第廿参話 生存難航・なんとか なったは いいけれど
ゆらりと波に揺られ、夕依は緩やかに目を覚ました。ぼんやりとした視界に入ったのは、見慣れた緑の布。少し首を捻れば、3、4人がゴロ寝できそうなテントの内部っぽい空間も見て取れる。ただし、初めに書いた通り、ここは陸上でない。夕依が今まで寝ていたのもテントでなく、定員4名の屋根付きゴムボートだ。もひとつ付け加えておくならば、そのボートは現在推進力無しで大海原(塩水湖だけど)を漂っている。いや、もう少し簡潔に言おう。この船は、現在絶賛遭難中であった。
…寝起きの鈍い頭を起こしついで、彼女はここ数日の記憶を遡ってみる。今のこのゲンナリする状況と、その発端について。あの時、船の底で水流に巻かれた夕依は、そのまま意識を失い…
……
ゆらりと波に揺られ、夕依は薄く目を覚ました。意識こそ覚醒したものの、頭痛が酷く、とても目を開ける気にならない。
そのまま小声で唸りつつ痛みに耐えていると、正面から聞き覚えのある声が降ってきた。
「ん? もしかして…カナちゃん起きた?」
相手を見ようと、細く目を開く。輪郭がハッキリとしないが、そのシルエットは確かに夕依のよく知る少年のものだ。
「…と、双羽…」
「あ、喋るのキツかったら無理しなくていいよー。今は安静一番だしね」
「……」
無言のまま頷き、肯定の意を示す。視界を閉じ、改めて体の力を抜いたところで自分が横になっていたことに気づいた。背にあたる感触は、何だろう、ビニール素材に近いような気がする。
それにしても、一体何があったのか。残念ながら、気絶する寸前までの記憶は意外にしっかり夕依の脳に焼き付いている。まさか頭打って記憶が改竄とかいうこともまあ無いだろう。最後、夕依が水流に巻かれて沈んだというのは確かなはずだ。しかしもって、ここが水の底でも地の底でもないことは双羽の存在より自明。
…まあ、いくら考えても知らないものは知らない。ここはその間の経緯を知っていそうな人物に問うのが正解なのだろう。目を閉じたまま、なるたけ少ない単語数で質問を双羽に伝えてみる。
「…なんで、私、ここに…」
「もー、無理して喋らなくたっていいってば。…カナちゃんさ、自分が溺れかけてたのは覚えてる?」
「…覚えてる」
命の危機を目前にしたとき、人の意識というのは極限にまで研ぎ澄まされる。それは恐らく、記憶力という感覚機能のひとつにもしっかり作用するのだろう。種々様々の記憶よりも遙か鮮明に、夕依は水の中で意識を手放す瞬間をしっかりと覚えていた。
「んー、半分正解。実は、完全に沈んじゃう寸前で僕が間に合ったんだよ。ま、そのときのことは覚えてないみたいだけどねー」
「間に、合った…?」
「…把臥之に感謝しろよ、金峰。コイツは船に水が流れ込む中、箒でもって水流渦巻く廊下を巡り、貴様を探し出したのだ。…いくら空を飛べるといえ、把臥之自身が言うほど軽く、そうおいそれと成し遂げることではない。その能力と精神、どちらかが無ければ今貴様はここに存在することすら出来なかったのだぞ」
少々不足する双羽の説明を補足したのは、相変わらず長ったらしい華月の口上だった。いつの間にか夕依の側まで来ていたらしい。言ってること自体はもっともだが、いかんせん後半部分が不必要である。もう少し物事は簡潔に述べて欲しい。
それにしても、あの時聞こえた声は双羽のものだったということか。確かに、思い返してみればそんな気がする。それにまあ状況的に考えて、あそこから夕依が生還する経緯はそんなものだろう。
「…ありがと、双羽」
「ふふ、どういたしましてー」
目は瞑ったままだったが、双羽の微笑む顔が瞼の裏に浮かんだ。同時に、どっと安堵感が押し寄せてくる。
一度生存を諦めていたためか、夕依の感情は、自らのくぐり抜けた死地をごく淡泊に捉えていた。自分はあの時死に掛けたのか、そうなのか、と。単なる現象として、それらの事実を受け止めていた。…それが、何故だろう。今はただ、自分は生き延びたのだ、という実感が心を埋め尽くしている。目覚めてから初めて、夕依は自身の体温を感じた。
「さて、俺は他の場所も見てこようか。把臥之はここに居るといい」
「ん、僕も行くよー。今は飛べた方が何かと…」
「一般人の前で飛び回るつもりか? 一瞬だけならまだしも、そんな高機動を見せてみろ。この世界の大抵の人間は不審を抱くぞ」
呪文魔法にも飛行魔法は存在するのだが、えてして使い勝手が悪い。そうでなければこの世界、もっと空路が発達しているだろう。
「うーん、じゃあちょっとしか飛ばない方向で…」
「…言葉の裏を読め。貴様はここで金峰を見ていろ、と言っているのだ」
「あー…うん、りょーかい」
渋々、といった感じで了解の意を示す双羽。しばらくして足音ひとつが遠ざかり、華月がこの場を離れたことが分かる。見えないためハッキリとはしないが、今この場所にいるのは双羽と夕依の2人だけだ。
「……」
「……」
が、しかし両者喋らない。元々無口な方である夕依はともかく、いつもなら独りでも騒いでそうな双羽まで何故か無言でただそこに居るのみ。だんだん楽になってきたといえまだ頭痛は残っているので、この静寂も悪くはない。悪くはない、のだけれど。
こうなると、視界を閉ざしている夕依には周りの様子がさっぱり分からないのだ。しょうがないのでうっすらと目を開いてみるが、見えるのはなんだかビニール質な天井のみ。そりゃまあ仰向けに寝転がっているのだから当たり前ではある。
「…双羽」
「なーに?」
まだ続きそうな静寂を破ろうと、双羽の名を呼んでみる。思いの外返答は早かったものの、いかんせん次の言葉が続かない。特に何か用事があったわけではないのだから。
「…どしたの、カナちゃん?」
「あ…えと、今居る、場所…」
なんだか不審がられてしまったため、慌てて質問を取り繕う。よくよく考えてみれば、今現在の状況はさっぱり分かっていないのだ。この機会に聞いてしまおう。
「あ、ここ? これねー、あの客船に付いてた緊急救命ボートなんだってさ」
「救命、ボート…」
「船の底に穴開いてさ、機関室が浸水しちゃったとか何とかで船が動かなくなったんだ。それでね…」
朝美と船員たちとの交戦により発生した水の流入は、結局船底より3つ目の階層を床下浸水させたあたりで鎮静したそうだ。おかげでこの船の動力を発生させる装置が水にやられ、動作停止状態に。一応乾燥させれば復旧も可能とのことだが、装置自体が水面下の部屋に固定されているため現実的でない。
結果、乗っていた人は乗員含め船を放棄することとなった。この船の救命ボートには、緊急戻港機能とかいう機構が備え付けられているらしい。なんでも、漂っていれば自然と直前寄港した港へ近づくという便利機能なんだとか。船が動かない今、とりあえずそれを用いてユヒナ港まで戻ることと相成ったのだ。単独で漂うのは流石に危険だが、これだけの集団ならまあ無事に戻れるのではないか、とのことだった。
「ちょっとだけ後戻りになっちゃったんだよねー」
一応定期連絡船代わりだったこの船が大破したことで、しばらくユヒナ港からゲィヌシンへの湖上ルートは使えない。そこの復旧など待っていては、ベンフィード公国へ辿り着くのはいつになるやら。ここは湖の外周を回り、他の港を経由する方向で予定を組み直すべきか。
ほとんど癖でこの先の旅程を考える。双羽の説明を聞きながら湖岸の都市を思い浮かべ、人伝に聞いた話から行き先を絞り…
…そうする内に、夕依はまた自然に眠りへと落ちていったのであった。
……
…次に目を覚ましたときには頭痛も治まり、夕依は初めて自分の乗っていた救命ボートから外を見た。そこで見た緑一色のゴムボートの群に軽く圧倒されたのは記憶に新しい。乗客・乗員は寄り添い、一つの船団として動いていた。
降伏の意を見せたことで、とりあえずはアーサミー盗賊団も同行。港に着いた時点で町の警備隊に引き渡され、処遇が決定されるとかいうことだったらしい。これと決まった法律のようなものは少ないが、町毎にある程度原始的な司法施設は存在するのである。
…そうやって、丸一日ほど航海したときだった。予兆は無かった、と思う。もし仮にあったとして、一体誰があんなこと想定できただろうか。
ちょうど昼食時で、一行3人に朝美を加えた4人がひとつのボートに集まっていた。朝美の今後の旅への同行については華月、双羽共に快諾したのだが、どちらかと言えば彼女がアーサミー盗賊団の首領であることがネックであった。扱いとしてはこの件の主犯なのだ。そのままはいサヨナラというわけにはいかない。幸い死人は出なかったこと、ユヒナが貿易港であることを考えるに、恐らくは罰金刑を言い渡されるだろう。ここは素直に罰を受け、色々と精算した上で旅立つべきだと。
…はっきりと覚えている。そういったことを話し合い、さて他の盗賊団員にもそのことを伝えてくる、と屋根付きボートの出入り口をくぐった朝美。その彼女が、にわかに固まった。一生に一度見れるかどうかの珍しい光景だった。
次いで、それ不審がった双羽と華月が後ろから外の景色をのぞき込み、以下同文。待ってても事態が動きそうになかったので夕依も、以下同文。
視界には、遙かなる水平線。流れる水と青い空、吹き抜けるちょっと潮っぽい風。それらは今、この船が高速で動いているということを示していた。無論、ゴムボートと思しき緑色なんぞ足下以外にゃどこにも見えない。…こうして、夕依たち4人はめでたく遭難者となったのであった。
因みに後ほど船を調べた華月曰く、緊急戻港装置が誤作動を起こしていたらしい。通常ならば方向の補正を行うだけの装置が、何故か全出力であらぬ方向に向かって推進していたのだそうだ。おかげで装置は燃料切れ。方角すら分からず波に揺られて流されて、そんでもって冒頭へ戻る、と。
幸い食料は大量に積み込んでいたので、数日間なら餓死する心配は無い。すでに遭難開始より丸一日ほど経過したのだが、まだまだ余裕がある。今は見た感じどうも双羽が哨戒に出ているようなので、特にやることも無いだろう。
…暇潰し代わりの回想も終えてしまったため、夕依はもう一度眠ることにした。正直眠たくはないが、それでも横になる。この薄いビニール状の感触にももう慣れてしまった。目を瞑り、思考を空に。
ボートの底を通して伝わる波は、変わらず柔らかな羽毛の如く彼女を包み込んでいた。