プロローグ 成人式
『一番後悔している時代は?』を問われれば、俺は迷わず小学6年生を選ぶ。
その少女は美少女だった。長いブロンドの髪、蒼く輝く瞳、スッと通った鼻筋。ヨーロッパの絵本の王女がそのまま出てきたような可愛いらしい子だった。実際に、母方はイタリア人で少し王族の血も混じっているとかいないとか。
7歳になったばかりのその女の子は伏し目がちでちょこんと立っていた。
「桜は少し特別な子なの。仲良くしてやってね」
たまたま、隣の家だった美少女の綺麗なお母さんに、そう言われて少し舞い上がったのを覚えている。
「緊張しないでいいよ。みんな、いい奴だから。さっ、行こう」
通学路の班長だった俺はそう少女の手を握ると、少女は天使のような笑顔を浮かべて頷いた。
その小さなそして暖かい掌を握り、守ってやらなきゃ……そう思った。
これが、真野桜との出会いだった。そして、その日こそ苦難の始まりだったことを当時の俺は知る由もなかった。
*
それから実に9年が経過し、俺は20歳になった。
成人式。法律には『おとなになったことを自覚し、自ら生き抜こうとする青年を祝い励ます日』と記されている。大人としての人生の門出。そんな日に地元に戻ってきた。
ここ、木更津の地に足を踏み入れるのは実に9年ぶりだ。胸の鼓動が高鳴り、足は震える。みんなは、俺のことを覚えてくれているだろうか。
木更津中学校。当たり前のようにみんなと通うと思っていたこの学校に、20歳になってから初めて足を踏み入れるとは。
しばらく、校舎を眺めながら歩いていた時、
「……柴田……君?」
その柔らかく少し高い声。
心の中で一回深呼吸して振り返ると、そこには初音葵ちゃんが立っていた。ブラウンで艶やかな髪が彼女の青みの強い緑色の瞳をより引き立たせていて、彼女の柔和な微笑みを彩る。
9年ぶりの彼女は美しい女性に変貌を遂げていたが、その目元にある小さなほくろ、ふわっとしたほっぺたは変わっていない。
「葵ちゃん、久しぶり……覚えててくれたんだ」
声が震えていることを自覚して、淡い初恋の想いが今なお色褪せずに残っていることを思い知った。
「当たり前でしょ。ほんと……久しぶり……」
気のせいかもしれないが、彼女は少し照れてはにかんだように見えた。
「おっ……柴田か? おーい!」
声の方を向くと、そこには成長した秋生がいた。
体格はもちろん互いに変わっていて、声変わりもすでに済ませていたがそれでも顔の面影、仕草などは変わってはいない。
「おう、元気だったか?」
「お前……『元気だったか』じゃねぇよ! 全然顔見せないから、俺たちのこと忘れたのかと思ってたよ。お前、こっちの成人式来たんか。てっきり転校先の中学校に行ったかと思ってた」
不満気な顔をする親友に思わず昔の思い出が蘇る。。
「……忘れるかよ。俺が、お前らのことをさ」
そう言って、拳を前に突き出すと秋生と拳を突き出して合わせる。
ああ……ここに唯一の青春時代があったのだ。そして、初恋も……
「あれ、葵ちゃん――」
「あっちで友達に呼ばれて走って行ったよ。なあ、積もる話もあると思うからさ。俺たちも体育館行こう。多分、みんなそこにいるよ」
秋生が背伸びしながら、歩き出す。
「……ああ」
話したいことがいっぱいあるんだ。親友のお前たちと、この9年間分の空いた時間を。そして、葵ちゃんとも――
ガラララ……
ガラララ……パタン……
「お、おい。なんで閉めるんだよ?」
「……いや、今、幻覚が見えたから」
こんなところに、いるはずがない。
ガラララ……
ガラララ……パタン……
「だから、なんで閉めるんだよ」
「……すまない、またしても幻覚だ」
嘘だろう……いや、嘘じゃなきゃおかしい。
「もー、変な奴だなぁ。いーよ、俺が開けるから」
「いや、ちょ……待っ……」
ガラララ……
「あれ……真野桜ちゃんじゃないか? おーい、桜ちゃーん」
秋生の発した声の先には、輝かしいブロンドの髪の美少女が立っていた。深い藍色の瞳、シルクのような白い肌、恐ろしいほど小さく整った顔。まるで、天使の肖像画から飛び出してきたかのような神々しさ。
まぎれもなく、そこには真野桜が立っていた。
周りを群がっている男たちを背に桜は俺の方に歩いてきた。
「……貴様、なんでここにいる?」
俺の声は震えていた。先ほどの葵ちゃんとは真逆の感情、すなわち……怒りだ。
「だって、成人式でしょ?」
天使のようなその微笑みが……なぜだろう、俺には悪魔にしか見えない。
「……お前、正気か?」
いや、正気じゃなかったんだったなお前は。
「桜ちゃん、久しぶり。いつもテレビで見てるよ。相変わらずの活躍振りだね」
秋生がそう言うと、
「ありがとう。ええっと……トラバーユさんだったかしら?」
「秋生だよ! 大神 秋生!」
まず日本人だよ!
「い、いいって柴田。ジョークだろう、ジョーク。天才な上に面白くて、美少女だなんて本当に神様ってずるいよなぁ」
秋生がそうフォローするが、冗談ではない。こいつは人の名前など、どうだっていいんだ。そんな奴であることはこの9年間の付き合いで嫌でも理解した。
そもそも、なんで誰も何も言わないんだ。少なくとも、6年2組のクラスメートは気づいているはずだ。
真野桜は、16歳だということに。