第壱話 起床天青・めざめて そして
「…ん?」
なんだか、眩しい。確か、部屋のカーテンはいつも閉めてあるはずなのに。姉が起こしに来たのかとも考えたが、今日は休日だ。特に、用事も無いはず。…というか、昨日家に帰った記憶が無い。よほど疲れていたのか。
そんなことを考えながら目を開けた双羽の、寝起きで霞む視界いっぱいに草原が広がっていた。どうやら木か何かにもたれているらしい。
「え…えーと…?」
状況を整理してみよう。双羽は昨晩、お使いへ行っていた。そして起きたら草のベッドに木の枕、そして澄んだ青空がお出迎え。
「意味分かんないよ…」
多分、ここで意味分かる人間は極希少だろう。
と、混乱しつつも、とりあえずは周囲を見渡してみることにする。
「このままぼーっとしててもしょうがないもんね…」
ふぅ、と息を吐きつつ、青空を仰ぐ。…太陽が二つ見えた気もするが、まあ気のせいということで一時保留。
そのまま右に視線を落としてみれば、正面と同じく見渡す限りの草原が広がっている。左手には、森。…とおぼしき緑色が広がっていた。いやしかし、樹木というのはあそこまでねじ曲がって生えるものだっただろうか。
よっこらせ、と立ち上がり、持たれていた木の裏手に目を向ける双羽。左手の森はこちらまで続いていた。森の途切れた先にはうっすらと山のようなものが見える。
立ち上がったことで分かったのだが、どうも自分の着ているものまでなんだかおかしい。残念ながら双羽、こんなゴツゴツした生地の丈夫そうな服を買った覚えは無い。まるで真面目に登山でもするかのような出で立ちではないか。
そうやって服装を確認したところで、ふと気になって木の裏側をのぞき込んでみる。…木の根本部分に、やたらとカクカクした黄色い物体がでんと鎮座していた。一昔前のポリゴングラフィックのような、多角形の集合体だ。全体が黄色っぽいが、黒い縞模様が表面に浮き出ている。もう少しよく見ようと双羽が首を伸ばした、そのとき…
「…ん?」
「…ガゥ?」
黄色の物体と、目があった。両者、一時停止。後、黄色の物体が動き出す。持ち上がった“頭”に、黄色い三角ふたつ、赤い逆三角がもうふたつ。反対側からひょろりと飛び出てきたのは、尻尾だろうか。…このフォルムには、見覚えがある。
「…虎?」
「ガゥゥ」
全体に角張ってはいるが、確かにこれは虎だ。全長おおよそ3メートルくらい。立ち上がったそれは、四本の足でもって双羽と同様の高さに頭があった。
「でっかいね…」
「ガゥゥゥ…」
まるで返事でもするかのように唸る虎。しかし、その声から親しみは感じられない。かといって敵意があるわけでもなく、何というか、これは。
「えっと、…おなか空いた?」
「ガゥ」
肯定にも聞こえる一鳴きの後、虎は無造作に口を開けた。その鋭利な牙を目にし、この異変によって麻痺していた双羽の神経がやっとこさ復活する。曰く、このままじゃ食われるぞ、と。
「わぁぁっ!!」
「ガゥ、ガァァッ!」
間一髪、とびのいた双羽の髪を掠める真っ白な刃。それを努めて視界に入れず、双羽は先ほど見た周囲の景色を思い出す。逃げ場は、続く平原か変な森。虎なんでジャングルとかは得意そうだが、まこと残念ながら双羽に平地で野生動物と徒競走するほどの走力は無い。ここは素直に、森へ全力ダッシュ。
「う、うわあぁぁっ!」
「ガゥ、ガゥウ」
まるでこちらに合わせるような速度で追ってくる角張り虎。どうやら、こちらを完全に“獲物”と認識しているようだ。間違ってはいないが今のところありがたい。本気で追いかけられてしまえば、森へたどり着くことすら夢物語だろう。
「ガゥ、ガゥウ、ガゥガゥ」
「わっ、とっ、わわわっ」
こうして、双羽の冒険は命がけの追いかけっこと共に始まったのであった。
……
少しばかりの時を経て、場所はあのとき見えてた森の中。
「えーっと、と、虎さーん…」
「ガゥ」
「ぼ、僕を食べてもおいし…くないと、いいなぁ」
「ガゥゥ、ガゥガゥ」
案の定、ねじ曲がった木を背に追いつめられている双羽がいた。一応まだ左右に逃げられないこともないのだが、彼の残り少ない体力がこれ以上の逃走を許さない。そもそもここまで逃げ切れたこと自体わりと奇跡だ。目覚めた場所から見て、この森まではそこそこ距離があったように思えたのだが。
「ガゥ、グルルルル…」
「わ、わわ…」
野生動物にとって、疲れきった獲物はご飯と同義。いただきまーすと歩み寄る虎もどきを相手に、双羽は悟った。
ああ、食われるな、と。
これは子供一人の力で何とかなる状況を遙かに越えている。まだ自分の身に何が起きたのか考えることすらできていないのだが、残念、どうやらこれまでのようだ。
「空でも飛べたらなぁ…」
それならば、とりあえずここで食われるという事態だけは回避できそうなもの。まあ、出来もしないことを願ってもしょうがない。
ため息と共に俯いた双羽は、自分が右手に持っている物体に気づいた。
「ガアァッ!」
同時、飛びかかってくる虎もどき。反射的に右手の物体を前方へと突き出す双羽。突然の反撃に戸惑ったのか、虎もどきは軌道を変え、襲撃を中断する。おかげで双羽は今自分を僅か延命させた物体を観察することができた。
「…箒??」
箒だった。どちらかというと庭掃除とかに使いそうな、魔女とか乗ってそうな、そんな箒。ただ違うのは、全体が金属で構成されていること。先端部分の毛の一本まで滑らかな針金になっている。あと、箒にしては妙に長い。そして見た目以上に軽い。
そんな銀の箒が、いつの間にか双羽の手の中に出現していた。
「ガウゥ…」
のんびりと観察している間に、再び虎もどきが臨戦態勢を取っている。相対する双羽の手には、先述の通り箒が一本。
…野生動物を相手取るには少々心もとない武器だが、まあ無いよりマシだろう。先手必勝とばかり、思い切り箒を振り抜く双羽。もちろん、虎もどきはひょいと軽々避けたわけなのだが。
「…あ、あれ?」
しっかり遠心力を受けた箒は、軌道そのまま、空へと舞い上がったのだ。無論、柄をしっかりと握っていた双羽も一緒。獲物が急に制空圏を脱してしまい、焦った虎もどきの鳴き声が聞こえる。
箒はそのまま上昇を続け、奇形の木々を超えたあたりで停止した。仮に虎もどきが木を上ってきても、ここならば届かない。それを確認したうえで、とりあえず双羽は箒の上へよじ登ることにした。さすがにぶら下がりっぱなしはキツいものがある。
…四苦八苦の末、なんとか箒に跨ることに成功した双羽。本来懸垂の類は苦手なのだが、不思議とこの箒から落ちる気だけはしなかった。
「…わぁ、すっごい景色…」
どこまでも続く青空と、緑の草原。その境界線には先ほど見た山脈が裾を伸ばしていた。この森は大した広さではないらしく、どちらを見ても似たような景色が続いている。
しばらく雄大な景色を楽しんでいた双羽だったが、ふと思うことがあった。さっきから足下で吠えてる虎がうるさい、ではなく。
「これからどーしよ」
…景色を眺めたことで判明した事実。すなわち、今日中に家へ帰りつける可能性がほぼゼロとなってしまったことについて、だ。見た感じ電車が走ってそうな気配は無い。というか、そもそもここはどこなのだろう。日本にこれだけ広い平野があったのなら、人口密度なんてそう社会問題にもなっていないはず。ならば、考え得る可能性は二つ。ここは日本ではないどこか別の場所なのか、もしくは夢幻の類か。
「…いでで」
常套手段ということで顔の一部を抓りあげては見たものの、やっぱり痛い。夢の線は無さそうだ。かといって、ここが家から遙か遠いどこかというのも信じがたい話ではある。ワープ航法なり時間移動なりできるようになった覚えはない。あとそろそろ目の錯覚とも言い難いあの太陽、いつから分身の術を修得したのだろう。
結論、なにがどーなったのかさっぱり分からない。
「…とりあえず、動こっかな」
ここで悩んでいても何かしら解決する見込みは薄そうだ。とにかく動かなければ、比喩表現でなく日が暮れる。
「この箒って、やっぱり飛べたりするのかな。うーんと、…進め!」
すす、っと、箒は滑るように動き出した。やはりあれだ、これは魔法の箒とかそういう類のアイテムなのだろう。
そのまま加速を続け、周囲の景色が流れ始める。異様に安定した重心もあって、念じれば念じただけ箒の速度は上昇していく。…非常に、楽しい。
風の抵抗を避けて伏せ、しかし視線はきょろきょろと風景を楽しむ。緩やかに流れていた景色、それが速度により溶け始めた頃になって、双羽はほとんど前方に注意を払っていなかったことに気が付いた。まあこの高さならそうぶつかる物も無…
「う、わぁっ!!?」
…間一髪、一本高く伸びた木を避ける。あまり左右に枝を伸ばしていない木で助かった。
「も、もーちょっとでミンチに…」
そこそこ的確な予想だろうが、自身の末路についてそんな形容詞を使う人間も珍しい。
「…ふぅ、危なかったー。安全運転、安全運転」
気を取り直し、双羽は景色が認識できる程度の速度で飛ぶことにした。これでも歩くよりは相当早いはずだ。何度か眼下を謎の生命体が通り過ぎているのを見るに、徒歩ならば命の消耗は10や20で足りなかっただろう。この箒には感謝感謝である。
流れる景色と生き物を楽しみながら、ゆるり空の旅を続ける双羽。この地で初めての出会いがすぐそこで息を潜めていることに、彼はまだ気づいていない。