は自分はまだあの場所に居て、これは自分が作り出した幻なのではないか? そんな考えが一瞬脳裏に過るだけで、今あるはずの現実がまるで夢うつつのようで現実感を感じられずに、気がおかしくなりそうなのを何度も抑えた。


「私は間違ってないと思います」


 ふと、そんな声を上げたのはニーナだった。


「アルト先輩のおかげで私は生きて帰れました。今私がここに居るのも、今の私があるのも、全部あの時アルト先輩が来てくれたからです。だから間違っていたなんて言わないでください」


 以前のニーナからは想像も出来ない程に強くハッキリとした発言に、思わずアルトは言葉を失ってしまう。


 それに続くようにルイスも口を開く。


「君は僕の……いや、僕達の我が儘にも応えてくれた。それはきっと君の望む結果が、君の選択肢の中にあったからじゃないかな? もしかしたら、君の望まなかった結果もあるかもしれないけれど、君の望んだ結果の中に今の僕達は居なかったかい?」


「……分かりません。ただ」


 と、そこでアルトは言葉を探してしまう。


 ただ何だ。自分に問いかけるがその言葉は胸の内になければ口に出ることもなかった。


 だが、確かにルイスの言う通り自分の望む結果の中に三人が生き残る事があったのは、何となくアルト自身も気が付き始めていた。


 そうアルトが己の内で答を求めていると、ニーナとルイスの二人がアルを見つめる。


 するとバツの悪そうな顔をしながらアルも口を開いた。


「俺も……その、助けてくれて、ありがたく思ってるぜ?」


「は?」


 アルの言葉にだけは真っ先に反応するアルト。すると、アルが赤面した。


「ありがとうって言ってんだから感謝しろって言ってんだよ!!!」


 と、いつもの調子で怒鳴るアル。そんな様子を、ニーナとルイスは苦笑いする。


 ふと再び包みにアルトの目が向く。


 徐に歩き出したアルトは再び包みを解いた。


 黒く覗いていたそれは木の鞘で、完全に包みを解いたそこにあったのは、分厚く無骨な大剣である事に気が付く。


 これ程の大剣なら、値段など馬鹿にならないのはいかに世間に疎いアルトであってもすぐに分かった。


「俺にこれを?」


「そうだよ。さっさと受け取れよ」


 意外にもすぐに返答したのはアルだった。


 しかしそれに気が付かずにアルトは大剣を手に取る。


 重い。アルトですらもそれは決して軽いと呼べるものではなかった。


 だがそんなアルトの思いと裏腹に、後ろで「おお!」と声が上がり、アルトは振り返る。


「マジか……」


「一人で持てるんですか? 重くないんですか?」


「それ、三人でも重たくてここまで持って来るの大変だったんだよ!? 流石アルト、振って見せてよ!」


 三人ともアルトに驚いて見せるも、その勢いに若干引き気味のアルトは、言われるがままに大剣を鞘から抜き、三人から離れた所でその柄を両手に持つ。


 正面に構えると、よりその重さをアルトは感じる。


 大きく足を開かなくてはまともに構えている事が出来ない。だが、だからと構えられない程に重い訳ではない。


 それを感じて思いきってアルトは大剣を上段に構えて振り下ろす。


 一切飾り気のない片刃の刀身が、空気を押し潰すような鈍く音を奏でる。


「くっ!」


 そして振り抜いた大剣は、危うく止め損なって床を破壊する直前で止まる。


 振り抜いた衝撃は狭い室内に僅かな風を生じさせた。


「重いな」


 振り終えてから一言アルトは告げる。


「ははは……本当に振りやがった」


 と、渇いた笑いを思わず溢すアル。


 ニーナは言葉が出ない様子だった。


 そして最後に、冷静な口調でルイスが言う。


「君はよく剣を折るから全力で剣を振れる剣を探してたんだ。少し極端ではあったけど、きっと振れると思っていたよ」


「本当に貰って大丈夫なんですか?」


 大剣を鞘に戻しながらアルトは尋ねる。


「いいさ。それを振ることも、そもそも持つことも君くらいにしか出来ない。それとも気に入らなかったかい?」


「いえ……。ただ何を返したらいいのか分からない」


 ルイスは吹き出し気味に応える。


「最初に言ったじゃないか。それは三人の気持ちだ。むしろそれじゃ恩を返しきれてないと思ってるくらいだよ」


 と、言われてアルトは思わずアルを見る。


 が、不満そうに眉間に皺を寄せたアルはすぐに視線を外す。


 本当にそう思っているのだろうか?


 だが、それを聞いて少し気が楽になったアルト。大剣を素直に受け取る決意を固める。


「ありがとう」


 と、アルトが告げた瞬間三人が驚愕の表情を浮かべる。


「アルトが……」


「え、先輩が?」


「そんなまさか……」


 そんな三人の反応に苛立ちを顕にするアルト。


「悪かったな」


 といつもより語気を強く言い放つ。


「あ、ごめん。ただアルトから感謝の言葉を聞けるなんて想定外だったからつい……」


 とルイスは苦笑いを浮かべるが、ニーナとアルはまだ驚愕の表情を浮かべていた。


(そんなに珍しい事なのか?)


 そうアルトが思ってしまうが、思い返してみればそもそも感謝するような事を三人にされて来なかったと思い出すアルトは、素直に感謝を伝えた事を酷く後悔した。


「言ってみただけだ。二度と言わん」


 そう告げて大剣を抱えるアルト。そのまま逃げ出すように部屋から出ていく。


 最初は若干戸惑う三人だったが、結局その後を追う事をアルトが望まないと思いとどまるのだった。






「はぁ……」


 思わずため息を漏らしながら廊下を歩くアルト。


 思い返してみれば、何とも自分らしくないことをしたと思った。


 だが、あの言葉は不意に出たものではないことをアルト自身自覚してはいた。


 あの言葉は単に物を貰ったからそのせめてものお返しにと言った言葉ではない。


 あの瞬間アルトは気付いたのだ。ルイスの言う通り、自分が三人の生存を願っていた事に。


【お前を見付けた時少し安心した】


 それは間違いなく自分が言った言葉であり、今更否定のしようがない素直な気持ちだった。


 そしてあの瞬間アルトは改めて、いやこちらに帰って来て初めて実感した。三人共生きているのだと。そして同時に、忌まわしいブリテンでの記憶が治まって行くのを。


 今ギリギリで正気を保っていられるのは、ディオとの口論や、再試験、そして三人の帰還という要因があってこそなのだ。皮肉な事にアルトを煩わせるそれらが、アルトをアルト足らしめる。どう足掻こうとも一人では居られないという事実に違いなかった。


(それでも……)


 そう考える事さえもが、また繋がりだと気付いていながらも、葛藤だけは切り捨てる事が出来なかった。


 そこに……


「アルト!」


 ルイスが追ってくる。今度は何なんだ、と思いながらもアルトは足を止めてルイスへ振り替える。


「はぁ……本当に重くないんだね。もうこんなに歩いてるなんて」


「要件はなんですか」


 待てずにアルトは尋ねてしまう。


「ああごめん」と告げてからルイスは真っ直ぐにアルトの目を見てから続けた。


「みんなに黙ってるから正直に言って欲しいんだけど、君は幻覚が見えてるんじゃないか?」


 真面目な面持ちで問うルイスに、何か確信めいたものを感じるアルト。


「……時々見えます」


 と、嘘は通じないと判断したアルトは真実を口にする。


「やっぱり。アルト、医務室でカウンセリングを受けた方が良い。その様子だとまだ受けてないだろう?」


「向こうを出る初日に受けました。異常もないと診断されましたが」


「そんな簡易的なものじゃ駄目だよ! 幻覚が見える時点で並みの心的外傷後ストレス障害じゃない。そもそもヴァルバロイに追われて正気を保ってられる時点で普通の人間からは考えられないくらい異常なんだ!」


 と、必死に訴えるルイス。


「後で行きますから……」


「駄目だ! こればっかりは引き下がらない」


 この様子では断れないと理解するアルトは、渋々と「分かりました」という言葉を返す。


「僕もついて行くから、大丈夫だ」


 どうやら逃げる事も出来そうにないと思うアルト。もっとも、アルトが医務室に行きたくないのは単にカウンセリングを受けたくないからという理由だけではなかった。








「で、何? 何しに来たの?」


 不機嫌そうに目を吊り上げた白衣の女性。邪魔なのであろう長い茶髪を後ろに一つに縛り、真面目そうな雰囲気がより威圧感を煽る。


 セレ医務官。アルトがとにかく苦手とする人物であり、まさにこれが医務室に行きたくない理由そのものだった。


 しかも、六人居る医務官の内毎回必ず担当がこのセレ医務官なのだ。


「他に誰か居ないんですか」


 思わず苦言を呈してしまうアルトだが、それが不味かった。


「は?」


 悪態と共にセレの目蓋が更に鋭くなる。


「今は夏季休暇なのよ? おかげで今は校医が二人しか居ない訳。にも関わらず、肋骨と腕の骨折に内臓破裂した重傷の患者が運ばれて来て忙しい中、わざわざ相手にしているのだけど不服? というか、あなた何でいつも忙しい時にしかも私しか相手に出来ない時に狙ったように来るのかしら? 気持ち悪いわ」


 思わず病状が悪化してしまいそうだと思うアルト。これ以上何も言えないアルトは助けを求めるようにルイスを見つめる。


 想像以上の仕打ちに面食らうルイスだったが、引き気味ながらに弁明する。


「あの、お忙しい所すみませんセレ医務官。耳に入っているかは存じませんが、彼はブリテンでクトゥルフの眷属と遭遇してその後遺症があるみたいなのでカウンセリングして頂きたいのですが……」


「何? PTSDのカウンセリング? 心療内科は私の担当ではあるけど、クトゥルフ関連となると力になれないわよ」


「え、何故です?」


「クトゥルフと遭遇した場合、それが心的外傷なのか精神汚染なのか分からないからよ。もし後者なら手の施しようが無い事になるわね」


「そんな……」


 愕然として言葉を失うルイス。代わりにアルトがその先を尋ねる。


「クトゥルフの精神汚染を受けた人間はどうなるんですか」


「厳密にどうなるかは知らないけれど、皆最後には自害するそうよ。確かレポートでは声が常に聞こえいてそれに耐えられなくて頭を壁に打ち付け続けたとか、迫り来る幻覚に耐えられなくてナイフで喉を切り裂いたとか、自分の体が眷属に変わる幻覚を見て内臓を引きずり出したとか、口から触手が出る幻覚を見て自ら喉をーー」


「もう良いです!」


 それ以上聞くとまた幻覚を見そうだとアルトは声をあげてセレの言葉を遮った。


「そう。じゃあ私からも一つ良いかしら? あなたラウドの所の生徒よね?」


 小首を傾げてから「はい」とアルトは応える。


「重傷者がここに運ばれて来たと聞いて何か思い付かない?」


「…………」


 何も応えられないアルト。それはきっと偶然なんかではなく、自分の過失であるのを薄々感づいていた。


 恐らく運ばれて来た重傷者というのはスティルだ。


「思うところがあるようね。まあ深く問い詰める気はないわ。けど、確かに重度のPTSDではありそうね。一応カウンセリングくらいなら──」


 その時だった。医務室にある休養室の内一つが勢い良く開かれる。


「スティルを傷付けたのはあなたですか!」


 小柄な背丈に茶髪のポニーテール。


 声を張り上げ現れたそれは、いつか見た少女だった。

[解説]バカの剣

 アルトが三人から受け取った大剣。大剣と呼ぶのが憚られる程に大型であり、さながら鉄塊である。売れ残った雑多な刀剣を再利用した刀身は一度溶かした鋳鉄であり、焼きは全く入っておらず、無駄に百キロ以上に及ぶ重量もあって本来は鑑賞用であって闘剣ではない。そもそもその重量の武器としては剣の姿である必要性もない事からバカの剣と名付けられた。

 三人はこれを露店で発見しアルトに相応しいと判断するが、この剣の名称を知っているのはアル一人。



[解説]クトゥルフの精神汚染

 クトゥルフの眷属と遭遇した者に顕れる精神異常。主な症状は幻覚幻聴。心的外傷後ストレス障害と似ている事から最近まで同一視されていたが、遭遇後からすぐに発症する者が多い事と、発症後の症状の一貫性、発症者の精神状態に左右される事なく突発的に発症する事からクトゥルフ特有の能力と認定された。

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