夢の散歩
真上から眩い光を放つ満月が、川沿いの暗い歩道を薄く照らしている。
いくら真夏でもこの時間になると少し肌寒い。上にもう一枚着てきたほうが良かっただろうか。しかし、今から取りに帰るのも面倒だ。僕は寝巻きのポケットに手を突っ込み、そしてゆっくりと歩き始めた。
辺りはしんと静まり返っている。特にこの辺は田舎という訳ではないが、川沿いまで来ると人々や車の通りも少ないので、大通りの喧騒が嘘のように、静けさが辺りを包んでいた。
それにしても、今宵は一段と静かだった。自分の足音のほかは殆んど何も聴こえない。風もなく、ゆるく流れる川水の音は息を潜めたように静謐だった。
こうも音の無い空間を一人歩いていると、モノクロ写真みたいに、目の前の世界が色を失っていく感覚に襲われる。目の焦点がうまく合わず、視界はだんだんとぼやけ、景色が灰色に滲む。
――ここは、どこだろう……
手足にも違和感が現れ始める。まるで自分のものではないみたいに肢体が動いている。手足の先は痺れたようになり、筋肉は硬直している。
頭に霞がかかったように、思考がはっきりとしない。半ば呆然としたまま、無意識に身体が進んでいく。
次第に、全身の感覚が消失していく。まるで宙に浮かんでいるような気分だ。
――そういえば、この感じは……
五感の機能が急激に失われて、もはやどこからどこまでが自分の身体なのか感じ取れない状態だった。かろうじて意識を保っている視覚は、目の前の景色を「映像」としてしか認識できなかった。深夜の川沿いをあてもなく前進する「映像」を、自分は見せられているのだ。
そう思った時、「映像」に一人の少女が映りこんだ。
川をまたぐように架けられた歩道橋の真ん中に一人、ぽつんと佇んでいる少女。ちょうど真上に浮かぶ満月の光が照らし黒く塗り潰されたシルエットに、白いワンピースと真っ白な素肌が、暗闇とのコントラストで一層、際立って浮かび上がる。
彼女はこちらに気付いていないようだ。何かを見つめているわけでもなく、両眼を虚空に向けている。全く生気が感じられないその瞳に、僕は少し鳥肌が立った。
――あの子は、誰だろう……
前進していた「映像」が突然停止した。どうやら僕は立ち止まったらしい。しばらく橋の上の少女を見つめていると、ふいに少女がこちらに顔を向けた。
透き通るような白い頬。ほんのりと赤に染まる唇。人形のごとく整った顔立ち。真っ直ぐ切り揃えられた漆黒の長髪。顔立ちは、ちょうど僕と同じくらいの年のようだ。
名も知らぬ少女に、我を忘れて魅入っていた。その面影に、記憶の片隅にあった何かが頭をよぎる。確か、前にもこれと同じような経験をしたことがある。しかし、ぼやけた頭は記憶の縁を掠るのみで、イメージはすぐに霧散してしまう。
その時、少女が微かに口元をつり上げ、微笑みを浮かべた。
――あの笑顔、どこかで……
その瞬間、強烈なデジャヴが頭を駆け巡る。
満月の光、川沿いの道、無音、モノクロの世界、手足の痺れ、朦朧とした意識、歩道橋、そして少女。
重複したイメージが脳内のパノラマに連続する。同様の情景が無数に織り重なり、強いめまいを覚える。
――見たことがある、この景色……
少女がゆっくり手を上げる。肩先で弱々しく、こちらに向かって手を振る。
それに呼び寄せられるように、「映像」が再び前進を始める。歩道橋の元に辿り着き、階段をゆっくりと登っていく。一段、一段、確かめるように登っていくが、両足に感触は伝わってこない。感覚はすでに遮断されてしまっているのだ。
歩道橋の上まで登り切ると、少し向こうに少女が立っているのが見えた。
少女は裸足だった。ワンピースの裾から伸びる両脚が異様なほど白く、とても血の通っているようには見えなかった。
僕は少女の顔を見た。両眼がこちらをじっと捉えている。射抜くような視線に足がすくむ。
少女はしばらくして、やおら腕を浮かすと、手摺りの向こうに広がる川を指差した。
つられてそちらに目を向ける。川の水面に何かが浮かんでいるのが見えた。
それは、一足の靴だった。小さい女の子が好んで履くようなピンク色の靴。それが、川の流れに揺られて寂しげに漂っていた。
僕はふと少女が裸足だったことを思い返した。
――もしかして、君の……
少女はやはり反応を示さない。いったい、自分は声を発しているのか、心の中で呟いているだけなのか、その判別さえつかなかった。
仮にピンク色の靴が少女のものだったとしても、すでに靴は橋から遠く流されている。とても泳いで取りに行ける距離ではない。
そもそも、僕は泳げないのだ。
――あれ……
再び、微かなデジャブが頭をよぎった。前にも、この場所で同じ事を考えたような気がする。記憶の欠片が僅かに震える。
僕がまだ小さいとき、学校帰りの途中に、よく妹とこの川沿いの道を歩いた。妹は僕の一つ下で、学校が終わる時間もほぼ同じだったので、一緒に帰ることが多かった。
途中には、川の両岸を繋ぐ大きな歩道橋が架けられていて、いつもそこを渡って帰った。夕暮れ時になると、歩道橋の真ん中から見える夕陽が、海の向こうに広がる地平線に隠れる瞬間を見ることができた。妹はこの光景がお気に入りで、日没の時間を見計らって、この場所に僕を連れて行った。いつしか帰りしなに2人でそれを眺めるのが習慣となっていた。
ある日、いつものように二人で夕陽を眺めていると、あっと妹が声を上げ、川の一点を指差した。一足の靴が川の真ん中にぷかぷかと浮かんでいた。小さい、ピンク色の子供靴だった。
日没がそろそろ訪れる時間だったが、妹の好奇心はそれに勝った。歩道橋を勢いよく駆け降りて、川沿いの手摺りにつかまると身を乗り出した。
僕は慌ててあとを追いかけた。階段を降り切って振り返ると、そこに妹の姿は無かった。
バシャバシャと水が跳ねる音が響いた。嫌な予感がして、急いで手摺りに駆け寄った。
妹が必死に手をばたつかせて、僕に助けを求めていた。その手には小さな靴が握られていた。
気が付いた時には、すでに川に飛び込んでいた。しかし服が身体に張り付き、筋肉は硬直して手足の言うことが利かず、上手く泳ぐことができない。妹の身体がゆっくりと沈んでいくのが見える。力いっぱい腕を伸ばすが、あと少しのところで届かない。
その時だった。間近で聞こえる妹の苦しげな声を掻き消すように、川底から地鳴りのような少女の笑い声が、辺り一面に響いた。僕は思わず伸ばした手を引っ込めてしまった。
その瞬間、握り締めた靴と一緒に、妹の身体が一気に川底に沈み込んだ。
僕は我を忘れて水中に手を伸ばしたが、すでに妹の身体は水中に没し、それから二度と浮かんでくることは無かった。
人通りの少ない場所のせいか、救助されたのは妹が沈んでから大分経ってからのことだった。僕は救助されたあと近くの病院に搬送された。警察はすぐに妹の捜索にかかった。しかし、川の水深が比較的浅いにもかかわらず、死体はおろか所持品さえ見つけることができなかった。数週間に及んだ捜査は、行方不明という形であえなく打ち切られた。
両親のいたく嘆き悲しんでいる姿を見て、僕は自身を責めた。どうしてあの時、あと少し手を伸ばす事ができなかったのか。なぜ妹を、助けられなかったのか。
僕はその日から、泳ぐことができなくなった。
――そうだ……
思い出した。この場所はまさに、妹と二人で夕陽を見た場所であり、そして、妹を失くした場所だった。
途端に意識が「映像」へと戻った。少女の白い顔が、すぐ目の前で僕を見上げていた。口元には、先ほどと同じ微笑が貼り付いていた。
ふと遠くの方から、かすかに少女の笑い声が聞こえた。その声はだんだんと大きくなり、辺りに広がっていく。
――同じだ……
妹が溺れている最中に聞いた笑い声。それは、まさしくあのときの声だった。
過去の忌まわしい記憶が呼び起こされる。胸が締め付けられるように苦しくなる。
気が付くと、少女が大きく口を開けて肩を揺らしていた。まるで笑い声に同調するかのように。少女自身の笑い声であるかのように。
――やめてくれ……
めまいがさらに酷くなり、頭がクラクラする。「映像」が薄ぼんやりとして視界が滲んでいく。
少女の笑い声は数を増し、いつしか大合唱となっていた。僕は薄れゆく意識の中で、妹の笑い声がそこに混じっているような感覚を覚えた。
車が勢いよく通り過ぎる音が目前で聞こえ、あわてて顔を上げた。
そこは、いつもと変わらぬ川沿いの道だった。僕は手摺りに寄り掛かる格好でそこに立っていた。失われていた感覚がだんだんと手足に戻ってくる。
どれくらい時間が経ったのだろう。夜空はうっすらと明るみを帯びていた。随分と長い間、ここに留まっていたようだ。
背中から噴き出した汗が、夜明けの冷風に当てられて肌寒い。汗が顔にも垂れてくる。それは、涙だった。
何故自分が泣いているのか、よく分からなかった。ただ溢れる涙は止まらず、雫が地面にポツポツと落ちた。水音が心地良く耳を打つ。
そこで初めて、雨が降っていることに気付いた。
帰ろう。僕はそう思い、踵を返した。
雨足は次第に強くなっていったが、濡れるもの構わずにゆっくりと歩いた。過去の記憶を全て洗い流してくれるように。
そして、地面が乾くころにはまた、僕はここに来て川沿いを歩き、同じ少女に出会うのだろう。
いつまでも、彼女を忘れないように。