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これからやりたい事

掲載日:2018/06/10

 



 自分のこれからやりたい事、やるべき事について書いておく。何回か、こんな趣旨の文章は書いているのだが、その都度見える風景が変わるので、更新する必要がある。


 自分は文学を基本としている。ではその際、文学というものをどう見るかという事が問題となる。


 文学とは何か、と考えてみても、広大な砂漠に彷徨う事になるので、道標が必要となる。まず、マスターピースを最初に決めておこう。ドストエフスキー・シェイクスピア・ソフォクレスの三人にする。


 では、何故この三人なのか? それにはこう答える。彼らは、運命と意志の葛藤をそれぞれに問題としており、その問題を非常に見事に処理しているからだ、と。もちろん、時代によって、作者によって色々違うが。


 さて、この三人を文学の頂点に考えた時、僕にとって懸念であったのは、彼らの作品はいずれも、個人の運命・意志、あるいは、自由と自由を制限する運命の葛藤について描いている。これは現代の常識とは食い違っている。


 現代というのは、一言で言えば随分とできあがった時代である。文学というジャンルもまた、そのできあがったものの一つに数えられる。「小説を書いている」と言えば「じゃあ、小説家になりたいんだ」とくる。同じような事があらゆるジャンルに広がっている。既に秩序はできている。価値観はできている。

 

 文学というのは、世界を包み込む風呂敷ではなくなっている。世界においては既に、あらゆるものが用意されている。文学と言えど、人を楽しませる為、金の為、人々の文化だか進歩だかの為にあり、そうした過程において、芥川賞や直木賞やノーベル文学賞が用意されているのだろう。ドストエフスキーを研究する人間は、ドストエフスキーを研究しているこちら側の人間をもドストエフスキーは研究しきったのだ、と感じないのだろうか。そう感じた時、研究するという行為が馬鹿馬鹿しくならないか。


 話を戻す。常識から言えば、文学も所与のものとしてある。そうした構造を支えているのは、大衆社会と、漠然とした秩序・正義感である。


 中村文則とか平野啓一郎あたりが、悪を描こうとしても、そこに、金持ちのお坊ちゃんが背伸びして不良ぶっているという感じしか見えないのは、彼らが自分達が前提としている常識を汚す事なく、疑う事なく、その上で文学作品を作っているからだと思う。こんな事を言うと、両作者が好きな人からすれば、中傷に感じるかもしれない。が、もう少し考えて見るならば、我々みんなが(僕も)「金持ちのお坊ちゃん」的な存在だという事だ。悪を成すにしても、常識に「反する」という気持ちでやる。「反する」というのであれば、それを前提しているという点では肯定する側と同じだ。


 先に、偉大な三作家は、運命と意志の葛藤を問題とする、と言った。例えば、ソフォクレスのオイディプス王を見てみよう。オイディプス王は、殺人を犯す。父を殺してしまう。母と交わるという罪も犯す。彼はその罪に最初、気付いていないのだが、後からそれに気付く。この際、悲劇になるとわかっていても、自分の犯した罪について知りたい、真実を知りたいという精神が、この作品を高貴なものにしている。


 さて、この時、現代の常識はこう答える。「馬鹿だな、人なんか殺さなきゃいいのに。ろくでもないやつだ。母親ともやっちゃって。自分の目を突いて悲劇ぶってるけど、本人が悪いんでしょ。阿呆らしい」


 ネットの書き込みレベルの汚い書き方をしたが、常識というのはこんなものである。殺人→駄目な事 母親と交わる→駄目な事。これでは、ドラマにもなんにもならない。


 では、現代の作家はどんな風にドラマを作るのか。ぼんやりした感じで言うなら、よしもとばなな以降の「ほんわか日常系作家」は、我々の世界にある混沌を排除した上で、常識と社会慣習を肯定した中での小さなドラマを作った。そうでない場合は、わざと意味をずらしてみたり、わざと悪を描いたり、わざと残虐な行為、変態性欲を描いたりしてみたが、それは我々の神経に刺激を与える上であるようなものにすぎないように思われる。我々にとって、真面目に、社会慣習に従って生きる事はいい事であり、小説を書く以上、システムと一致して、作家になる、売れる、有名になるという道を歩くのは良い事であろう。


 現状では何を書いても、何をしても、メディアの上に載って流布されれば、人々の議論の対象となり、価値付けられるか、唾棄されるかで、メディアの上に載りさえしない場合は、存在しないも同然となる。そこで、どんなにくだらなくても、くだらない事が薄々わかっている場合でも、多くの人の興味関心を集めたものが良いものとされる。しかし、多くの人の興味関心はあちらこちらに揺れ動く。昨日までのヒーローが明日ゴミに代わっていても、誰も気にしない。


 運命と意志との葛藤というものが、偉大な文学によって問題となっていても、それは今の我々にとっては縁遠い。我々は葛藤する事自体がない。何故だろう。例えば、「金を得たいけど得られない」という葛藤は存在するが、「金を得る(稼ぐ)のは良い事だ」という価値観は既定のものとしてある。「働くのは良い」「殺人は悪い」「窃盗は悪い」「勉強を頑張るのは良い」「恋愛は良い」などいった価値観も既定のものとしてある。これらを前提とした上での細かな葛藤を我々は文学とか物語とか称している。では、これらを「疑う」存在はどんな存在だろうか。人々の共同幻想から放逐された存在は、もはや存在しているとも言えない存在ではないか。


 お前は何が言いたいのか。何をしようとしているのか。整理しよう。問題はこうである。


 シェイクスピアの世界だとか、ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」だとかいう理念には、世界全体を包み込む大きな視野というものが感じられる。これは強調しておきたい事だが、彼らの世界観が、我々の世界の一部として、即ち、研究対象であるとか、それによって利益を得られるとか、そういうものとしてあるのではない。彼らの世界観の方が、我々の世界を包み込んでいるのである。少なくとも、僕ーーヤマダヒフミーーはそう感じるのである。


 が、この意味が全くわからないのが現在であるから、「シェイクスピアを研究する人がいる」「シェイクスピアを好きな人がいる」というだけの話になっていく。だから、「ふーん、あなたはシェイクスピアが好きなんだ。私は『嵐』の方が好きだな」などという話になる。一人一票握りしめて投票していけば、最終的に正しい答えが出るのか。『人々』にとってはそうであろう。


 現在というのは、過去に比べれば様々な秩序が成立した時代である。他人から客観的に見て、「幸福だ」と言えるような条件が揃っていれば「幸福だ」と言わなければならない。客観的に見て「不幸だ」と言われる状況で、「幸福だ」と言えばやせ我慢と取られる。何故だろう。人々は自分では、自分の幸不幸を決定できない、それら全てを共同幻想に投げているからなのだが、それ(共同幻想)が彼らの本体であるから、それが傷つけられる事が彼らにとっては何よりも嫌な事なのだろう。彼らは共同幻想と一致しており、そこで人生が決定されていくと感じる。ここでは、意志と、それを対立する運命という葛藤は、社会幻想の中に織り込まれる。社会幻想に織り込まれた物語のみが物語であり、それから出れば、それは何ものでもない。


 物語や小説というものを、僕は作りたいわけではない。そうする事によって、ヤマダヒフミという名前を売り込みたいわけでもない。偉大な文学作品を創造したいわけでもない。僕が「偉大な文学作品」と言えば、それは人々の観念の中ですぐに「ノーベル賞云々」という言葉に翻訳されるだろう。そのような基準で作品を作りたいわけではない。必要なのは、自分の基準を作る事であるが、それは、人々が「でもそれも世の中に認められなければ意味ないよね」というような言葉ーーそうしたものも包摂する基準である。


 文学という内部において、社会の中で既定のポジションに位置づけられた状況で、小説を書きたいわけではない。そういう事ではない。むしろ、我々がそんなように位置づけているというそういう生ーーそういうものがあるとして、それらを抱いて生きている現代人は果たして、「良い」生き方をしているのか、と問うような文学を作りたいという事である。あれは駄目、これは駄目、これはいい、と決めてかかっている人々は、「そんな風に決めている」のである。彼らは「そんな風に決めて生きている」のである。良し悪しではない。また、それに反するという人は、「そうしている」という事だ。それが良いか悪いかとかいった倫理的結論が既定のものとしてある時、物語は存在しない。しかし、物語内部に倫理的判断を持った「人間」は出てくる。つまりはーー文学とは「人間学」と言っても良いかも知れない。総理大臣も乞食も、同じ人間として生き、死ぬ。これはヒューマニズム的な意味で言っているのではない。それが正しい視点だと言うのでもない。そういう視点を要請するというのが、文学という視野であると決めてかかりたい、という事だ。


 さて、ここまで考えてくると、文学というジャンルがあり、それが社会に是認されるかされないかが問題ではないという事になる。そうではなく、文学という形式の内部に、人々が出てくる。そして、我々はその「人々」である。また、それは僕の中で仏教哲学とも結びつく。この世界は夢のようだ、人生夢のごとし、と我々が感じる時、夢を描く文学が人生そのものだと言ってよいのではないか。


 では、こうした状況で最初に言った、意志と運命の関係はどう見えてくるか。これはーー人間というものの、極限的な形式性、物理科学で言うところの「実験」に相当するものだと考えたい。ただぬくぬくと生きている人に、人生の、生の全貌は明かされない。限界を越えて、意志や理性が世界を突っ切ろうとする所に悲劇が現れる。それは世界に亀裂が走る事件であるが、この亀裂を通じて我々は人間というものを了解する。物質の本質を知る為に、物質に巨大なエネルギーをくわえて実験するように、作家は登場人物に巨大な意志の力を与える。ここから物語が始まるのだが、現在は意志は常識で、秩序で抑えるのが普通であると思われているので、悲劇は起こらない。もしかしたら、悲劇が存在しないというのが我々の悲劇かもしれないが、そんな風に感じる人もほとんどいない。


 まとめると、自分は「文学」というジャンルをやりたいわけではない。世界によって価値づけられた範囲において、文学をしたいわけではない。そうではなく、世界=文学というような視点を持ちたいという事である。昔、自分が芸術系の大学に合格した時、高校の教師から「あなたの好きな芸術を大学で頑張ってください」という励ましのメールが来た。このメールに自分は違和感を持ったが、この違和感の意味を通常は理解されないだろう。今では、違和感の意味ははっきりしているが、芸術は世界の中の、一人一票握りしめた人々の世界において「頑張る」ものではない。むしろ、そんな風に人々は生きているのだ、というように文学は見る。彼らはそんな風に生きているのだ。彼らはそういう生を送っているのだ。そして自分もそんな風に生きているのだ。


 過去に、シェイクスピアと名付けられた、古典に位置づけられる作家がいて、現代の人がそれを読んだり、楽しんだり、そこから利益を引き出したりするのではない。シェイクスピアが見たのは、世界が芝居だという事だ。この世界が芝居であり、僕らは役者である。舞台に立った時だけ台詞を言い、行動し、幕が閉まれば引っ込んでしまう。我々は正にそんな存在なのだ。これは比喩ではないと見たい。これを比喩と見ると、我々がなにかに例えられていると感じる事になり、そうなると、我々の存在はやはり確定的なものとしてあるという話になる。そうではない、と思う。我々は正にそうなのだ。そういうものなのだ。あるいは、そういうベクトルで見るのが文学なのだ。では、この世界はそのまま文学なのか。お前は文学の中の一キャラクターなのかと言えば、その通りであると思う。そして、それを良いとか悪いと感じる人も、やはり役者の一人であろう。


 世界において秩序があり、その秩序の一系列に文学があり、文学をやる以上、そこで認められるべきーーというのであれば、セルバンテスやドストエフスキー、シェイクスピアらは理解不可能にものになるか、研究対象として、固まった古典として敬して遠ざけるという事になるだろう。彼らがどんな物の見方をしたのかと自分なりに考えて見るなら、彼らは我々のように文学を見なかった。むしろ、彼らは文学そのものであったから、そのようにして人間を見たのだ。人間はそこで蠢いていた。生きていた。そこに、倫理はなかった。あるのは、倫理観を持って生きていた人々だ。これは相対性理論のように、相対的な見方であろう。文学とはそのように世界を見る術であり、そしてまた見られた世界が世界の全てであると、決めてかかる学問であると思う。自分はそんな風に考える。また、そういう風に生きるであろう。人々もまた、僕の目にはそんな風に生きている。




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