第零話 序話発端・ぷろろーぐ
質量を持つかのように広がる闇。手を伸ばせば真っ黒な塊の掴み取れそうな、そんな、漆黒の中。黒い空間を伝い、微かな音が聞こえてきた。
「…イヲ、ラムツヤハヒウ…」
囁き声だ。何者かが、この闇を小さく震わせている。
「…イヲフサニコツヌシウィラ、スソ…」
ふわり、と。人が、闇に浮かんだ。どこかから光が射したわけではない。ただ黒かった世界に、人の姿が描かれたのだ。
「…イイヲハヤナヨツウィクマケティアササハトシクモナラムキウィイト…」
浮かび上がったのは、青年。長身、かつ金髪。そして彫りの深い顔。赤いマントのような物を全身に被っている。
光が、増した。青年に近い場所から、だんだんと白くなる。白く、白く。
「…イイヲハヒアカイウフネゼ“アルナクス・ラックドルサ・カーリナグム・ベンフィード・テリクァ”ヒウ」
青年が、初めて言葉を切る。その体から純白が溢れ出た。それは、ただ白く辺りを染めあげてゆく。
白い世界の中で一人、青年は笑みを浮かべていた。
……
9月の初め、残暑もなりをひそめる午後の9時。夜道を歩く小さな影がひとつあった。街灯に照らされたその影は、見た感じ小学生高学年な少年だ。
「…見ちゃだめ見ちゃだめ見ちゃだめ…」
なにやらぶつぶつ呟いているが、決して不審者ではない。不審だが。
…この少年、名を把臥之 双羽という。少し見られない珍しい名前の持ち主だ。ちなみに現在、すぐ近所のコンビニへのお使いの帰りである。ちなみに住むのも目と鼻の先な住宅地だ。
と、彼の右手にある空き地を風が吹き抜けた。廃材やら何やら放置されている場所特有の、掠れるような風音。
ひっ、と小さく悲鳴を上げた少年は思わず振り向き、見てしまった。先より全力で目を逸らしていた、ある物。
「い、いぎゃああぁぁぁ…!!」
…数ヶ月前よりこの広場に捨てられている、“お化け屋敷の看板”を。オドロオドロしく、を目指してむしろ滑稽な緑の顔を背景に、ペンキを垂らした以外に表現の見つからない赤字の“お化け屋敷”。幼稚園児でも半分は指さして笑いそうな看板に背を向け、少年は飛び上がるようにして全力ダッシュを開始する。
「わああぁぁぁはぶぇっ!?」
「おぐっ!?」
3秒後、曲がり角にて人に激突。前も見ずに走っていたのだから、まあ仕方ないことだが。ここで車に曳かれたり電柱に突っ込まないだけマシだろう。
「ちょ、っとアンタ、前見て走り、って、双羽?」
「…お、お姉ちゃん!」
さらに、どうやらぶつかった相手の人物、少年の姉だったようだ。歳の頃17、8ぐらいだろうか。髪さえ短ければ男に見えなくもない、と口が滑れば地獄を見かねない雰囲気をまとっている。そんな彼女は把臥之 朝美。見ての通りチキンハートな弟とはうって変わった豪傑な女性である。
「ふぇぇ、怖かったよー」
「またあの看板? 双羽、アンタちょっと怖がりすぎでしょ」
「だって、だって、お、お化けの顔描いてて、風がビュー、って…」
「意味分かんないわよ」
未だガタガタ震える双羽。確かに夜道というのは多少なり恐怖の対象ではあるのだが、この反応は少々行き過ぎな気もする。しかも…
「アンタももう中三なんだから。こんなことでいちいち怖がってちゃダメよ」
「怖いものは怖いんだもん!」
「んな力説されてもねぇ」
…しかもこの双羽という少年、実はもう中学生なのである。それも後半年で卒業、な15歳。少なくとも街灯の立つ夜道を真面目に恐怖する年齢ではないはずだ。しかしその幼い容姿、言動に相まってそれほど違和感が無い、というのも事実ではあるから問題である。
「さて、双羽もう帰るんでしょ?」
「…え、お姉ちゃんは帰らないの…?」
「アタシは今家出たところよ」
「うぅ、お姉ちゃん着いてきてくれると思ったのに…」
「すぐそこなんだから、ひとりで帰りなさい」
「…はーい」
こんな姉弟ゆえ仲は良いのだが、姉には姉の用事がある。それに実際家はすぐそこだ。距離にして100メートルも無い。ゴネる弟の背を押し、姉は友人宅へと足を向けた。明日のテストに備えて貸しているプリント類を回収しなくてはならない。絶対必要というわけでもないのだが、直前の見直しには有用なのだ。
テストの範囲やら何やら思い出しながら例の看板の前ほどまで来た朝美だったが、そこでふと双羽が気になった。振り向くが、もちろん彼の姿はすでに曲がり角の向こう。見えるわけもない。自分の行動に首を傾げつつ、角に背を向ける。
…そんな彼女の、視界の外。ちょうど今双羽のいるであろう場所を、街灯とは違う薄い白光が照らす。夜の街に似合わぬ薄い光は、しかし誰の目に留まることなく、闇へと溶けて消えた。