神は死んだ
三時間後。秋生と秋葉原のメイド喫茶『魔法の国にゃんにゃんワールド』の前に立っていた。
「彼女……ここで働いているのか」
心なしか、秋生も緊張した様子だ。無理もない。秋葉原駅を降りてしばらく歩いて大通りの中を入った。そのビルの階段を3Fに上がった場所にそれはあった。入り慣れてない俺や秋生には少し怪しい佇まいに見える。
♪♪♪
その時、秋生の携帯が鳴った。
「……あはははは、なあ柴田。これ見ろよ。同窓会の女子トイレのゴミ箱にビショビショの男用パンツが発見されたって。幹事の滑川が今、二次会会場で男のパンツを取り調べしてるって。ほんっと、相変わらずしょうもない奴よなぁ、あいつ」
「……ははっ」
あの野郎……やっぱり、フルボッコにして半殺しにしておけばよかった。
「でも、普通漏らすか? 成人式で漏らすって、どうかしてるよ。しかも女子トイレだぞ。女子トイレ。どこにでもいるもんだなぁ、そんな変態も」
「……ははっ。な、なぁ、秋生。その話、中ではしないでね」
「バカ、するかよそんな下品な話」
親友がいい奴過ぎて……本当に感動する。途中、二次会にも行かず、こんな俺につき合ってくれて。9年ぶりに会った俺なんかのために。
「じゃあ、開けるぞ」
そう言ってドアを開けると、ドア前に立っていた葵ちゃんが、俺たちに気づいて驚いた表情を浮かべた。しかし、それはほんの一瞬で、すぐに天使のような営業スマイルを見せた。
「お帰りなさいませご主人様ー。ようこそ、『魔法の国にゃんにゃんワールド』へ。私の名前は『メルルン』だにゃ。ご主人様はにゃんにゃんワールドにお越しいただいたことはありますかにゃ?」
『メルルン』と名乗る葵ちゃんが放つ満面の営業スマイルを見て、日本の『お・も・て・な・し』の底力を感じた。そして、そんな彼女たちが場に馴染めない外国人観光客を「萌え萌えビーム」で圧倒するする姿を見て、『ああ、この国の未来も捨てたもんじゃないな』と思った。
「い、いえ」
「こちらがメニュー表になりますにゃ。何をお飲みになりますにゃ?」
「あの……じゃあ、俺はカフェオレのホットを」
「俺はオレンジジュースを」
それぞれ注文を済ませると、
「かしこまりましただにゃ」
メルルンはそう言って奥の厨房へ去って行った。
「やっぱり、迷惑だったかな……」
「どうかな。でも、そんなに困った感じには見えなかったけどな」
秋生は周りを物珍しそうに眺めながら答えた。
「お待たせいたしましたにゃ、ご主人様」
言葉を遮って、メルルンがオレンジジュースを持ってきた。
「うん、ありがとう」
秋生が照れながらオレンジジュースを受け取る。
メルルンこと初音葵ちゃんはブラウンで艶やかな髪をポニーテールでまとめて、アッシュの猫耳が彼女の艶やかさをより引き立たせている。そして、青みの強い緑色の瞳が店内のメルヘンな雰囲気にマッチしていた。さらに、その素晴らしいボディラインをあらわにしたメイド服が、彼女の魅力をより鮮明に映し出す。
メイド喫茶好きでなくてもたまらない魅力を醸し出していた。
「……そうにゃ。じゃあ、おいしくなる呪文はどうですかにゃ?」
彼女は少し悪戯っぽく上目遣いで秋生に問いかける。
「よ、よろしくお願いします!」
秋生は緊張しながらも丁寧に答える。
「りょ、了解だにゃ。じゃあ、いっくよー。おいしくなーれ、おいしくなーれ、萌え萌えきゅるるん」
メルルンがそう言って胸に手を当ててジュースにハート型の萌え萌えビームを浴びせた。そして、深々とお辞儀をして「じゃあ、ゆっくりしていってにゃ」と言い残して去って行った。
「むぅ……これは……中々……さすがはメイド喫茶といったところか。葵ちゃんのプロ根性も大したもんだ」
秋生がオレンジジュースをにやけ顔でストローで吸いながら唸る。
……まだか! 俺のホットカフェオレはまだか!
貧乏ゆすりをしながら待っていると、
「おい、柴田……どうやら迷惑ではなかったようだぞ」
そう言って、オレンジジュースの下のコースターを俺に見せてきた。
『柴田くん、秋生くん。今日は来てくれて本当にありがとう。すっごく、すーっごくうれしい。ゆっくりしていってねにゃ❤️ あと、柴田くん。さっきのことは気にしないでね』
……天使や。現代の大天使ミカエルや。
「柴田、さっきのことって?」
「……いや、まあ、あはははは」
俺は、うまく、笑えているだろうか。
その時、いそいそとメルルンが戻って来た。
「ホットカフェオレお待たせいたしましたご主人さ……みゃ――――っ」
「熱熱熱熱熱熱熱熱―――――――――――――っ!」
ほ、ホットカフェオレが俺の股間にっ!
「ご、ごめんなさいご主人さま……はわわわっ、と、とにかくちょっとズボンのチャック失礼し――
……みゃ――――――――――――――――――――――――!」
「うわあああああああああああああああああっ……」
・・・
数分後、控室に連れてこられた。
「お客様、このたびは私ともの不手際で申し訳ございませんでした」
支配人らしき人が深々とお辞儀をする。
「本当にご迷惑おかけしまして申し訳ありませんでした」
先ほど萌え萌えビームを放っていたメルルンこと初音葵は斜め四五度下を向きながら泣きそうな顔でうつむいている。
「その……彼女も、お客様が………そのパンツをはいていらっしゃらないことは知らなかったものですから」
……もう、いっそのこと、殺してはくれないだろうか。
「彼女は……初音さんには本当に悪気はなかったんです。どうか、訴訟沙汰はご勘弁いただけないでしょうか! 初音さんは本当にいい子で、きっと疲れてたんだと思うんです。彼女には3人の妹がいて……お母さんも病気で両親は……」
支配人さんが土下座を繰り出し彼女の不幸話を延々と説明。俺がそれを必死で静止。メルルンこと初音葵ちゃんが泣き出すという、まさに地獄絵図が繰り広げられた。
『魔法の国にゃんにゃんワールド』の舞台裏は、紛れもなく現実だった。
外へ出ると、秋生が待っていた。
「……お待たせ」
「お、おう」
秋生は微妙な表情を浮かべて声を出した。
「……」
「……」
「……」
しばらく、重苦しい沈黙が流れる。
なんで、こんなことになってしまったんだろう。何度も何度もそう自分に問いかける。
「あの……柴田。俺、お前に謝んなきゃな」
秋生は重苦しい様子で口を開いた。
「……何をだ? お前はなんにもーー」
「ほらっ、さっき。女子トイレでのパンツの話……俺、お前に酷いことを」
「……な、なにを言ってんだ。その通りじゃないか。成人式で、女子トイレでうんこ漏らして。変態以外のなにものでもないだろうが。はははは」
「……すまん」
あ、謝られると……余計辛い。
なんとか、この場を。こんなに暗い顔をさせてしまった親友をなんとか元気づけなければ。
「秋生、お前は『うんこ』ってはイタリア語だとなんていうか知ってるか?」
イタリア語は、真野桜の第2外国語ということで、半強制的に学ばされた。こちらも日常会話程度なら問題なく話すことができる。
「い、いや知らないけど」
「ミエルダだよ、ミエルダ。なんてイカした言葉じゃないか、そう思わないかい?」
「ま、まぁ日本語よりは……な」
「英語ではシットと言う。日本人の悪い癖だ。ネガティヴな国民性が故に言葉もネガティヴになりがちだ。秋生……欧米でいこうじゃないか」
「……」
この場だけでも、いい。ここまで付き合ってくれた親友に、俺が元気だということを告げるのだ。明日から、俺は廃人のようになるだろう。しかし、今日という日をせめて、この優しい親友にだけは落ち込むような出来事にしてはいけない。
笑え! 純度100%の空笑いを浮かべて、今日は幸せな1日だったと笑い飛ばすのだ。
「仮に、仮に俺がうんこを漏らしてしまったとしよう。英語で言えば『アイムシットマイパンツ』。そんなに恥ずかしい感じはないだろう? 欧米で行こう、ポジティブにいこうじゃないか」
「……」
「今日は俺は楽しかった。本当に本当に。これ以上ないくらい楽しかった。幸せだったよ。久々にお前たちに会えてさ」
「……柴田」
「イエス! アイムシットマイパンツ! バットアイムソウハッピー!
(はい! 俺はうんこを漏らしました! でも、俺はすごく幸せです)」
まさか、帰国子女の葵ちゃんとお近づきになるという目的で始めた英会話がこんな形で役立つとは。なんたる皮肉。
「柴田……あ、あの」
そうだ、秋生。俺は欧米気質なんだ。小さいことは気にしない。欧米のようなポジティブな気質。
「イエス! アイム シット マイ パンツ! バット アイム ソウ ハッピー!
(はい! 俺はうんこを漏らしました! でも、俺はすごく幸せです!)
イエス! アイム シット マイ パンツ! バット アイム ソウ ハッピー!
(はい! 俺はうんこを漏らしました! でも、俺はすごく幸せです!)
アイム、ソー、ハッピ――――――――――――――――――――――――! HAHAHAHAHA!
(幸せ――――――――――――――――――――――――! ハハハハハ!)」
その時、
「オー……ジーザス」
聞き覚えのある柔らかく少し高い声。ただ、違うのはその声が震えていたこと。
「柴田……後ろ……」
……もう、振り向けなかった。今、振り向いたら確実にゲロ吐いてしまう自信がある。
「あの……柴田くん、一言……謝らなきゃって……その……ごめんなさい!」
タッタッタッタッ……
神は死んだ by ニーチェ