第廿肆話 危険湖域・さいなんの いるところ
疲れ切った体を引きずり、船のテントの入り口前に横たえさせる。ちらと奥を見れば、べちゃっと広がる黒い布切れ、ではなくヘバる夕依がいた。普段ならここで気力回復がてら適当な言葉を投げるところだが、流石の華月にもそんな余裕は微塵も無い。なんたってここ一日、彼らはこの湖の真の姿をたっぷりと見せつけられていたのだから。
例えば今、前方恐らく300メートルほどで遙か天高く立ち上る巨大な渦潮なんかがそれである。想像し難ければ、巨大竜巻の風を水に置き換えたものとでも考えてもらえればいい。発生原理なんて知らない。知りたくもない。
…とにかく、こういった超自然現象に昨日から丸一日晒され続けているのが現状である。むしろどちらかと言えば、あの巨大渦潮を見て心が和む程度に今まで起きたことは常軌を逸していた。立っていることすら難しいような豪雨、いつか見た太陽表面のように3Dでねじ曲がった水流、突然真横から飛来する巨大な氷塊etc...
最後の現象など、どこからの攻撃かと辺りを警戒したものだ。が、それはまあいい。つまるとこ、それらを乗り越えたゆえにこうしてヘバっているのは至って普通なのだと、そう言いたかっただけなのだが。
「…揃って妙なスペックを持っている姉弟だな、全く。あれか、特殊な退魔士の血筋とかそういう中二的な何かなのか」
魔法は超常現象でありながら、決して万能なる奇跡の業ではない。エネルギー効率がとても良く、かつ多少なり物理法則を度外視できる夢の技術。しかしもって、起こした現象に見合うだけの体力をごっそりと奪われるというのも、また事実だ。
よくあるような、熱線をバスバス乱射したり氷塊の群を操ったり、なんていうのはまさに達人の領域なのである。常人ならそんなもの1回発動した時点で気絶昏睡確定だろう。
それを、片や丸一日に近い時間飛行を続け。片や100メートル全力疾走に匹敵する体力を消費するであろう魔法を乱発し。よくもまあそれでなお動き続けられるものだ。何って、華月たちと似たような勢いで仕事してきたはずなのに、まだあそこで元気に飛び回っている姉弟のことだ。今も渦潮相手になにやら奮闘している。まあ放っておけば巻き込まれる可能性がある以上、そこに対策するのは何らおかしくない。…真っ向から渦潮を消し飛ばす、とかいう方法でなければ、と注釈は入るわけだが。
「む…終わったか」
先程まで渦潮のあちらこちらで断続的に発生していた蒼い閃光が、一瞬止む。直後、立ち上る渦の根本付近で巨大な閃光が炸裂し、逆巻く水をすべて天上へと跳ね上げた。大質量の落下による津波の発生を防いだのだろうが、それにしても相変わらずの破壊力である。
朝美の恐らくフルパワーと思しき魔法の威力に感心していたところで、跳ね上げられた後落下してくる湖水が視界の端に映った。この世界にも変わらない重力というものが存在する以上、いくら上へ飛ばしてもそのうちに落下してくるのは自明の理なわけで。その法則に従った水滴群は、豪雨よろしくボートへと降り注ぐ。
「…面倒だな。…撥ね除けよ、“傘”」
また少し減った華月の体力に呼応し、ボートの上に不可視の障壁が展開された。こんなこともあろうかと、予め各所に仕込んでおいた“傘”の文字を一斉に起動させたのだ。結果、降り注ぐ水滴はうまくボートを避けるように湖面へと着水してゆく。いまいち原理のよく分からない現象なのだが、便利なのでよく使っている魔法でもある。特に最近使用率が高い。
「たっだいまー」
「ふぅ、流石に疲れたわねぇ」
一仕事終えた双羽の箒が、水を滴らせながらボートへと滑り込んできた。どうも帰ってくる途中で雨に降られたようだが、まあ自業自得である。
「うわあ、びっちょびちょ」
「そこで絞るな。外へ出せ外へ」
双羽が箒に乗ったまま服を絞ろうとしていたので、とりあえず引きずり下ろす。そのままボートの端へ引きずっていると、箒から朝美が降りてきた。いつもより箒の柄を長めに固定し、それでできた双羽の後ろのスペースに乗り込んでいたのだ。足場は金属の棒一本なわけだが、彼女曰くなかなかに良い乗り心地なんだとか。…まあ、乗ってみたいとは思わないが。
「お疲れ、ととりあえずは言っておこう。しかしだ、この雨は何とかならなかったのか? “傘”の魔法もタダで使えるわけではないのだぞ」
「まあいいじゃない。こんな美女の濡れ姿拝めるのよ?」
「自分で言うな、自分で。あと貴様を見て眼福など思えるほど俺の脳は腐っていないぞ」
「それ、女性に言う言葉じゃないわねぇ」
「なら貴様には問題無いな」
一応言っておくが、朝美は決して醜女ではない。というか、まあぶっちゃければ相当な美人である。…が、先にその内面を目の当たりにしたせいか、どうもそういったところを評価する気になれないのだ。一言で言うと、残念なイケメン(女性)、ってな感じである。あんなこと言っちゃいるが、そもそも本人だって女性扱いされないことなど気にしてなさそうだ。
「…終わったの…?」
「あ、カナちゃん復活ー」
黒いボロ切れ、ではなく相変わらすへちゃばった夕依がテントの入り口から頭を出した。魔法の使い過ぎというのもあるだろうが、それより客船での溺死未遂が効いているように見受けられる。ずっと顔色が優れないのは、極度の疲労のみによるものではないだろう。
「うむ、とりあえずは何とかなったぞ。その影響でさっきからこの土砂降りだがな」
「…渦潮抜けて、土砂降り…?」
夕依は渦潮に遭遇した直後から伏せっていたため、そもそもの作戦と事の顛末を知らない。そんな状況では、まあ水の竜巻と土砂降りの雨に共通点は見いだせないだろう。あの超自然現象を直接消し飛ばすなんて方策、一体誰が思いつくというのか。
「あの渦巻きね、お姉ちゃんが振き飛ばしちゃったんだよ。だからその水が降ってきてるの」
「…ぇ?」
「やー、アレは流石にちょっとキツかったわねぇ。かなり全力に近い威力で打ち込んだんだけど」
「…吹き飛ば…す? …えっと?」
「気にするな、金峰。俺も一度は通った道だ」
「…あ、ありがと?」
朝美のオーバースペックっぷりは夕依も良く知るところだろう。しかし、真実はより奇、だったわけだ。そこはついさっき華月も経験した思考ルートである。
同意と同情の念を込めて夕依の肩を叩いたのだが、なんだかお礼を返されてしまった。どうやらかなり混乱している模様。ここは優しく放置といこう。
…まあ、当面の危機は去ったわけだ。しばらくは、次の災難に向けて英気を養うと…
「お姉ちゃんお姉ちゃん、アレ、何だと思う?」
「んー、アタシの目にはくちばしのひん曲がった鳥の大群に見えるけど」
「…多分それ、キヒキソナウ、だと思う…」
キヒキソナウ。確か、穴を開ける鳥、とかいう意味だったと記憶している。ドリル状に発達した嘴でもって、遭遇したあらゆる無機物に穴を開けていくとかいう、まこと傍迷惑な飛行生物だ。もし航海中の船舶なんかが遭遇してしまえば、その被害は甚大だろう。しかし大きな群の移動経路は地域ごとにほぼ固定されており、大抵はそこを避けるように航路が設定されているのだとか。
以上、華月の脳内にインプットされていた“キヒキソナウ”についての情報である。
「…問題は、アレだ。会ってしまった場合の解決策が見あたらないことか…」
「んー、全部打ち落とせばいいんじゃない?」
…その単純過ぎる思考回路が羨ましい。しかし、それしか方法が無いのも確かだ。何かこうキヒキソナウ除けになるような物とかあるのかもしれないが、夕依の絶望に沈んだ表情を見るに望み薄だろう。ここで最大にして唯一の問題点は、あの群の数がどう贔屓目に見ても云千云万の単位な事くらい。大したこと無い。
「…まあ、どのみちアレに対抗するには把臥之の箒が必須なわけだが」
「休憩無しだねー、頑張らないと」
「んじゃ、も一回行ってきますか」
華月は火力勝負に向いておらず、夕依はごらんの通りダウン状態だ。支援はできても真っ向からやり合える状態ではない。悪いが、ここは先程と同じペアで出てもらうとしよう。残りは頑張ってボートの守備だ。
「さて、と。…面倒だが、もう一頑張り、だな」
朝美を乗せて飛び立った双羽と箒を見送り、本日何度目か分からない溜息を吐く華月であった。
……
…で、だ。
「…どうしてこうなった…」
唐突に華月の呟いた言葉に対し、無言ながらその場の全員が同意の意を送る。そりゃまあ、あんなことになれば誰だってそう言いたくなるだろう。
因みに現在地は水面から数メートル上空、総員もって飛行中である。リムジンの如く伸ばしきった箒に4人全員が乗っている状態。流石にバランスが悪いらしく、さっきからふらふら低速飛行だ
「ほーるいんわん、って感じだったねー」
「…双羽、それ違う。どこにも入ってない…」
「じゃ、バッティングセンターのホームランが近いかしらねぇ」
…何のこっちゃ、というツッコミはひとまず脇へ置いておいて。まずは起こった出来事をありのままに説明しよう。
途中まで、キヒキソナウ迎撃作戦はうまく機能していた。双羽と朝美はものすごい速度で群を撃ち落とし、華月と夕依もボートへ向かってくる散発的な集団に対し余裕を持って対処できていた。こう言うと途中で何かしら破綻が生じたのかとも取れそうだが、実はそうでもない。もう少し厳密に言えば、それは破綻とかそんな生易しいものではなかった。突然なる終局、とかが一番しっくりくる。
あるキヒキソナウを、朝美が撃墜した。衝撃を受けて吹き飛ぶキヒキソナウは、そのままひとつの小集団に突っ込む。そこまではまあ、問題無い。効率良く数を減らすための作戦だ。
…問題は、ちょうどビリヤードよろしく弾き飛ばされた群の中の一羽が、真っ直ぐボートの方向へすっ飛んでいったことか。タイミング良くか悪くか、華月と夕依の防衛組もそこそこ大きな群に対処していた。僅かな隙、というか何というか。一閃の矢のように飛来したキヒキソナウは、薄い素材で構成されたボートにしっかりと大穴を開けることと相成ったのであった。
「…バッティングセンター、ね…」
「でしょ? やっぱその表現が一番合ってると思うのよ」
「うーん、弾き飛ばして的に当てる、って意味なら結構ぴったりだけど。むしろ僕はビリヤード一押しかなー」
「なるほどねぇ。間接攻撃ってわけ」
「…攻撃じゃ、ないけど…」
口を開く気力も無い華月は放っておいて、3人はしょうもない話題で盛り上がる。
食料とかその他諸々がほぼ水中へ沈んでしまった、今のこの状況。もし長期間続けば、彼らの旅はここで終わりを迎えるだろう。それが分かっているからこその、こうした賑やかな雰囲気なのだ。
…そうやって、全体に口数が減っていき。全員が沈黙したままただ進む箒の上で、ふと進行方向から逸らした視線の先に、それは映った。
「…あ!」
「どしたの、カナちゃ…わ、やったじゃんか!」
「何とかなったかしらねぇ」
「…なっていることを、祈ろうではないか」
船の沈没から、体感にして数時間の後。夕依の指さした方向に、一行は久方ぶりの大地を見たのであった。
新章突入、ってな感じになるんでせうか。確かに今までとは少し変わりますけど。
まだ章管理機能使う気は無いんですよねー