古き者
ローレシア――
それは魔法が空気のように満ち、人ならざるものが共に生きる世界。
かつてこの大地は、他種族同士の争いに焼かれていた。長い戦乱の果てに、人々は共存を選んだ。いつしか『戦争』という言葉は歴史の奥へと押しやられ、語られることさえ少なくなっていった。
世界は平穏を取り戻した――誰もがそう信じていた。
だがその平穏は脆かった。
夢のような日々は長くは続かず、人々はすぐに知ることになる――それが幻想に過ぎなかったということを。
五十年前。
静寂に満ちた地に、文字通り火が堕ちる。破滅は訪れた。南の大陸に、天から黒い彗星が降って来たのだ。
それが、世界の終わりの始まりだった。
凶星には、未知の存在が付着していた。後に〈クトゥルフ〉と呼ばれるそれは、異形の姿を持ち、生物とは呼べぬ災厄だった。
森は喰われ、人々は侵され、大地は次々と“汚染”された。
南の大陸は抵抗する間もなく蹂躙され、十数億の人間がいた大地はわずか十年で異形の地――ルルイエへと姿を変えた。
そしてクトゥルフは、なおも北を目指した。
北の諸国は連合軍を結成し、死守戦線を築くことで、辛うじてクトゥルフの侵攻を食い止めた。
こうして世界は一時的な停戦状態を迎えたものの、大陸の半分はすでに“死の地”と化し、人々の心から希望は消えかかっていた。
各国は打開策を求め、長い議論の末に一つの答えへと辿り着く。
――対クトゥルフ専門の魔法機関の設立である。
見渡す限り、静かな湖が広がっている。風を映して揺れる水面は、空の青を抱いたままどこまでも続いているように見えた。
春の風が山を下り、湖にさざ波を走らせる。
一羽の白い鳥がその風に乗って舞い、赤い屋根が連なる街を越え、森を抜け、さらに高みへと昇っていく。
やがて風は山腹に建つ学舎へたどり着いた。
山の中腹、石造りの建物が連なる高台に、ひときわ高く突き出た展望台があった。
春風が吹き抜け、赤い屋根の街並みと遠くの湖を見渡すその場所に、一人の少年が立っていた。
眠たげな灰色の瞳。無造作に風に揺れる黒髪。孤立しているわけではないのに、どこか世界から距離を置いているような雰囲気をまとった少年――アルト。
「アルト」
背後から声が飛ぶ。呼ばれた名に、少年はわずかに振り向いた。
振り向いた先には、一人の少年が立っていた。金色の髪に澄んだ青い瞳。整った顔立ちと快活な雰囲気を持つ少年――ディオ。アルトのクラスメイトであり、数少ない“知人”の一人だ。
「眠そうな顔して何見てたんだよ。湖に美女でもいたか?」
「眠くない」
「眠くないのにその顔はどうなんだよ」
ディオは苦笑しながら肩をすくめる。こうして的外れな冗談を投げ、アルトから反応を引き出そうとするのが、彼のいつものやり方だった。
「何だ、美人がいないのは否定しないんだな」
「……さっさと帰れ」
「はいはい、無視しないでくださいアルトさん」
ディオの軽口を受け流しながら、アルトは踵を返す。二人は並んで展望台を後にした。
彼らが通うのは《バーミリオン魔法戦術学校》。山頂に築かれた要塞のような学舎は、外観は古城を思わせる石造りだが、その実態は対クトゥルフ戦を担う人材を育成する専門機関である。
元は一般教育も行う学舎だったが、《ドール》の監修下に置かれてからは方針が一変した。いまでは戦場で生き残る術を叩き込む「戦闘教育機関」としての色が濃い。
一応、基礎魔術や歴史などを学ぶ普通科も存在はする。が、そこに通う生徒は全体の一割にも満たない。誰もが戦う道を強いられる時代。そんな時制がこの歴史あるエリート校にも延びて来ていた。
「お前、明日が模擬戦だって実感あるか?」
ディオが歩きながらふと思い出したように言う。
「……お前こそ」
明日は学年ごとの担当教官と一対一で戦う実技試験の日だ。その準備のため、今日は授業が半日で終わっていた。
生徒たちはそれぞれ訓練場や自室で魔術の調整をしている……はずだった。
「で、お前はこれから訓練でもするのか?」
ディオが横目でアルトを見る。
「お前が居なきゃな」
「お前なぁ……」
「お前と違って俺には余裕が無い。そんな風に落ちこぼれを構う暇も無い」
皮肉を返すと、ディオは肩をすくめて笑った。
「相変わらず素直じゃないな。だからまた訓練に付き合ってやろうっていうのに」
「お前はお前の訓練をしろ。俺とお前とじゃ、求められるものが全く違うだろ」
アルトには魔術の才能がない。
扱える魔術はまともに運用出来るものではなく、それは古く非効率で、もう誰も使わない時代遅れのものだった。
〈古き者〉
歴史に埋もれた魔術を扱う彼を周囲はそう呼ぶ。しかしアルトは、そのあだ名を否定しなかった。むしろ、本名で呼ばれるよりはずっと良いとすら考えていた。
彼は自分の本当の名を呼ばれることを嫌う。嘲笑混じりの渾名でさえアルトにとっては心地が良かった。
「相変わらず素直じゃないな」
「悪かったな」
ディオは呆れたように笑い、アルトはため息をつく。素っ気ないアルトにどうにかディオが会話を続けながら二人は石畳の階段を下り、やがて寮への扉を押し開ける。
バーミリオン魔法戦術学校の学生寮は、それを校舎と誤認させるほど巨大だ。各生徒に一部屋が与えられ、訓練のための設備も整っている。
入り口のホールに入るなり、ディオが話を戻した。
「に、しても。模擬戦が生徒対抗じゃなくて良かったぜ」
「………………」
「ここは何でだよって聞いてくれよ」
「……何でだよ?」
面倒だと思う態度を隠す事無く、アルトは尋ねた。
「そりゃ、お前と対戦しなくて済むからだ」
ディオはさらりと言ってのけた。
「は……」
アルトは鼻を鳴らし、その言葉を受け流してディオの言葉を真に受けない。
ディオはこの学園でも上位の実力者だ。魔術理論に通じ、剣にも長け、状況判断も早い。優等生という言葉は彼のためにある。そんな相手が、自分と戦いたくないと言う理由がない。
「俺はお前が強いって話をしてるんだぞ?」
ディオは真顔で言った。冗談ではない。
「……そうか」
「そうさ。もし模擬戦で俺の相手がお前だったら悪いが、全力で逃げるね」
「…………」
アルトは返事をしなかった。鼻で笑って終わらせることもできたが、それすらしなかった。
どうせ社交辞令だ。お前ほどの優等生が本気でそう思っているはずがない。そんな言葉を胸にしまう。
ディオの言葉をアルトは冗談として笑い飛ばすことはできなかった。その言葉が自分の実力に見合わないものであることを、誰よりも自分が知っていたからだ。
強くなりたい、その思いだけは昔から変わらない。誰の助けもいらないほどの人間に成りたいと。
「……アルト?」
ディオの声で思考が途切れる。
気づけばもう寮の自室の前に立っていた。いつの間にか足が勝手にここまで運んでいたらしい。
「じゃあな。明日の模擬戦、お前の番を見物させてもらうよ」
「……勝手にしろ」
アルトは短く返すと、扉に手をかけた。背中越しにディオが笑った気配がしたが、振り返らない。
アルトは部屋に入り、静かに扉を閉める。六畳ほどの簡素な部屋。机と本の入っていない本棚、そして寝具以外に余計な物はない。生活のためではなく、戦うための部屋――そんな印象さえあった。
無言のまま制服の上着を脱ぎ、椅子の背に掛ける。机の上には黒いベストが丁寧に畳まれていた。ベストには、小型の投擲ナイフを収めるための専用ポケットが並んでいる。
アルトはそれを慣れた手つきで身に着けた。
次に、革製のリストバンドを手に取る。金属の留め具はすぐに緩み、内側のナイフホルダーも自分で縫い直した跡が残っている安物である。それでもアルトは手際よく両手首に装着し、指先で留め具を確かめた。
使えればそれでいい。
壁に立てかけてある片刃剣も同じだ。量産型の廉価品。重さのバランスも悪く、鍔は少し欠けている。だが、手入れだけは丁寧にしてあるのがわかる。使い込まれた革のグリップには、日々の鍛錬が刻まれていた。
アルトは剣を腰に下げ、制服の上着を羽織って部屋を出る。
廊下にはまだ数人の生徒が残っていた。明日の模擬戦の話題で盛り上がっている声が遠くで聞こえる。だが、ディオの姿はもうなかった。
それを確認してから、アルトは小さく息を吐く。以前、一度だけディオが訓練に付いてきたことがある。それは悪意ではなく、ただの善意と友情からだったのだろう。
だが手持ちの武器が少ないだけに、鍛錬を他人に見られたくない。それが才能溢れる相手なら尚の事だ。
最も、これから行く場所に誰も近付けたくない大きな理由は他にあるのだが。
足音だけが響く廊下を進む。夕刻に近い時間帯の寮は静かで、人の気配はほとんどなかった。
南棟の突き当たりまで来ると、アルトは右へ折れる。正規の訓練場へ向かう通路ではない。生徒のほとんどが使わない、裏口へ続く廊下だ。
裏口は施錠されていない。だが、ここを通る生徒は滅多にいない。好き好んでリスクのある方へ向かう者など、そういないからだ。
その先は学園の管轄区域外である《セイレーン大湖》がある。水平線の先まで広がる巨大な湖だ。許可なく立ち入れば罰則がある場所だが、アルトは構わず向かう。
扉の向こうには、人の手がほとんど入っていない山林が広がっていた。粗く組まれた丸太の階段が斜面に沿って続き、森の奥へ伸びている。
木々は濃い緑を揺らしながら風を通し、葉の隙間からこぼれた光が道に淡く降り注いでいた。
扉を閉め、丸太の階段を下り始める。足元には落ち葉が厚く積もり、踏みしめるたびに湿った音が鳴る。この道を使う者はほとんどいない。それは足跡ひとつ無いことが示していた。
アルトは一度だけ立ち止まり、階段を振り返る。風が吹けばこの道はすぐに埋もれてしまう。
(……そのうち掃除しておくか)
そう小さく息をつく。
アルトは再び歩き出し、静かな森へと消えていく。
森に入ると空気の温度がわずかに下がった。木々が陽光を遮り、足元には柔らかな影が落ちている。
風に揺れる枝の音。遠くで鳥が鳴く声。人の声がないだけで、世界はこうも静かになる。
アルトはこの場所が嫌いではなかった。余計なものがない。静かに呼吸ができる。それだけで十分だった。
やがて木々の切れ間から光が差し込み、視界が開けた。森を抜けた先に巨大な湖が静かに横たわっている。
風が吹くたび水面は銀色の鱗のようにきらめき、小さな波紋をいくつも広げていた。水は驚くほど透き通っている。湖底まではっきりと見えるその深さの中で、何かが静かに揺れていた。
アルトは周囲を見回し、息を整える。
(……まだ来てないか)
アルトは湖に背を向け、一本の木の前に立った。樹皮には円を描くように無数の傷跡が刻まれている。
木から三十メートル離れた場所で足を止め、一度だけ深く息を吸い、静かに吐いた。
風が一度だけ強く吹き抜け、木々の枝葉がざわめきを上げた。一枚の葉が枝から外れ、空中を緩やかに漂う。
その葉が自分の視線を横切った瞬間――アルトの右手が動いた。迷いのない一連の動作。袖の中から三本のナイフを抜き、解き放つ。
乾いた音が三度、木の幹に突き刺さる音が響いた。舞い落ちたはずの木の葉は空中で止まり、三本の刃に正確に貫かれていた。
アルトは一歩も踏み込まず、次の動きへ移った。残ったナイフを両袖から抜き放ち、四本を扇のように広げて放つ。
風を裂く音が走り、四本の刃は円を描きながら軌道を交差させすべてが狙い違わず、先ほどと同じ一点に吸い込まれた。
木の幹に並ぶ七本の刃。満足行く結果にアルトは息を吐く。
「すごいすごい!」
無邪気な声が湖の方から響いた。
アルトが振り返ると、澄んだ水面から翡翠色の髪を揺らす少女が顔を出していた。彼女は水に浮かびながら、笑顔でこちらを見ている。
「やっぱり君はそれが得意だね」
彼女は目を輝かせて言った。
「……子供騙しみたいなもんだ」
アルトは肩の力を抜いたまま答え、木に刺さったナイフへ視線を戻した。
彼女の腰から下は、人間のそれではなかった。臍のあたりから魚の尾へと滑らかに繋がり、翡翠色の鱗が光を受けて静かに揺れている。深い緑の髪に、澄んだ青の瞳、半身を巨大な魚に食べられたような少女だった。
彼女は人間ではない。上半身は少女の姿をしているが、下半身は魚――いわゆる〈マーメイド〉だ。
この世界で魔族と呼ばれた種族で、その数も減って人前に姿を現すことは滅多にないと言われている。もし出会えたなら幸運が訪れる――そんな話もあるが、アルトは信じていなかった。
「うん。今日も眠そうかな」
彼女はいつもの調子で、ためらいもなくそう言った。
「いつものことだ。それより明日、模擬戦だ」
「あ、じゃあ今日もやるかな。いつものやつ」
彼女は嬉しそうに目を細める。
アルトは小さく頷いた。言葉はいらない。互いに何をするのか分かっていた。
彼女は浅瀬まで泳ぎ寄ると、水面に指先を走らせた。触れた場所から淡い光が生まれ、やがて円を描く魔法陣が静かに広がっていく。
彼女は人間に近い姿をしているが、魔族と呼ばれる種にあたる。かつて人間と魔物を錬金術で掛け合わせて造られた種、戦いのためだけに生み出された存在だ。
この世界の万物にはマナという、生命エネルギーのような物があり、それを魔術師たちは魔力と呼んでいる。水龍と掛け合わせて造られた彼女達マーメイドのその魔力は、全力で使えば地形を変えて地図を書き換える程の物……らしい。
「それじゃあ行くかな!」
彼女の掛け声を聞いた瞬間、アルトは余計な力を捨て、視界を研ぎ澄ませる。
地面に描かれた魔法陣が青白く脈動し、水面がわずかに持ち上がる。魔力に引き上げられた水は凝縮し、球体となって射出される。その射速は思考させる事さえ許さない。
しかしアルトは焦らない。正面から迫る水弾を引きつける。ギリギリまで我慢し、飛翔線から外れる瞬間を見極める。
水弾が眼前で巨大化して見える距離に達したとき、わずかに首を傾けただけで軌道を外した。最小限の回避。だが基本動作にすぎない。
背後で水弾が木に激突し、炸裂音と飛沫が散った。同時に魔法陣が再び明滅する。今度は同時四射。回避不能を狙う面制圧。逃げ道を塞ぐ形で四つの水弾が扇状に展開しながら掩殺経路を組む。
アルトは重心を落とし、地面すれすれへ滑り込む。四つの水弾が頭上十センチを通過し、背後の巨木で弾けた。
「まだまだ行くかな!」
水面の向こうから声がした。顔も見ずに牽制だけを撃ち込みながら、彼女は愉快そうに笑う。
第三射がもう来ている。
湖面がわずかに揺れた。魔力の震えだ。
再び魔法陣が青白く輝く。水面が四方へ裂け、水弾が生まれる。
空中に描くように放たれた四射の水弾は縦横に散開し、回避方向を読むようにわずかな曲線軌道を描く。
アルトは腰を落とし、右足を軸に滑るように地面を抜けた。身体を傾け低い軌道で通過する。
頭上十センチを水弾が掠めた。遅れも無駄もない。一切の力みを削ぎ落とし、身体の重さを最小限の慣性に変えて動く。
――だが。
水面を裂くようにして更に第四射が突然死角から跳ね上がった。
「――っ!」
読む暇は一瞬。考えるより先に直感と反射で身体を捻る。だが完全回避には一歩足りない。
死角から出て来た水弾が軌道を折り曲げるように上昇し、真正面から叩き込まれる。
避けられない。両腕を交差し、体を丸める。肩で軌道をずらし、衝撃を斜めに流した。
直後。
爆音とともに水圧の塊が叩きつけた。
衝撃は鈍器に等しく、肺の空気が一気に抜けて視界が一瞬だけ白く飛ぶ。衝撃に体を持ち上げられそのまま地を転がった。
胸が痛む。呼吸が乱れる。だが骨は折れていない。
最小限のダメージで済ませた――が、
「…………ッ」
地面に手をつき、低く呟きながら体勢を立て直す。
湖の浅瀬から彼女は静かに微笑んでいた。
「やるね。前よりは避けられるようになったかな」
彼女は唇を弧にして、楽しげに囁いた。
「でも、まだまだ修行が足りないかな」
無邪気に言うその声音は、残酷なほど真っ直ぐだった。
「……クソ」
低く返しながら、アルトは上体を起こす。濡れた髪から水が滴り、頬を伝って地面に落ちた。
そんな彼の不機嫌などまるで気にも留めず、彼女は水面を叩いて笑い続けている。
「ははっ……でも本当にすごいよ。前なんて二、三発目で当たってたのに、ちゃんと成長してるかな」
悪びれもなく言葉を重ねる彼女に、アルトは短く息を吐くと無言のまま立ち上がり、再び彼女と向き合った。
どれほど叩き伏せられようと、彼女の放つ魔法を一度として完全に避け切れない現実がアルトはどうしても許せなかった。それに加えて明日が試験日という事もあり、アルトは集中力の練度を高く保ちたかったという理由で率先的に彼女の魔術に受けて立つ。
ただ喧嘩から始まったこのやり取りが、いつの間に かこうしてアルトの日課になっていた。
「もう一回だ」
短く告げると、彼女はにっこりと笑う。
「いいよ。付き合ってあげるかな」
湖面近くの浅瀬に片手を触れ、もう片方の手をアルトに向けて伸ばす。水が張り詰め、空気がわずかに震えた。
「──我は示す」
静かな詠唱が始まる。アルトは即座に両足を肩幅に開き、低く構えを取った。風が止み、湖畔の空気が一瞬で戦いの場へと変わった。
そして数時間後――。
「………………」
アルトはまた空を見上げていた。何度地面に倒れ、何度この景色を見たのか、もう数える気にもならない。
いつの間にか澄んだ青空は西へ傾き、湖面は夕焼けの赤を映して揺れていた。
「まだやる?」
水面から声が飛ぶ。彼女の問いかけに、アルトは首を横に振った。
「……いや、今日はもういい」
上体を起こして立ち上がると、ずぶ濡れになった上着に手をかける。重く張りついた布が肌からはがれ、冷たい風が体温を奪った。
滴る水を払いながらアルトは苦笑する。
「……試験までに乾けばいいが」
絞っても絞っても水が滴る上着を手に、アルトはふと明日の模擬試験のことを思い出す。
「ねえねえ、その試験って何かな? 前も同じこと言ってたよね」
制服をばたばたとはためかせて乾かしながら、アルトは答えた。
「期末の模擬戦だ。各クラスの担当教官と一対一で戦って、実力を評価される」
「へぇ……先生たち、全員と戦うってこと? 疲れないのかな?」
「まあ疲れるだろうな。でも教官ってのはみんな化け物じみた実力者だ。生徒相手にバテるような連中じゃない」
ある程度乾いた上着に腕を通しながら、アルトは肩を回した。幸い、ズボンはそれほど濡れておらず、このままでも問題なさそうだった。
「その模擬戦って、どうすれば高得点が狙えるのかな?」
水辺に肘を乗せて身を乗り出してくる彼女に、アルトは膝を折って視線を合わせた。
「理想を言えば、魔術の完成度、状況判断、授業内容の応用。それをちゃんと戦いの中で示せれば高評価は取れる……普通はな」
「でも君は魔術が使えない」
指摘され、アルトは小さく息を吐いた。
「ああ、その通りだ」
「じゃあ、どうやって点を取ってるのかな? 前に言ってたよね。この学校って、成績が悪いと退学させられるって」
この学園――正確には魔法戦術科には厳しい規定がある。一定以下の成績が続けば、留年ではなく即退学。容赦のない制度だ。
理由は建前として説明されている。戦力にならない者は戦場に立つべきではない、と。無駄死にを防ぐためだ、と。
クトゥルフとの戦いを想定した専門課程である以上、それは確かに正しいのかもしれない。
だが現実には、退学はただの選別に過ぎない。アルトにはそう思えてならなかった。
『無理に戦わなくていい』のではない。
『戦えない者は必要ない』――そう突きつけられているようだった。
話を戻そう。どうやって退学を免れているのか、だった。
「魔法戦術科で求められるのは結局のところ“戦えるかどうか”だ。魔術が使えなくても、戦闘力を証明できれば残れる」
「戦えるって、つまりどうするの?」
「教官を行動不能に追い込めばいい」
アルトは淡々と答えたが、それは決して気軽に言えるような条件ではない。
相手はプロだ。鍛え上げられた戦闘の専門家。正面から挑めば一秒も保たない。だが──
「戦闘続行不能にするって……え、それって痛めつけるってことかな?」
アルトは小さく首を振った。
「違う。殺すわけでも腕を折るわけでもない。動きを止めればいいんだ。例えば、首元に刃を突きつけて降参を取るとか、関節を極めて動けなくするとか」
「でも、相手は教官なんでしょ? やっぱり強いんじゃないのかな?」
「当然。正面から戦えば勝ち目なんてない。けど、教官は生徒を傷つけるわけにはいかない。だから必ずどこかで手を抜く。それが隙になる」
アルトは淡々と続けた。
「それに俺は点呼順が後ろだ。教官は何十人も相手にしたあとで俺と戦う。多少は疲れが出始める頃だ」
「ふーん……」
彼女は湖の縁に肘をつき、頬杖をついたままじっとアルトを見る。その表情には、どこか納得のいかない色が浮かんでいた。
「それって……ちょっと卑怯じゃないかな?」
アルトの目がわずかに細くなる。
「俺に手段を選ぶ余裕は無い。俺にはこれしかないからな」
拳を軽く握りしめる。その声音には静かな決意がにじんでいた。
「この学校に残るには結果を出すしかない。どんな形でもだ。負けたら終わりなんだ」
アルトの握りしめた拳を見つめていた彼女は、ふいに身を乗り出した。水面がわずかに揺れ、距離が一気に縮まる。
覗き込むように顔を近づけ、彼女はふわりと微笑んだ。
その笑顔は柔らかく、魔族であることを忘れさせるほど人間らしい温度を帯びていた。ほんの一瞬、アルトの胸がわずかにざわつく。
彼は視線をそらし、わずかに顔を引いた。
「……何だよ」
平静を装うように表情を戻す。眠たげな目元も、いつも通りだ。
「君、そんな顔もするんだね」
「は?」
「いつも眠そうなのに、今は違ったかな。初めて見る顔してた」
「悪いか」
彼女は首を横に振り、静かに微笑んだ。
「ううん。なんか、嬉しかったかな」
その言葉を口にするはにかんだ彼女の頬が、わずかに赤く染まったように見えた。だが彼女はすぐに視線をそらし、水面へと向き直る。
「……明日の試験、うまくいくといいかな」
湖へ身を戻しながら、彼女は小さく続ける。
「君がいなくなるのは嫌だから。もう少しだけ、ここにいてほしいから」
それだけ告げると、彼女は静かに湖の中へと身を沈めていった。水面には波紋だけが残り、やがてそれも消えて静寂が戻る。
ひとり残されたアルトは、しばらくその場に立ち尽くしていた。西の空は茜色に染まり、遠い水平線が淡く光っている。
胸の奥が、きゅ、と締めつけられるように痛む。焦燥とも不安とも違う、名のない感情。
それが何なのかを理解した瞬間、アルトは小さく首を振る。それは到底認められない、認めたくないものだった。
夕風が吹き、アルトの背を押した。その影は、赤く染まる湖畔へと伸びていった。
[解説]バーミリオン魔法戦技学園
元々は砦だったものを改築を重ねて新たに学園としての施設となった。知る人ぞ知る高名な学園であり、コースは戦技科と普通科の二つがある。が、クトゥルフが現れてからは専ら戦技科を多く採用している。
尚、入学に際して多額の入学金が必要な為入学の敷居は高いが、唯一中央国セントルムに住む国民のみ入学金を免除される制度があり、バーミリオン魔法戦技学園に入学する為だけにセントルムに移り住む者も少なくない。
[解説]セイレーン大湖
セントルム領土、バーミリオンにある巨大な湖。その大きさは20平方km以上に及ぶ。バーミリオンの対岸には幾つも街が存在しているが、古くから沖には水龍が現れると伝わり、湖を使った交易手段は未だ確立されていない。
[解説]魔物
ローレシアにおける魔物とは獣とは別の精霊を取り込む事によって変異した特異個体である。その性質は非常に狂暴で、主にマナを求めてひたすらに周囲の動物を襲う。何よりも人間を優先的に襲う為、魔物の発生は近隣の村々を壊滅させる程の脅威にもなる。
魔物は非常に不安定な存在であるが、討伐される事なく周辺を蹂躙し、大量のマナを得るとやがてその存在は安定して竜となる。竜となった個体は他の生物を襲う事がなくなり、また食事や特別な補給もなく半永久的に生存する事が出来るとされている。その性質からローレシアでは竜は進化の到達点とされ、一部の個体は神格化されている。
[解説]マーメイド
魔物と人間の合成種である魔族の内、人間と水龍とを合成した個体。魔族の中でも最上位に位置し、三体の個体が造られた。




